シュリーマン旅行記 清国・日本/ハインリッヒ・シュリーマン著

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シュリーマン旅行記

「シュリーマン旅行記 清国・日本」 ハインリッヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann/1822-1890/ドイツ人)著
原題:La Chine et le Japon au temps présent
1869年パリにてフランス語による単行本初版
帯広告:シュリーマンが見た幕末日本の風景
訳者:石井和子
1991年 日本で単行本初版
1998年4月10日 講談社より文庫化初版
¥800+税

 作者は元々は藍染料を扱う商人であったが、ビジネスに成功し、巨万の富を築くと、ビジネスからは思い切りよく手を引き、旅行と遺跡の発掘に資金と余生を注いだ人物であり、ホメロスの詩を信じ、空んじもして、それが功を奏して、第一にトロイア遺跡の発掘、第二にミケナイの発掘、第三にティリマチスの発掘に成功、その名を世界にとどろかせた。また、作者は語学の天才であり、数ヶ国語をマスターしていた。

 本書はシュリーマンが発掘に手を染める前、1865年(明治維新の3年前)に日本と清国を訪れたときの旅行記であり、他の外国人による幕末日本に関してと似たような誤解はあるものの、個性的な見聞には感ずることが少なくない。

 以下は備忘録を兼ね、エキスを抽出する。 (   )内は私の意見ないしは注。

1.清国・北京のオーケストラは平べったい太鼓や鐘と胡弓からなり、猫の大騒ぎのような音を出していた。上海での劇場経験でも、シナ人はハーモニーとメロディーがどんなものか理解していない。ドラと胡弓、笛、太鼓、竹製の笙(しょう)からなるオーケストラは筆舌に尽くしがたい滅茶苦茶な騒々しさであり、どうしてこのような音楽が観衆を熱狂させるのか、わたしには理解できなかった。

2.北京は三つの街に分割され、皇帝の街、韃靼人(だったんじん)の街、漢人の街、それぞれ巨大な塔と城門とを備えた城壁で互いに隔てられて、全体は全長50キロの城壁が囲んでいる。

 また、清朝の紫禁城は長さ12キロ、高さ8メートルの壁に囲まれ、宮殿付きの第一位階層の高官以外は中に入ることはできない。一方で、君主は宮殿の外に出ることはできず、君主にとって紫禁城は牢獄に等しく、ハーレムの逸楽に耽り、高官らの追従やへつらいの中で皇帝は全ヨーロッパの1.5倍の民を統治する義務と責任がある。

 城壁が至るところで崩れ落ちそうで、宮殿内の庭園は草木が伸びるがままの状態、大理石の橋も壊れている。寺院も孔子廟(こうしびょう)も一流の建築物だが、無秩序と退廃が支配し、仏像の衣も刺繍もぼろぼろに剥げ落ちている。

 (この描写は清朝末期の様相を確実に写しとっている)。

 街中には、首に1メートル33センチ四方の板を水平につけられた罪人を至るところで見かける。板に取り付けられた高札には罪状と処罰期間が明示されている。漢人街の刑場には男の首がそれぞれ鉄製の大きな鳥籠に入れられ、曝(さら)されていた。

 (中国は昔から「みせしめ」という辱めを伝統的に行なう国であり、世界最大の人口を持つ国の為政者としては、それが犯罪防止に有効であるとの判断があったからであろう)。

3.満州との境付近にある古北口に入ったとき、人々の好奇の的となり、清国風の服装をせず、弁髪(後方に髪を長くたらすスタイル)もしていない群集に取り巻かれ、宿屋に着いたとき、一部の人は部屋の中にまで入って来、入れない人々は部屋の窓によじ登ってわたしの所作を凝視。

 (清は元々満州地域の人間による支配で、弁髪も満州における習慣、これを漢人一般に強制した歴史がある)

 ペンを使い、左から右へ、かれらが見たこともない文字を連ねたときにも、ペンという道具にも度の過ぎた好奇心をみせ、わたしをうんざりさせた。清国への旅行の目的は万里の長城を見ることだと応えると、全員が大笑いし、「石を見るためにだけ、そのような長旅をするのか」とバカにされた。かれら野次馬はわたしが床に就き、灯りを消すまで出ていってくれず、きわめて無礼でマナーに欠けた人々であるとの印象を受けた。

4.長城の壁は半分以上崩れていて、一定の高さまで登るまでは難行苦行、望遠鏡を使い見渡すと数十キロ先まで長城が見え、人間の手が造り上げた最も偉大な創造物であることに異論はないが、いまや、この大建築物は過去の栄華の墓石と化している。長城はそれが駆け抜けていく深い谷の底から、またそれが横切っていく雲の只中からシナ帝国を現在の堕落と衰微にまで貶(おとし)めた政治腐敗と士気喪失に対して沈黙のうちに抗議している。わたしは長さ67センチ、重さ25キロほどのレンガを背中にくくりつけて持ち帰ることにした。

