お江戸風流さんぽ道/杉浦日向子著

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お江戸風流散歩道

「お江戸風流さんぽ道」 杉浦日向子著
小学館文庫 2005年5月初版  定価571円

 「お江戸風流さんぽ道」(1998年)と「ぶらり江戸学」(1992年)を1冊にまとめたもの。

 著者はNHKの夜八時のマンガチックな舞台劇「お江戸でござる」で、最終場面に出演、江戸時代の風俗その他の解説を担当していた人、私は舞台そのものには興味がなかったものの、彼女の解説がはじまるころにチャンネルを合わせ、話を聞くことを楽しみにしていた。

 本書は杉浦さんの語り口がそのまま文体となっているため、知らぬうちに親近感をもってしまう。軽いタッチが冴えており、江戸っ子の一人から直接話しを聞いている印象があり、江戸時代の庶民の体臭がぷんぷん匂ってくるような気分に浸れる。著者の江戸時代、江戸っ子というものへの尋常でない愛着をそっくりそのまま写したような書物。

 1603年から1867年まで264年間続いた徳川時代(譜代大名を中心とする合議政治)、他国の影響を直接には受けずに生きていた江戸庶民の素顔がじかに伝わってきて学んだことも少なくない。

 以下、知らなかったこと、驚いたことなどを列記する。(  )内、および列記以外は私の個人的なコメント。

1.江戸人の四季折々の楽しみ:

 真冬は、男は枯野を散策する。氷の張った池や湖の表面を愛でる。

 冬を過ぎると、観梅を愛でる。

 春に入れば、桜を楽しむ。桜は満開時ではなく、散り際こそが風流との感覚。 夜桜を楽しむには満月の夜を待つほかはなかった。

 春が過ぎると、桃の花、大潮の日には品川沖で、潮干狩り。 新緑を楽しみ、ほととぎす、ひばりなどバードウォッチング。 そして、江戸食文化の嚆矢(こうし)ともいうべき、当時決して安くはないカツオをほうばる。(カツオはいま決して高値のつく魚種ではなく、やや不思議な感が否めない)。

 夏はホタル狩り、田んぼでのドジョウ獲り、庭での行水。(浮世絵の女の行水の場面が浮かぶ)。

 秋は月見。月が大好きだったらしく、月に関する言葉も多いし、俳句にも月を詠んだものが多い。紅葉刈り、虫の音、栗拾い、しいたけ刈り、芋堀りなど。

 ただ、11月に入ると、女性たちは歌舞伎顔見世興行に夢中。(江戸を訪れた外人が虫を売って歩く男のいることに驚いたという記録がある。そんな国は欧州のどこにもないからだが、別の話に、ある外人に鈴虫がすだく鳴き声を聞かせたところ、「Just only a noise!」(ただ、騒々しいだけ)とコメントしたという。このあたりは日本人の真骨頂で、他国にない個性)。

2.江戸人は駄洒落を好み、無駄を機智に変えて、遊びの文化とし、川柳を生んだ。その沿線上で、落語が誕生し、寄席の施設もでき、定例会が開かれるようになる。
 (講談、浪花節なども、そのころに栄た文化の一つであろう)。

3.花火のこと:

 徳川吉宗の治世時、享保の飢饉があり、多くの死者が出たため、供養目的で花火を打ち上げたのが隅田川の川開きに定着。花火の色は金、オレンジ、赤の三つ。大輪はなく、形は火の粉が尾を引く、細い花火が、名残惜しげな「しだれ桜」を想起させ、それを粋(いき)だとした。戦争がまったくなくなった徳川政権による平和の継続のなかで、火薬が戦争の代わりに花火づくりに使われた。

4.湯屋は社交場だった。番台の存在の意味は当時衣類によっては高価だったものがあり、人のものに着替えて盗むやつがいたための監視だった。二階で軽食がとれ、囲碁、将棋盤が用意され、武家も町人もすべて裸のつきあい、身分を超えた会話が可能だった。
 (お侍でもおいらでも、お風呂に入るときゃみな裸、裃(かみしも)脱いで、刀を捨てて、歌の一つも浮かれ出る・・・という歌を幼少時に叔父から聞かされたことを思い出す)。

5.江戸時代はみな太陰暦、日出と日没で時間を決めたためもあり、月への関心が高かった。曜日感覚はまったくなく、休日、平日の別もなかった。公の休みは盆と正月だけ。当時の人は「北斗七星」は知っていたらしい。
 (だからこそ、超嬉しいときには、「盆と正月が一緒に来たような」という表現が生まれた)。

6.家はほとんど12棟続きの長屋(大阪は4-8棟だが、これは人口の差)で、家は寝るだけのもの、井戸は一つで共同使用(井戸端会議、情報交換の場)、町中の屋台でメシを食い、湯屋の2階で人とつきあい、髪結い床の土間でミーティング、日用品は行商人から買う。

