和宮様御留/有吉佐和子著

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「和宮様御留」(かずのみやさまおとめ)
有吉佐和子著  昭和53年講談社刊

 本書は幕末の、天下が震動している最中に、ときの将軍、徳川家茂に嫁いだ皇女、和宮の数奇な人生をモチーフに書き上げた小説。

 史実をベースにとはいいながら、どこまでが事実で、どこからが作者の創作であり想像上の産物なのかは、「あとがき」を読んでも不明な部分が多く、御所言葉を使えば「おいらいら」が残る。とはいえ、小説としてみるかがり、全体の結構、内容ともに見事に活写されていて、作者の「女性の立場からの歴史書」と言い切った姿勢にも納得がいく。

 本書を通して、一貫して脳裏を去来したのは「公家とはいったいなにか」「皇室に生まれたということがいったい何を意味するのか」というニつの問いだった。

 源氏が幕府を開いて以来、天下の実権は朝廷を中心とする公家の手を離れ、ペリーの来航によって、日本中が騒ぎだし、そのおかげで、雄藩の武家が突然のように京都の公家を訪れるようになり、公家がにわかに「政治づいて」くるというくだりは実感をもって理解できる。

 本書によれば「公家とは男といえども雪月花の話を終日語って飽きない女性のような幼稚さをもつ人」であり、「思想的にも理論的にも稚拙」で、小児性をもってはいたが、幕末はそういう公家に武家たちが尾を振りはじめた時代、「過度期」といっていい。

 帝をとりまく禁裏の総面積はおよそ三万坪。閉ざされたその世界を「世界」と思い込んでいた人たちに本当の世界が見えるはずはなかったが、公家を利用しようとする風潮への変化に、二百数十年をひたすら堪えてきた彼らは高揚し、段々と「つけあがった」らしい。

 以下は上記以外になるほどと合点したところ:

 1)文(ふみ)を書くことについては公家のだれもが腕利きだった。公家による文は武家のものとは違い、漢語は少なく、和語が多用される。

 2)公家の文作りはだらだらとしているばかりではく、もってまわった言い回しが多く、現代の人が読んだら不快感を払拭できない。頻繁に使われる言葉には「御」「奉る」「かたじけのう」「儀」が多発。

 3)階位の授与が皇室にとって唯一の武器。

 4)地方豪族、武家に公家の真似をする人間が少なくなかった。今川義元の白粉をべったり塗った顔、剃って塗った眉、お歯黒などは、脳裏に描くたびに反吐が出る。 誤解してたのは、お歯黒を既婚の女性がするものと思っていたことで、未婚者がするのが正しい。だた、月のものの期間中にある者は遠慮した。「清くないから飾らない」ということらしい。

 5)真夏の京都でどれだけ盛装しても汗をかかないのが貴人の資格。「汗かくのは卑しいこと」だった。(だから、痩せて、虚弱体質になり、健康が損なわれ、まともな子共を生めなかった)。

 6)御所では大小便のことを「御下」と書いて「おとう」といった。宮様クラスになると居間で漆塗りのお丸にまたがって、大小便のほか、ときには月のものを流し、その都度、おつきの者(乳母)が「お股を拭(すま)しあげる」といい、月経のことは月水と書いて、ルビには「つきやく」ともあり「おまけ」ともあった。「お股をおぬぐいあそばす」という言葉はかえって淫猥かつ隠微に聞こえてならなかったが、生理を「おまけ」という精神はよくわからない。

 7)和宮は東下するに際し、7,800人の行列を組んだ(1万5千という説もある)。女の街道は東海道ではなく中山道だった。「公武一和」という一言のために、結果的になんの意味もない無駄な目的のために心痛した宮が憐れ。

 本小説では東下をはじめた身代わりの女(卑女)から最終的に家茂に嫁いだ女まで二人が変わって、身代わりにされた。肝心の「本物の宮様」の生涯には触れていない。また、身代わりをさせた最大の理由は和宮が身障者だったからとある。

 8)婚儀後、3年経って懐妊の兆しがなければ、正室はみずから側室を代わりに差し出さねばならなかった。そういえば、戦国時代、石田光成の右腕とでもいうべき家臣、島左近の妻が三十歳を迎えたとき、「この年にならば、おしとねは辞退し、換わって、若い女をお傍にはべらせます」といったという話がある。

 9)和宮の死因は「脚気衝心」で、亭主の家茂も大阪城で同じ病気で死んでいる。むかしの日本人の多くが脚気で死んでいるのは事実で、これは1922年の陸軍兵士にまで波及する。原因は白米にあり、とくに富裕の者が白米ばかり食べるようになって以後のことで、百姓のようにわずかな米に麦、粟、コーリャンなどを交ぜて食べた階級の者に脚気はない。麦を原料としたパンを食べていた西欧人にも脚気はない。(脚気については、別の機会にまた触れたい)。


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