世界史の中の石見銀山/豊田有恒著

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世界史の中の石見銀山

「世界史の中の石見銀山」  豊田有恒(1938年生)著
帯広告:小さな銀山が世界に果たした驚くべき役割とは?
2010年6月10日 祥伝社より新書初版 ¥760+税

 迂闊にも石見銀山が「世界遺産」に登録されていることを知らなかった私としては、この銀山が世界史の中で語られること自体にまず驚いた。

 そして、裏表紙に書かれている「石見銀山は室町から江戸初期にかけて最盛期を迎え、世界の銀の3分の1を産出、銀山町は狭い山間部に20万人もの人口を要した。6千万トンとも言われる石見銀山の大量の銀のため、当時は、世界の銀の値が下がったといわれるほど。石見銀山にはまだ謎が多い。「なぜ、途方もない量の銀が世界へ流出したのか」との本書の内容を概括する文章に目を見張った。

 世界遺産に登録されてはいるが、現地に残されている坑道は僅かに2箇所が公開されているだけで、外国の銀山のようなきらびやかなモニュメントはなく、観光スポットとしての価値はそれほど高くはなさそう。

 銀山としての歴史は、1308年、当時この地を治めていた大内氏が発見、中断が長く続き、最盛期は江戸中期、1602年には年間15トンの産出量だったのが、100トンにもなり、海外への流出がはじまり、世界の銀産出量の3分の1に達し、銀価格の世界的な下落を招いた。

 作者の推理によれば、石見から出る銀が海外に流出するきっかけとなったことには色々な偶然が重なったという。一つは、当時の中国政府が紙幣を発行したツケが回って、兌換に応じられなくなったこと、その当時ポルトガルがスペインとの戦争に敗れ、1580年ー1640年までの60年間スペインの支配下に置かれこと、東南アジアにいたポルトガル人がかなりの数で日本に逃げたこと、石見銀山を知ったポルトガル人らは西欧の優れた鉱法を日本技師に教え、紙幣の決済が滞っていた中国のみならず、海外へ銀を輸出する智恵を日本人に与えたという。ために、世界が石見で産出される銀に依存するようになり、且つ流出することになった。

 スペインから送り込まれた宣教師、フランシスコ・ザビエルも日本を「銀群島」と呼んだ。当時、海外貿易の決済は銀が使われることが多かったことも、石見銀山における銀の採掘に一層注力するようになった原因。

 江戸期はオランダ一国に対してしか窓を開いていなかった鎖国中の日本であったにも拘わらず、多くのポルトガル語が外来語として日本に残っていることが上記の仮説を支えている。例として挙げられた次の言葉(ビスケット、コンペイトー、ミイラ、カッパ(合羽)、ミサ、メダル、マニュアル、パン、キャラメル、サラダ、テンプラ、カステラ、カボチャ、バッテラ、ベランダ、ブランコ、カンテラ、シャボン、タバコ)などはほとんど安土桃山時代に入ってきたポルトガル語。

 一方、オランダが長崎出島での不自由な生活を我慢して日本との関係を維持した理由は、偏に銀と銅の貿易の利があったからで、当時のオランダの軍艦の大砲の青銅はほとんど日本からの銅でできていた。

 大航海時代を迎え、新大陸各地で多くの銀山が発見されるにおよび(なかでもメキシコとボリビアが有名)、石見の銀の産出は低下、石見銀山への依存度も低下した。以後、ほそぼそと採掘を続けたが、大正時代に閉山。

 作者は「世界史の中の石見銀山」とのタイトルのもとで著作したにしては、直接関係があるとは思えない分野にまで執筆の矛先を延ばしているだけでなく、纏め方にきちっとした脈絡が感じられず、的を絞った執筆に徹して欲しかったというのが正直な感想。したがって、タイトルと関係がないと思われた部分は飛ばし読みしたことを断わっておく。

 マルコ・ポーロの「黄金の国・ジパング」もあながち荒唐無稽な伝聞ではなかったのではないかなどという発想は、浅慮というか思慮不足というか、本書の的を得た部分まで損なうリスクを伴ってしまうのではないかという惧(おそ)れを抱かされた。

 とはいえ、現在、「鹿児島に『菱刈金山』というのがあり、有望な金鉱脈が発見されたというニュースがある。金鉱石の金含有量が国際的な水準をはるかに上回っていて、埋蔵量も巨大である」との記述には驚かされたし、「もし本当なら」という気にもさせられた。


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