方丈記(全)/鴨長明著/武田友宏編

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「方丈記(全)」 鴨長明著  武田友宏編
角川文庫より2007年6月初版
編者の武田氏は1943年生、日本文学専攻、國學院大學文学部文学科非常勤講師

 「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住家と、またかくのごとし」で始まる長明の文を高校生の頃に暗記し、それからかなりの歳月が経った今も忘れることなく脳裡に固着している。

 それはちょうど、清少納言の「春は曙、ようよう白くなりゆく山際、すこし明かりて、紫だちたる雲のたなびきたる」にも、吉田兼好の「徒然草」にある「つれづれなるままに日ぐらし硯に向かひて、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」にも通ずることで、懐かしさのあまり手にとった。

 本書からは、鴨長明の生きた時代に「方丈記」のような無常観が書かれた背景が理解できる。

 1155年、鴨長明、下鴨の正禰宜(せいねぎ)、神職のトップの子として誕生。
 1156年、平家による保元の乱
 1159年、平家による平治の乱により平家は貴族から政権を武門に奪う。
 1165年、洛中大火
 1167年、平清盛、太政大臣となる。
 1172年、洛中大火
 1177年、安元の大火により多くが焼死。放火相次ぐ。彗星出現。

 本件につき、長明の一文を紹介する。

 火元は樋口富の小路とかや、舞い人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風にとかく移りゆくほどに扇をひろげたるがごとく、末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔(ほのお)を地に付けたり。空には灰を吹きたてれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれない)なるなかに、風に堪えず、吹き切られたる焔、飛ぶがごとくに一、二町を越えつつ移りゆく。そのなかの人、うつし心あらんや。或いは煙にむせびて倒れ伏し、或いは焔にまぐれて、たちまち死ぬ。或いは身一つかろうじて逃げるるも、資材を取り出ずるに及ばず、七珍、万宝、さながら灰燼となりにき。そのつひえ(費用)いくばくぞ。公卿(くぎょう)の家も十六焼けたり。まして、そのほかは数え知る及ばず。すべて都のうち三分の一に及べリとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬、牛のたぐひの辺際を知らず

 とあるが、死者数十人は少なすぎる。この大火について書かれた別の本によれば、数百人とも数千人ともあり、実数は判明しない。

 この大火によって京のインフラは崩壊し、首都としての機能は完全に麻痺したであろうが、長明の文章は真に迫って訴える力に満ちている。この大火は「火災旋風」と呼ばれるもので、大火に風が加わった場合に起こる、関東大震災時に起こった火事に酷似。

 1178年、洛中大火により大内裏延焼。平家が京都より神戸の福原に遷都を強行するも、翌年には京に再遷都。

 1180年、洛中に当時最大の竜巻。人屋多く倒壊、雹(ひょう)が降り、落雷あり。源頼朝、木曽義仲そろって挙兵。同年、彗星の出現。

 1181年、平清盛没す。翌1182年にかけ、大飢饉。餓死者無数。旱魃、台風、洪水など続き、長期にわたり食糧難が継続。朝廷の採った策は寺での祈祷のみ。(蒙古襲来の折りと同じく悠長限りなし)。

 「当時、物資の供給は地方に依存、都に入ってくる僅かな食料を貴族が独占、庶民の飢えをしのぐほどの量はなかった。(まるで北朝鮮の軍人)。同年には、飢饉が続いただけではなく、疫病が重なり、「被災者あらざるはなし」といった状況。餓死者の死体は至るところに放置、処理する人もなく、異臭が京の街全体に充満。ことに賀茂の河原には死体が山をなした。

 「飢えた人間はどこも同じだが、残っている家に押し入り、強盗、強姦、窃盗のみならず、崩れた貴族の家からは燃料用に木材を盗んだ。飢えれば、人間に公共心も道徳心も失われ、飢饉は生き抜くための武器なき闘争を誘発」と編者が解説しているが、武器を持った強盗、強姦も多発したとみるのが妥当であろう。

 京洛だけで43、200人が死者となったとは僧侶が数えたものというが、近郊の死者、離れた地域の死者を合わせれば、合計で10万人は下らなかったと見られる。天変地異があっても、この時代、正確な死者の数を把握することは困難だった。人口も、当時の京には、多くて2,30万人くらいだったのではないか。

 1183年、平家都落ち。木曽義仲、入京し、乱暴、狼藉を働く。洛中放火多く、地震もあり、群盗による狼藉、乱暴も多発。義仲、院御所を焼き払い、五条にて多数の人間をさらし首にする。

 1184年、長明、京から賀茂川に転居。暴風雨あり。木曽義仲、頼朝の命により、斬首のうえ、首を曝される。

 1185年、平家滅亡。同年、大地震、破損、転倒、崩壊、無傷のものなし。余震が連日のように続く。

 この年の巨大地震についての記載は以下。

 山は崩れ、大量の砂が河を埋め、海が傾いて津波が押し寄せ、大地は裂けて水が噴出し、岩が割れて谷底に転がり落ちた。大地が鳴動し、家屋は倒壊、家の中にいた者は下敷きとなりて圧死、外に出た者は地割れに落下して死亡。大地震のあとの余震は驚くほどの激しさをこめ毎日、二、三十回は続き、時間の経過とともに間隔は遠くになりはしたものの、およそ3か月にわたって人々は余震におびえた