 (シュリーマンが清国を訪問したとき、この帝国は末期にあり、人心は乱れに乱れ、政治も経済も疲弊していたことを前提に読まないと、不必要な印象に束縛されかねない。長城はその後、修復され、北京市内から簡単に到達できるようになっている。また、清国が末期的症状を呈していたからこそ、日本は清に戦争を仕掛け、赤児の手をねじるように勝利を収め、台湾を領土化することができた)。

5.阿片の影響は南ほどひどく、北に行くに従い愛飲者は減っていく。天津、北京ではごく僅かな人々しか麻薬の災禍を認められなかった。また、ツバメの巣には阿片の解毒剤としての効能がある。

 (阿片はむろんイギリスがインドで栽培させ、清国に持ち込んだもので、二度にわたる阿片戦争の火種であり、戦勝国イギリスは香港を割譲させた。ツバメの巣が阿片の解毒剤として有効とは初耳)。

6.シナ人は墓を個人の所有地につくっており、それが原因となってこの国に鉄道の敷設は無理があるとみていたが、1865年、1876年にイギリス人が二本の鉄道を創設したが、いずれもシナ人の手によって撤去され、わたしの推理が当たっていると思っていた。しかし、帰国後、1888年にシナ人自身の手によって唐胥鉄道が開通して以降、1890年代には全土で5万900キロに達したと仄聞した。(中国は政府の命令によって、家でも墓でも動かさざるを得ない)。

7.シナの美人の条件は纏足(てんそく)に尽きる。容貌よりも歯ならびよりも容姿よりも毛髪のスタイルよりも、たった9センチの小足に最大の甘美な期待値を置く。女子は三歳になると、小指を含め3本の指を足の裏側に折り曲げて包帯できつく絞めつける。圧迫し続けると、甲骨が突き出て反り返るので、踵(かかと)が出っ張る。本人は自由な2本の指と異常発達した踵に体重をかけて歩く。折り曲げられた3本の指は成長しても足の裏にくっつくことはない。結果として、脚は踵の上の部分で太く、鼠径部が異常肥大する。シナで纏足をするのは清朝の漢族だけ。

 (小さな足にエロティックなイメージを持ち、見る側にも、見られる側にも、羞恥が走るため、性的な刺激が強いというだけでなく、小さな足でちょこちょこ歩くと、女性器の締めつけが強くなるとの考えがあった。また、早く歩くことはもとより走ることは不可能だから、男の財産であった女の逃亡を抑止する効果もあったという。纏足に関して、これほど詳細な説明には初めて接した)。

8.日本の横浜港に到着したとき、水先案内人は屈強な男二人で、髪をチョンマゲにし、小船に乗っていたが、衣服の代わりに身体を刺青で彩色していた。上陸後、荷をかつぐ人足がやってきたが、ほとんどの男たちは裸同然であり、身体の皮膚は疥癬(かいせん)に罹ったカサブタで覆われ、皮膚病を免れていた人足は僅かな数だった。

9.横浜は人口4千人、道路は砕石で舗装され、道幅は10-20メートルだった。

10.横浜税関で、荷を開けられると後が大変なので、勘弁してくれるよういくばくかの金を出したところ、「日本男児はこういうものは受け取らない」と拒絶されたが、荷を細かくチェックすることは勘弁してくれた。

11.日本人の住居には必ず花が庭を彩り、低木はよく刈り込まれ、日本人の園芸好きを示している。住居そのものはきわめて清潔、家具は長火鉢しかなく、畳の上がベッドになり、ソファーになり、マットレスにもなる。

12.日本人の主食は米だが、パンを食する習慣はない。この頃、ジャマイカ人の男が横浜にパン屋を開業している。(客のほとんどは欧米人であっただろう)。

13.日本人の使う枕は木製で、長さ30センチ、底部の幅18センチ、上部10センチ、高さ15センチの舟形。枕の上部には3センチほどの窪みがあり、そこに紙のクッションが置かれ、男女ともに髪型を崩さぬよう、枕にはうなじを載せて休む。また、日本人は終日にわたって正座しても疲れず、足が痺れることもない。

14.日本女性は着物を身に、木製の下駄をはいているが、ほとんど素足。婚礼時には歯を黒く染める「お歯黒」をし、未亡人になっても週二回はこの化粧を続ける。髪には椿油だけで、すばらしい髪形に結いあげる。髪にはカンザシが一本、唯一の装飾品として使われる。

15.日本人は世界で一番清潔。どんな貧しい人でも一日に一度は銭湯に通い、老若男女ともに混浴風呂に入り、身を清める。混浴に関しては西欧人から批判が多いが、社会習慣はそれぞれの土地にそれぞれ独特のものがあり、比較を絶している。日本人がヨーロッパの女性が男性と手をとりあってダンスするところを見たら、慎ましさの欠けた社会性を感ずるだろう。

 (混浴は宣教師らの忠告により、家斉が1791年に禁止したと、コンサイス世界事典にあるとの訳者による指摘があるが、初の知見。もっとも、板などで仕切りをした程度だったという)。

