豊臣秀吉の朝鮮侵略/北島万次著

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豊臣秀吉の朝鮮侵略

「豊臣秀吉の朝鮮侵略」  北島万次著
吉川弘文館  1995年9月 単行本初版

 本書は立花隆さんお奨めの二冊目だが、読了するまで時間がかかったのは、文献、資料などが当時の原文のまま記されていて、それを読むことに難渋したためである。

 長くなるが、ある意味で、本ブログは私の備忘録であり、関心のない方は読むことは控えたほうがよいと思う。

 元々、この侵略行為について、詳細を極めた書籍に出遭ったことがなく、かねてより、この侵略戦争がどのような指示のもとに、どのような目的で、どのような航路をとり、どこの港に入り、どこを拠点とし、どのような布陣を敷き、どのような大名や武将が選抜され、どのような情報を得た上で、具体的にどのような軍勢で、どのように戦が行なわれたか、他方、朝鮮サイドや明(中国)の対応はどのようになされたかに関心があった。

 初めに、いきなり、「加藤清正の一部将が朝鮮や明の創作した芸術品に対し格別の憧憬心をもっていたため敵側に投降してしまった」ことが記され、「その男は朝鮮王から気に入られ、官職まで頂き、最後には一武将となり1千人を配下に日本軍の追い落としに参加した」と書かれ、これが日本への撤退時まで禍をなすという経緯が示され、天下取りの秀吉をよく思っていなかった武士が全国に結構いたのだという認識から、この無謀な計画が失敗に終わることを暗示させるものだった。朝鮮側への投降者はこの男だけでなく、かなりの数に昇ったことも併せ記録されている。

 秀吉は「明とは山海を隔てているが、日本軍は朝鮮を経由、直ちに明国に入り、日本の風俗を大明400余州におよぼし、日本の教化を未来永劫に植え付けたい。朝鮮はすでに自分のもとに入朝しているので憂慮は不要。民国へは朝鮮の士卒も率いて軍営に臨めば、さらに臨盟が固まるであろう」と居丈高に高言したが、当時、双方に誤解があり、秀吉の申し出がもう少し温和な協力を要請するものであれば、朝鮮軍が加担しなかった可能性があるという。

 秀吉の高飛車な言い分が朝鮮王の心象を悪くし、「礼を失した態度である」との怒りを買い、明への進撃に日本軍が朝鮮を通過することを拒絶するに至り、逆に、朝鮮王は明王に通報、明は銀二万両を朝鮮王に贈り、遼東の精兵を派遣、朝鮮を救援する旨を回答する。

 作者は本書を著すにあたり、(1)秀吉の指示、命令書、檄文、(2)各武将の秀吉や家臣に宛てた状況報告書、(3)資料の全般的編纂所に残る文献、(4)朝鮮王朝実録、(5)朝鮮水軍史など、色々な史実に目を通し、状況を歪めずに書くことをモットーとしたように思われる。

 秀吉はまず九州の名護屋築城普請を行わせ、城の普請にともない、周辺に全国諸大名の陣屋が立ち並んだ後、秀吉自身も1592年に入城。

 16万の兵は9軍に編成、渡海することを命じた。その間、小西行長を高麗国に遣わし、返書が来るまで壱岐、対馬に諸陣を張り、しらばく待つように指示。16万の兵は関西以西の大名に占められ、関東以東の大名は入っていない。辛うじて、徳川家康が名護屋城まで来訪、自ら渡海するという秀吉をやめるよう諫言した。

 秀吉は加藤清正に九州、四国の武将を伴い、高羅から一、二里の島へ着陣するように指示。

 第一軍
  宋義智(対馬より参陣)   兵士 5,000人
  小西行長          兵士 7,000人
  松浦鎮信          兵士 3,000人
  有馬勝信          兵士 2,000人
  大村嘉前          兵士 1,000人
  五嶋純玄          兵士   700人

 第二軍
  加藤清正          兵士10,000人
  鍋島直茂          兵士12,000人
  相良長毎          兵士   800人
 
 第三軍
  黒田長政          兵士 5,000人
  大友義純          兵士 6,000人

 第四軍
  毛利善成          兵士 2,000人
  島津義弘          兵士10,000人
  秋月三郎
  伊東祐兵
  島津豊久 (三将合計)   兵士 2,000人

第五軍
  福島正則          兵士 4,800人
  戸田勝隆          兵士 3,900人
  長曾我部元親        兵士 3,000人
  生駒親正          兵士 5,500人
  来島兄弟          兵士   700人

第六軍
  小早川隆景         兵士10,000人
  毛利秀包          兵士 1,500人
  立花宗茂          兵士 2,500人
  高橋直次          兵士   800人

第七軍
  毛利輝元          兵士30,000人

第八軍
  宇喜多秀家         兵士10,000人

第九軍
  羽柴秀勝          兵士 8,000人
  細川忠興          兵士 3,800人

合計               158、800人

 朝鮮は各地を「道」で区分けし、「県」とか「州」を使わず、日本軍は「道」の八つに、16万にのぼる軍を分けて進軍させた。

 1592年に開始された朝鮮侵略戦争は各軍ともにプサンの港から入国、行くところ敵を粉砕し、進軍を継続、ソウルから平城(ぴょんやん)を窺うまで進撃した。過去ほとんど1世紀にわたって戦国時代を生きてきた日本武将と、当時は平和だった朝鮮武将とでは、戦闘意欲も、戦略も、戦術も、格段の差があり、ここまでは当然ともいうべき成り行きだった。朝鮮王はソウルから都落ちし、ピョンヤンに逃げ、さらに明の領土である遼東まで逃げようとするのを周囲が抑えた。意外だったのは、明や朝鮮の正規の軍ではなく、決起した朝鮮民間義兵の挙兵で、これが侮れぬ相手となる。