7.「宵越しの金はもたない」心情は火事や地震があれば一夜ですべてを失う経験から培われた気質。

8.日本人の「一日に三食」は江戸後期以降のことで、それまでは二食が普通。

9. 江戸前のグルメ: うなぎ、そば、握り寿司、てんぷら。

 かばやきは江戸はどんぶりで、上方はお重を使った。
 (蒲焼に関し、現在でも、大阪以西は蒸さずに焼くから、まるでゴムといった味覚で、初めて食べたときは驚いた。沖縄にいたとき、部下を連れて東京を訪問、東京の蒸す蒲焼を食べさせたところ、「東京方式のほうが美味ですね。口のなかにトロケルようですね」と、感嘆していた言葉が今でも耳の底に残っている)。

 現在の握り寿司は江戸幕末ころに完成。握り寿司は板前による仕事が早いため、短気な江戸っ子に受けた。握る、出す、食うという三点が連続的に行われ、それを江戸っ子は評価した。
 (回転寿司ができるまで、どんな寿司屋にも価格を表示したメニューというものがなく、食べたあと請求が幾らくるかという不安をもち、こんな国は世界中にないと私は憤慨したものたが、こういう非合理を許した背景はやはり江戸っ子の気風というものであったろう)。

 当時、マグロは「下魚」といわれ、トロは「猫またぎ」といわれて棄てられた。

 (戦後、米国に渡った日本人も米国の魚市場でトロが棄てられるのを目にし、「猫の餌にしたいからくれ」といってもらったという話があり、度重なるうち結局は「これはおかしい」と見破られ、かれらも棄てなくなったという。同じような話はマツタケにもいえ、シアトルに入植した日系人が季節がくると山に入り、マツタケ刈りをし、場所は秘密にしていたが、これも結局は見つかってしまい、米国人の一部はマツタケの美味を知ったと聞く。とはいえ、米国のマツタケは湿り気が薄く、日本のものほど美味ではない)。

 蕎麦は江戸中期に出たが、一世を風靡した。江戸っ子の好きな食べ物第一位。(せっかちな江戸っ子には、うってつけの食材だっであろう)。

 「そばを打つ音も馳走の数に入り」という俳句は短気な江戸っ子が蕎麦が打ちあがり、茹であがるのを待っている風景だが、当時の蕎麦は量が少なく、間食か嗜好品の類だった。 (最近、蕎麦屋のメニューに「ざるそば」はあっても「もりそば」が消えている店が多いのは何故だろう。老人が増えている昨今、ざるそばよりも量の少ない「もりそば」は必ず、老人たちに喜ばれるはずだ)。

 てんぷらはポルトガル語の「テンポウテ(調理する)」か、オランダの「テンプル(教会)」からの外来語。

10.男の子が振袖を着て、髪の毛を女のようにしている浮世絵があるが、これが江戸のファッションだった。

 (欧米の博物館には日本セクションというところがあって、印籠、刀剣、鎧、浮世絵、陣羽織、大判小判、有田焼、九谷焼などがこれでもかという具合に展示されていて、見るたびに不快感が増し、思わず「ドロボー」と叫びたくなる。アメリカのボストンでも、セントルイスでも、いずれの博物館の日本にかかわる陳列物に例外はなかった。 とはいえ、エジプト、中近東、中国のシルクロードなどに存在した遺跡をイギリス人やフランス人がもっていったおかげで、現在もそのときの色彩のままが訪れる者の目を楽しませてくれることは事実で、そのままにしておけば盗掘に遭い、破壊され、それぞれが散り散りになっていた可能性もある)。

11.花魁(おいらん)はいまでいえば、主演を何度も経験した女優に匹敵する。江戸では、そのファッションを素人娘が真似をしたくらいの、いわばファッションリーダ的存在。

12.江戸女はすっぴんの美しさを欲し、かつ愛でた。すっぴんで髪をひっつめにし、唇に紅をさす風景はこのうえなく洒落た雰囲気。上方の女は肌に白粉(おしろい)をべたべた塗りたくるのを好んだ。舞妓はいまでも同じ風習を踏襲している。

13.「粋」という字を上方(かみがた)では「すい」、江戸では「いき」と読んだ。江戸の「いき」は「意気」に通じ、「好風(いき)に通じ、「息」に通じていた一方、上方の「すい」は「吸う」に通じ、いろいろなものを吸収して「粋」を得るという志向。江戸の「息」は吐くときの息で、「棄てる」「こそぎ落とす」ほうに美学を感じ、それを「洒落」ともした。上方は「息を吸う」ように、なにごとも引っ張り込み、それを糧として生きるというイメージ。

