知的な痴的な教養講座/開高健著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

知的な痴的な教養講座

「知的な痴的な教養講座」 開高健著
集英社文庫 1992年5月初版

 世界のあちこちの海を釣りして歩きまわり、戦争があればルポライターとして飛び出し、若いときはパリでさんざん遊び、そのうえ万巻の書によく目を通す。よくいえば「該博な知識」、悪くいえば「雑学の大家」、知的な痴的なとの表題ながら、いずれかといえば、男と女の話が大半を占めているという印象が読後感。それは、たぶん、男女の話をするときこそ、この作者の頭脳が鋭さを増し、文章に光彩を放つからであろう。

 とはいえ、並みの作家ではない。 軽いタッチのなかに人生の深遠をえぐる言葉が、ときに応じて、貌をみせる。

 「男は丸干(まるぼ)しじゃけん、女は開きじゃけん、乾きの早さが違うんよ」。たぶん、猟師がいったのであろうが、作者は続いて、「人間は汗、血液、精液、愛液、小便、すべてしょっぱい。なぜか? 海の子だから」は、この時代なら「言いえて妙」だが、現代では常識。子宮内の羊水も海水に酷似しているといわれる。

 (異論だが、男は確かに丸干しではあるが、射精後、即座の戦闘や外敵に備えるほど疲労が回復しているとは限らない。困憊して熟睡している男も少なくないことも事実)。

 フランスではセックスにおける絶頂感を「小さな死」と表現するそうで、それでも男は事後しばらくすると目を覚まし、活動を開始する。これは「石器時代から人類が朝となく夜となく危険にさらされていたころの情報遺伝がいまだにそのまま伝わっているからではないか」という。

 「快楽の後に、女には受胎、妊娠、出産という仕事があるから、ぐっすり眠らせなくてはいけない。一方、男は防御態勢をとって女の安眠を妨げてはいけないのだ」という。そして、この男女差は、上記した「丸干し状態のペニスと開き状態の女陰との違いに現れていて、男性の立ち直りを早くさせることに成功している」と。

 (これは西欧の白人種の精力的な強さに関連しているのではないか。女性にだって、ことがすめばぱっぱと服を着替えて、外出の用意をする人も少なくないし、男にだってことが終われば朝まで熟睡する男もいる)。

 作者によれば、「白人種はもともと体臭がきついくせに、風呂に入らない。 女性がおのれの陰部をそのまま放っておけば、ブルーチーズくらいの匂いに日が経つにつれ醗酵臭が加わり、次第にクサヤの干し物を焼いたような異臭を放つ。とはいえ、あそこだけは臭いままにはしておけないから、女たちはしょっちゅう洗う。だから、まずはビデの発明、創造に結果した」と。この話など、臭い臭い匂いを嗅いだことのない人、臭気を我慢してクリニングスに励んだことのない人には書けない。

 これに関連してではないが、「フランスの香水調合士は嗅覚が極端に敏感。電車のなかで、隣に立った女が朝、出勤前にトイレに出した糞まで嗅ぎ分けてしまう。不幸な人がフランスにはいる」との話には驚嘆。嗅覚に関するかぎり、西欧人は日本人を凌いでいるのではないか。味覚は別だとしても。フランスでパヒュームや化粧水やデオドラントなどが開発されたのも、体臭の強さが原因であろう。

 「英語圏の人は絶頂のとき、『来る』といい、日本人は『行く』という。東南アジアでは「来る」より「行く」が多いと、私は思っているが。ときには『死ぬー』だの、『ダメー』だの『落ちるー』など、人によっていろいろとはいえ、『来る』と『行く』が最も一般的だ。「いずれにしても、大きな波に揺さぶられ、痙攣し、果てる瞬間の叫びであるが、人間の生みの親が海であるという深遠な感覚が遺伝情報に含まれているからではないか」と、開高さんはこういう話になると、かなりしつこい。

 (人間の祖先が海からきたとはいえ、この表現はちょっと独断と邪推が過ぎるのでは?。少なくとも、私の体験に関するかぎり、海の揺れに浮いているような印象をもったことは自分自身にもないし、相手をした女から聞いたこともない)。

 さらに、「過客婚の風習はかつて世界中にあった。種族維持の本能。新しい血の導入、新陳代謝をはかるためで、むかしから近親交配の怖さを人は知っていたからだ」が、「風呂というものに入ったことがない遊牧民族に一宿をお願いし、どうぞといって妻を差し出されることを想像すると」というが、伝聞するところによれば、エスキモーはいまでも過客婚の風習があるそうだから、北極で亡くなった探険家、植村さんはそういう折り、どう対処したのかと、かねがね私は憐憫の情をもって想像を逞しくしたものだ。

