インドでわしも考えた/椎名誠著

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「インドでわしも考えた」 椎名誠著  集英社文庫
1984年小学館より単行本初版
1988年1月 文庫化初版

 旅行業が専一だった私もインドにだけは行ったことがなく、かつ、行ってみたいと思ったこともない。 それでも、本だけは読んでいたから、わずかではあるが、知識がなくもない。

 書店に入った瞬間、平積みされた文庫本があり、そのうちの一冊が私の目に入った。手にとると、作者は椎名誠さん、「このタイトルで、この作者だったら、つきあってみてもいい」という気持ちで入手した。

 予測通リ、作者はインドの専門家の書くような妙な神秘や宗教を土台とした虚飾や、誇張もなく、と同時に、汚らしさや人間の狡さをかばいだてすることもなく、おのれの肉眼と感受性だけを頼りに、インドで見、触れ、経験し、考えたことを率直に表現するという手法に徹していて、おかげで、インドの一部に確実に触れたという実感が残った。

 最も印象的な言葉はインドを「虚栄と悪徳の資本主義との比較で見た」という下りで、そういう見方に決着した作者に、かねてから感じている正直で素直な人間性と同時に卓抜な客観性とを再確認した。

 解説者は「河童が見たインド」の作者、妹尾河童さんだが、彼がいうように「ヨーロッパと同じスペースの三角形の土地に、7億人近い(新しい統計では10億)、世界人口の20%が住み、1652種類の言語が存在し、貨幣には14種類の言語による金額表示をすることで国民を納得させたという国」である。(インドの貨幣を見たことはないけれども)。

 言語のみならず、種族も、文化も、宗教も雑多で、人間ばかりでなく、牛も、山羊も、犬も、歩きまわり、這いずりまわり、糞がいたるところに落ちている。半端でない暑熱と、人間や動物らの糞だらけの土地なら、だれもが怠惰で、暢気(のんき)で、だらだらしているのが普通だが、インド人だけは大人も子供もやたらに陽気で、快活で、すばしこいという様子からは、かれらの生活への必死な心構えが窺われる。人間は、どのような生活実態に置かれようと、産み落とされた瞬間から死ぬまで生きることに懸命なのだということを、あらためて認識した。

 そのうえ、カルカッタなどでは路上生活者(ホームレス/浮浪者)が200万人もいて、夜も昼もひしめきあい、外国からの訪問者だとわかれば、必ずあっというまに数十人のインド人に取り巻かれ、「おめぐみを」といって汚い手を出してくる。200万人すべてが路上で生まれ、路上で死んでいく事実からは、両親も路上でセックスをしたのだということだけでなく、彼らの先祖も、子孫も同じ路上生活者として生きてきたし、今後も生きていくことを暗示し、「世界に類のない土地」であることを納得させてくれる。

 また、地球温暖化がもっと進めば、太平洋の海抜のない島が沈む一方で、最高気温46度、高山を除く都会の最低でも40度前後というインド人からまず死ぬだろうことも予測させる。死ぬのがいやだったら、北の高原に移住するほかはなく、新しい居住地で生活が可能なのかどうかについて保証はない。

 現代の日本の若者なら、ほとんどが、街を見たとたん卒倒するか、即座に帰国に踏み切るだろう。 また、早いところ帰国しないと、免疫力の落ちている若い日本人は飲食したとたん、すぐ腹痛か下痢をを起こすだろう。

 「ガンジス河がインド人の生死のすべて」であり、「河の周辺はいたるところ死者があまりに剥き出し」という表現からは、イギリス人がこの国を植民地化したとき、イギリス人はかれらをどう見、どう考え、どう扱うべきかに当惑しただろうという想像にも結果した。むろん、ガンジーの無抵抗主義にも参っただろうし、参ったからこそ独立を認めざるを得なかったのであろうが。

 イギリスがインド人に阿片を栽培させた歴史、率先して鉄道を敷設した歴史は知っている。そして、鉄道だけは現在もなおインド人の便宜に役立っていることも知っている。(時折、一度の脱線事故で何千人もが死んだことのあることも)。

 本書は作者が予見を棄て、目撃し、接触し、感じたものにだけに的を絞った手法に徹したからこそ、未知の、それも計り知れないほどの雑多で埋めつくされた土地を見る姿勢とともに、その驚嘆や感動をそっくりそのまま読み手に伝えることに成功した要因だと感じたし、作者のたくまぬ姿勢に学びもした。

 また、写真が多く挿入されていることも、読者の理解を援けている。

 さいごに、薀蓄を若干披露するが、この国では毎年300万人の子供が餓死している。そのうえ、学校に行けない子も多いし、行ける子ですら、多くがノートなどもっていない。そういう国の人がソフトウェア技術者として世界を舞台に活躍している。

 その謎は、学校教育にあるというからまた不思議だ。といって、学校にパソコンが置いてあるわけではない。教師が必死に教えるのは数学であり、わが国では「9 x 9」までしか掛け算を教えないところを、かれらは「19 x 19」まで暗誦させる。

 椎名さんは買い物をしたときに経験したはずだが、どのような田舎の、どのような店でショッピングしても、従業員はつり銭を電光石火に計算し、決して間違えなかったはずだ。

 インドは世界で初めて「0」や「負数」を発見した国であり、数学に関しては全国民が自信をもち、だからいっそう力を入れて勉強させる。その結果、大人になってから初めて接するパソコンでも、それ自体がもつ論理を素早く手のうちにし、理解し、どこの国の若者よりも迅速に駆使できるようになる。(本ブログの「フェルマーの最終定理」からは、インド人は、アラビア人とともに記数法(算用数字)を考案して、数学を飛躍的に発展させたことを教えられた)。

 以上の薀蓄は、実は、次に書評を予定している藤原正彦さんの著作「国家の品格」からの受け売り。

 日本の若者がインドのコンピューターおたくに負けないよう明晰であることを祈るばかりだ。


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