 作者が常に羅災者の目線で事態を目撃していたことを示している。

 1190年、暴風雨により、賀茂川、桂川ともに氾濫。
 1192年、源頼朝、将軍家宣下。同年、実朝誕生。
 1193年、疱瘡大流行。
 1200年、水痘流行。
 1203年、源実朝、将軍となる。
 1204年、長明、出家して、大原に転居。
 1207年、洛中大火、同年、疱瘡が再流行。
 1208年、長明、日野の外山(とやま)に転居、「方丈の庵(いほり)」を結ぶ。
 1212年、「方丈記」なる。
 1216年、鴨長明没す。

 年次別の史実からも判るが、長明は若いときに数々の自然災害、天変地異、戦、疫病、大火などに接し、それが揺ぎない「無常観」を胸に刻むよすがとなったのだと推量される。

 「予(われ)ものの心を知りてより四十(よそじ)あまりの春秋を送るに、世の不思議を見ることややたびたびになりぬ」と長明自身が書いているが、さらに、「知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて何方かへ去る。また、知らず、借りの宿り、誰が為にか心を悩まし、何によって目を喜ばしめる。その主と住家と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは、露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或いは、花しぼみて露なほ消えず、消えずといへども、夕べを待つことなし」

 無常の変化と、ときには、変化が継続して特殊な現象を起こさせる理由は宇宙の、地球物理学の根本的な原理に基づくものだが、長明の時代、天変地異はすべて謎だった。それでも、彼は全身全霊を賭けて、これを理解しようと試み、人間として身の安全を図ることのできる場合のあることを知っていたし、そのために何度かの転居を実行した。

 河の流れを支配している目に見えぬ力、それが長明にとって無常観に達する核だったと編者は言う。人の盛衰も河の流れと同じことは、源平による戦を目のあたりにした長明には自明であったろう。人間の手ではどうにもならないものがこの世にはあり、それは「庶民にも貴人にも公平にやってくる」という信念であり、日本が生んだ12世紀の哲人と評することに異論はない。

 とはいえ、長明は「飢餓や地震に翻弄され、苦悶したはずの人々が月日が経つと、震災から得た体験を忘れ果ててしまう」と嘆いているが、これは「喉元過ぎれば熱さを忘る」という日本人特有の資質というべきか、自然災害は運命的なものとして諦めてしまう妙な潔さによるものだろうとは編者の言葉。ただ、痛い目に遭って忘れるのはいいが、痛い目に遭わせた他国の人まで日本人と同じように忘れてくれるとは限らない。

 また、和漢混交の文体に関しては長明が先駆者であり、後に平家物語にも、徒然草にも踏襲されている。

 ただ、「方丈記」が世に出るまでには40年がかかっている。1252年に出た「十訓抄」に紹介され、文人の目を惹いたという。

 自画自賛が多く、常に自負心の顕在だった長明も60歳を超えて、その著「わが人生の生き方」では「執心を捨て、命を一期(いちご)の月影の傾きに任せる」との穏やかな言辞を吐いている。

 戦後、阪神地域に大地震はあったが、京都で地震があったというニュースに接したことはない。方丈記による限り、12世紀には、数々の地震が京都で実際に起こっている。おそらくは南海地震であろう。あるいは東南海地震だったかも知れない。

 最近の地震では、福岡県の玄海島での地震、能登半島での地震などが記憶にあるが、いずれも、思わぬ土地で地震が起きたという印象だった。この国に居住する限り、どこにでも地震は起こり得ること、江戸時代の東海地震や南海地震、江戸の安政地震、明治以降の関東大地震、十勝沖地震、普賢岳火砕流、中越地震、北海道の離島が津波被害を受けた地震などの大きさばかりに気をとられていると、とんでもない土地で激震が起こる可能性を銘記すべきことをも、本書は暗に教えている。


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One Response to “方丈記(全)/鴨長明著/武田友宏編”

  1. 義仲弁護人 より:

    木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相
    いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉を働いたというのが平家物語その他の書物による通説になっていますが、これは平家物語やその解説者の捏造(つくりばなし)です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述出来ない。敗者については悪事を強調し捏造しても記述される。
    1.平家物語や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(北国下向の場面)
    2.平家物語延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(梶原摂津の国勝尾寺焼き払う)
    3.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
    4.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の記述がある。
     義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
    5.「吾妻鏡」には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。
    つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉を働いていた。平家物語は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その時庶民の乱暴狼藉を語る事は出来ない。
    「玉葉」は九条兼実の日記です。
    「吉記」は吉田経房の日記です。
    「愚管抄」は慈円の歴史書です。
    「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録(北条氏より)とされています。
    参照
    詳細は「朝日将軍木曽義仲の洛日」
    http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
    http://www.geocities.jp/qyf04331/
    http://asahishogun.cocolog-nifty.com/

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