 作者はベトナムでの体験を話す。「山岳地帯にはまだこの風習が残っていて、そこに泊まったら、どんな女を出されても、選り好みをしてはいけない。行ってみたら、噛みタバコを口にしているから、口は真っ赤、歯はみそっ歯、おっぱいはしおれたブドウのように垂れ下がって、外見はさながら鬼ばばぁ。自分は必死でその村を通過し、下の町に降りた」と。この地の過客婚の目的が「新しい血の導入」でないことは確か。

 (ベトナムの山地に少数民族が多いのは事実だが、私は旧サイゴンとニャチャンというかつてフランス人が開発したリゾートビーチしか知らない)。

 「潮吹きにはぶつかったことがない。是非、経験してみたい」といい、全国の読者を相手に、男性なら経験者を、あるいは自分が潮吹きだと自称する女性を対象に、実態調査をこころみたという。 かくいう私は一度だけ、遭遇しているが、どのぐらい大変か、開高さんはわかってない。 ベッドがどえらいことになることを。

 かつて、横浜グランドホテルという老舗ホテルでは、ベッドやカーペットを必要以上に汚した場合、弁償金をとった。 私がむかし横浜港に着いた豪華客船の客をハンドルしたときのことだが、同伴したアメリカ人家族の幼児が大小便を漏らしたことがあり、ホテル側は断固として弁償を請求した。これに対し、父親がそれを当然のこととして支払ったのを目の当たりにしている。 潮吹きの女性と寝るときは、絶対に有名ホテルを使ってはいけない。 なぜなら、コップ一杯の量ですまない人も世の中にはいるし、同じ相手に男が「淫して漏らさず」を継続したら、いったいどのくらいの量が出るか、予測しがたいからだ。

 「潮吹き」に関しては、仰る通り、無味無臭、さらさらしており、決して小便ではないことを、私も知っている。

 この作者のよいところは、スケベだけではないことだ。たとえば、次にこんな話が出てくる。「ニューヨークタイムズで、1960年代、全ページ広告で、真っ白な下のほうに、たった三行だけのコピーがあった」と。それには「ゴキブリは三千レントゲンに耐えられる。核戦争の勝利者はロシアのフルシチョフでもない、アメリカのジョンソンでもない、屋根裏のゴキブリである。ゴキブリに天下をとられたくなかったら、即原爆反対運動に署名を」と。 秀逸である。が、1960年代以来、世界はなにも変わっていない。

 また、「人類の一人ひとり(たぶん先進諸国の)が使う電気、ガス、石油、食料は、全長30メートルの恐竜1頭分と同じエネルギーを消費する」とも。

 「人間は情熱的な存在だが、行動することによって事態が変化するのを恐れるという両面をもつ。情熱的でありながら、小心でもあり、常識から外れまいとする」。 そのうえ、「常識と非常識のけじめが朦朧としている」と。

 「社会主義は階級闘争だった。階級をなくそうという目的であった。しかし、旧ソ連も現中国も、北朝鮮も、れっきとした階級社会。

 作者の体験談であろう。「イギリスの女はどれも日曜学校の先生みたいで、色っぽいところがまったくない。そこにいくと、フランスのパリジェンヌにはつい目がいってしまう」。

 「凡庸な真実より、美しい嘘のほうがしばしば人生には必要」といったのは、フランソワ・ラブレー(1494-1553)だそうだ。

 (一方、「嘘をつくなら、すぐ嘘とわかる嘘はつくな。真実だと思わせる嘘をつけ」といったのは徳川家康だとか)。

 「鮭の子は親を知らず、親も子を知らず、一生を終える」というが、それならば蛙だって、亀だって、昆虫類、爬虫類など、哺乳類以外の生物のほとんどが鮭と同じだろう。哺乳類だって、一定の年齢になれば、母親は子を外部に出すから、親になったとき、自分と肉親関係にあることが解るとは限らない。

 養老氏と阿川アナとの対談(本ブログ参照)のなかにあった「ダーウィンの進化論」についても、作者は書いている。「アメリカは州によっ進化論は禁書であり、西欧では宗教基盤の正当性を失いかねないので、いまだに物議の種である」と。 日本では、新聞でも、書物でも、テレビでも、「人類の祖先は猿」と簡単にいい、だれもが抵抗なく進化論を信じている。イギリスと違って、アメリカではキリスト教あるがゆえに、いまなお進化論は受け容れがたい理論らしい。宗教とはなんとおぞましく、身勝手で、自己中なのだろうか。

 (神の不在が証明されたら、宗教はその成立基盤を失ってしまうから?)。

 というような話が第一章から第五十章まで続いている。ヨーロッパ的なユーモアがいたるところにちりばめられ、全編飽きがこない。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