14.江戸期、一部の裕福な男が複数の女を独占したため、庶民出の男は2割しか結婚できなかった。過当競争のもとで、男の子たちは女性に好かれるための努力をしたし、あぶれた男は人の女房に言い寄って積極的に「間男」(まおとこ)をした。そのことは亭主にとっても不安の種で、川柳に「ばか亭主、うちの戸棚が開けられず」というのがあり、これは戸棚にかみさんが間男を隠しているのではないかと亭主が冷や冷やしている実態をうたったもの。

 なかには間男をとっかえひっかえした女房もいたし、亭主を間男に乗り換え、間男からまた間男へと男遍歴をくりかえした豪の女性もいたらしい。
 (このような状況ならば、まえに書評した「ポリーアモリー」が可能だったのではないか。もっとも、この国にも一夫多妻の実態(たとえば妻妾を同居させるなど,妾をもつことが男の甲斐性だと評価された時代があり、公に認められていた事実を裏書してはいる)。

15.260年間に記録に残るものだけで600件の火事、うち大火は90件。明暦の大火(別名:振袖火事)では死者10万余。
 (幕末期に江戸を訪れた外人は日本人の家は木と紙と泥でできており、火事になるとすぐ燃えてしまう、なぜ材料を燃えないものに変えないのだろうかとコメントしている)。

16.1855年、安西の大地震は直下型の烈震(震度6)、震源地は江戸のどまんなか、10万以上の家が続いて起こった火事によって消失した。(当時、アメリカ初代の日本大使、ハリスは下田に居住していて、この地震のことを知っている。 ハリスの日記から類推すると、同時期、東南海地震も連動して起こっていたように思われる)。

17.江戸市内では庶民の識字率が平仮名だけは100%に近かった。全国では、40-60%。 江戸市内に寺子屋は4千軒、男女差別なく、町人にとっては職業訓練所を兼ね、基本的には礼儀作法を教えた。武家の多い町の寺子屋では教養を高め、知識を広めるための教育を行った。親たちはできるだけ厳しい師匠のいる寺子屋に子を預けた。 また、師匠3人のうち1人は女だった。

 子を叱るべきとき、師匠が直接叱ったり手を挙げたりはせず、学友がその子に代わって頭を下げ、侘びを入れる方式。当人にとっては、殴られるより辛かった。

18.江戸の人口は100万、1830年には120万で、世界で最大の人口密集都市だった。道路は表通りも、路地も清潔で、幕末に訪れた外人は例外なく驚嘆している。当時、日本全体の人口は3千万。

19.西鶴や近松が描いた「情」や「心中」は上方文化のもので、江戸の心中事件は、その場の「のり」で、いってみれば「なりゆき」で死んじゃったという、いわば事故死だったケースが圧倒的に多い。
 (とはいえ、心中そのものはこの国に特有の心理で、外国では韓国を除き、まず見られない。男女の心中はもちろんだが、日本や韓国における心中は子を巻き添えにするケースが多く、これが海外からは奇異であり、不可解で、批判を浴びている。「子は別の人格」という観念が欠落していると)。

20.高級武家は現在の千代田区内に、下級武家は四谷、向島、赤坂などに居住。(私の、亡くなって久しい祖母(明治生まれ)は九州のある藩の江戸家老の娘だったが、実家は千代田区内に3千坪の敷地をもっていたと聞いた。むろん、いまは跡形もない)。

 江戸文化は太平の世が続いたおかげで花開いた。浮世絵、川柳、俳句、歌舞伎、戯作、陶芸、木彫などの文化は、上からの圧政がなかったことを示唆している。

 同じ時期の欧州が戦をくりかえしていた事実と比べ、あまりに平和だったため、他の世界からの影響がなく、ある意味で、平和ボケの快楽主義がみてとれる。他世界に対する無知蒙昧がベースとなった土地に栄えた個性ある文化であり、写楽、近松、北斎、広重などの浮世絵が逆に欧州の画家に影響を与えたことは、考えようによっては皮肉なことだし、思わず笑みがこぼれる。

 ただ、科学的な志向はほとんど感じられず、たとえば、平賀源内が江戸の世に出たときも、研究内容に対する評価はお粗末というべきか、適正を欠き、ほとんど相手にされなかった。手先の器用な大工やカンザシつくりの職人による「からくり人形」などが精一杯の評価の対象。そうした姿勢が、幕末に至って未知(ペリー来航)に遭遇、パニックを起こした要因であろう。 未知に邂逅、遭遇して周章狼狽する心情は現在でも日本人にはある。

 わずかに伊能忠敬が日本中を歩きまわって、日本地図を完成させたこと、シーボルトの影響で、ようやく死刑になった囚人の腑分けが公認され、それに成功したことくらいが、いわば、科学的な志向がなくはなかったことを裏付ける証拠であろうか。

 若すぎる年齢で逝去した杉浦さんのご冥福を祈り、あわせて本書を残してくれたことを感謝する。


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