 また、難儀したのは、水軍で、近海の事情、潮の流れなどを熟知する朝鮮水軍にしばしば煮え湯を飲まされた。水軍で有名な九鬼軍でさえ、朝鮮の水軍をもてあました。

 その間、相互にしばしば和議の会談がもたれたが、いずれも失敗に終わった。日本軍は行く先々で、捕虜を捉え、捕虜にしない人間は鼻を削ぎ、文物を奪取し、乱暴狼藉を働いた。加藤清正は朝鮮王の二人の王子を捕虜にした。

 この頃から、朝鮮軍も次第に戦役に慣れ、とくに水軍の働きが顕著。

 明国(将は李如松)の救援も同年6月から始まりはしたが、朝鮮側には明兵を労(いた)わり、接待する負担という問題が生ずる。また、ソウルに進撃した際、小早川隆景の伏兵に囲まれ、明軍は四散、李如j松は辛うじて逃亡するが、朝鮮側は期待していただけに落胆、衝撃を受けた。李如松自身も自信喪失して、任務の後退を明王に願い出でたが拒絶された。

 日本軍は宇喜多秀家を総大将に山城を攻めたが、ほとんど引き分け、初めての苦戦に日本軍はソウルへ引き揚げ、これまで連戦戦勝だった陸戦に影が落ちはじめた。このあたりから、加藤清正と石田光成ら奉行との確執が目立ちはじめる。この時点で、加藤清正の兵は45%を、鍋島直茂の兵は36%が失われていた。

 1593年には全軍が南下を開始した。5月には石田光成、小西行長は九州の名護屋城に帰陣、一方で、朝鮮に残存する諸将と兵士9万3000人に普州城攻略の激を飛ばしている。

 1596年9月、明の冊封使が大阪城で秀吉に謁見、明王からの冊封状(秀吉を日本国王と認める主旨のもの)、官服、金印などを持参したが、和議の条件に関しては全く回答がなく、秀吉は怒り、明との講和交渉は破綻。

 当時の戦は銃では日本が勝っていたらしいが、明は火砲、大砲などを持ちこんで対応した。兵船に日本軍が馬を何頭もっていったかは詳(つまび)らかにされていない。

 同年同月、再派兵計画。目的は和議折衝時に提示した朝鮮南部の割譲を実力で奪還すること。

 1597年7月の海戦では、日本の水軍が初めて朝鮮の水軍の総帥、元均を戦死させ、勝ちを収めた。しかし、陸戦の合間に行なわれた、日本水軍133艘が朝鮮水軍の僅か13艘の兵船に漁船を偽装して加えた敵に翻弄される。

 明軍はこのとき籠城のほかに選択の余地のなかった加藤清正を討つべく、城を囲んだが、救援隊が明軍の後方から迫るとの報に周章狼狽、李如松は夜明けとともに再び撤退。日本軍はこれを追撃、明は慶州に退却したものの、兵士は暴徒と化し、婦女子を犯し、暴虐をほしいままにし、朝鮮人から顰蹙をかった。

 ところが、1598年、唐突に、秀吉逝去の報が入る。

 五大老、五奉行ともに、朝鮮よりの全軍撤退を決めたが、秀吉死去との風聞は朝鮮側にも届いていた。

 朝鮮軍としては、水軍を利用し、日本軍の退路を断ち、帰国前に殲滅せんとの意図があったが、小西行長が安全に帰陣できるよう、賄賂をふんだんに使い、水路の邪魔をしないよう朝鮮や明の将に要請。大きな痛手を蒙ることなく、日本軍は九州に帰国した。かくして、6年におよんだ朝鮮侵略戦争は幕を閉じた。以後、暫くは、加藤清正の名は朝鮮で鳴り響き、泣く子も黙るといわれた。多くの兵を失いはしたが、8軍に分けた、いずれの主将も無事に帰国している。

 連れ帰った捕虜はどのくらいいたかは資料にないが、まず高値で買取ると言い出したポルトガル人に売り渡し、ポルトガル人はヨーロッパに転売。あとはどの大名の治世下にある土地でも農地を耕す労働力に不足していたため、それぞれ、おのれの国に連れ帰ったが、なかには朱子学の権威もいて、毛利は伊予の大津に同行し、教えを請うた。

 捕虜には陶工が多く含まれ、長門の萩焼、細川の豊前野焼き、黒田の筑前高取焼き、鍋島の肥前有田焼と伊万里焼、松村の肥前平戸焼き、島津の苗代川(のしろ)薩摩焼などに貢献した。ことに島津は城下7,8里のところに高羅人を集団生活させ、白焼き、黒焼きをつくらせ、白焼きは自分が使い、黒焼きは庶民に使わせた。当時、薩摩には水瓶すらなかったので、庶民から重宝がられたという。

 上記は朝鮮への秀吉の侵略についてまとめてみたが、粗漏がいくらもあり得ることを諒解願いたい。実際には、上記した戦よりもっと数多くの戦や小競り合いがあり、本欄からは省いたが、本書にはそれらのすべてが網羅されている。


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One Response to “豊臣秀吉の朝鮮侵略/北島万次著”

  1. 新田 より:

    北島万次先生を検索していて見つけました。
    >この侵略行為について、詳細を極めた書籍に出遭ったことがなく<と、書かれていますが、金 聲翰氏の「秀吉朝鮮の乱」を既に読まれましたか?
    東大法科在学中に学徒動員の経験もあります。
    中立の立場で書かれた胸打つ大作です。
    戦前の日本語教育を受けた韓国人二人にプレゼントしましたところ、秀吉の侵略の意図を始めて詳しく知ったと喜ばれました。
    著者の方は、数年前に亡くなられたようで私達の感動を伝えられず実に残念でした。

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