16.日本の政府、幕府は売春を是認し、娼家を一定の地域に定め、保護している。売春婦経験者は日本では社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うことはなく、まっとうな一つの生活手段だとみなされ、年季が明けて結婚することもごく普通であり、花魁(おいらん)経験者などは尊敬さえされる。

17.シナの僧侶が尊大で無礼で下劣で不潔なのに比べ、日本の僧侶は親切で、清潔さが際立っていた。日本人は一般に極端なほど整理整頓に気を使う。

 (日本の僧侶のなかにも、金や食事を強要することを目的に、人の家の前に立ち、何かくれるまで経を読んで立ち去らないというやり方が戦後まで存在した例もある)。

18.雨天に農民が使う蓑(みの)を求め着用してみたが、役にたたず、全身すぶ濡れになった。

19.1865年頃には、列強の公使と随行員は江戸に在住することが許可されていたが、武士による襲撃を受けることが頻繁であったため、アメリカ大使以外は江戸を立ち退いていた。イギリス公使館は品川の東禅寺に在ったが、1861年には10名が殺害され、15名が重傷を負い、さらに1862年にはイギリス人伍長(兵士)が殺害され、江戸から横浜に転居していた。東禅寺には刀創の跡が今でも柱などに残っている。

 (イギリス人は薩摩の行列の前を馬上したまま通過したため、薩摩武士に切り殺され、薩英戦争の原因となった)。

20.アメリカ総領事から招待状を貰い、幕府の差配で5人の武士にガードされ、馬に乗って念願の江戸を訪れた。江戸への道路は幅が10-11メートル、江戸内部の道は幅7メートル、パリと同様、砂利で舗装されている。一方、大名らが隣り合う屋敷町は20-40メートルもの道幅となっている。

 (江戸の街の70%は武家屋敷、15%が町家と寺社が占めているとは訳者による注)。

21.アメリカ公使館は麻布の善福寺に在り、昼間は200人、夜間は300人以上の役人が武装して警備にあたっている。

 (幕末の薩長を中心とする下級武士らの暗躍が想像される)。

22.シナの北京をはじめ、トルコのコンスタンティノープル、インドのカルカッタやデリー、エジプトのカイロなどで遭遇した犬は粗暴で、吠えたてられ追い回されたが、日本の犬はおとなしく、道に腹這っている姿をしばしば目にした。

23.日本人はバター、牛乳、肉を口にせず、動物性食料は魚類に依存している。

24.浅草観音寺では100人以上の老若男女が、わたしたち一行(5人の警護を含め)の周囲に絶えず群がり、「唐人、唐人」と叫び、なかには身体に触れようとしたり、時計の鎖についているサンゴをむしり取ろうとする人もいて、警護の武士はそれを防ぐのに躍起になっていた。

25.寺の本堂という宗教施設に吉原の花魁を描いた絵が額に収められて飾られているのを見たときは、前代未聞の途方もない逆説のように思われた。西洋では娼婦は身分卑しく、恥ずべき存在だが、日本では崇められている。わたしは長いあいだ絵の前に茫然として立ちすくんだ。

26.民衆のなかに真の宗教心は浸透していないように思われた。寺には花魁の絵があり、境内には芝居小屋、見世物小屋など雑多な娯楽があって、それらが真面目な宗教心と調和するとは思えなかった。軽喜劇には、しばしばみだらなシーンがあったが、日本人は男も女も、それに気分を損ねることもなく、むしろ誰もが楽しんでおり、そういう姿勢と普段の生活のなかに純粋で敬虔な心持が存在し、両立している実態が理解を超えていた。

27.日本人は茶を喫するのがことのほか好きだが、茶には砂糖も牛乳も入れない。

 (シュリーマンには日本人並みの味蕾がなく、他の白人同様、日本茶の味を評価し得なかったのではないか)。

28.アメリカ公使、ポートマン氏は当時の江戸人口を250万と想定、人口分布を次のように見ていた。

 1)将軍家に属する役人、使用人、家来     225,000
 2)諸大名とその家来             600,000
 3)僧侶、医師                225,000
 4)商人、職人、猟師、百姓、船乗り    1,100,000
 5)巡礼者、旅行者              200,000
 6)娼婦                   100,000
 7)クリスチャン                50,000

29.文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されている。工芸品において、蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している。教育に関してなら、日本はヨーロッパ文明国のレベル以上であり、シナやアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対し、日本では男女ともに仮名と漢字で読み書きができる。

 (漢字はある程度だったはず)。

 ただ、もし文明という言葉が敬虔な宗教心をベースに迷信を打破し、寛容の精神を植えつけ、定着させることを意味するのなら、日本国民は少しも文明化されていないことになる。

 (迷信や固定観念はキリスト教徒にも、宣教師にも、教会牧師にも、バチカンにもあった)。

30.封建体制の抑圧的な傾向は民衆の自由な活力を妨げ、抹殺する方向に動く。この国の将軍は各地に散在する大名らの利害を優先的に考えるあまり、外国との自由な接触によって莫大な利益を得、知的道徳的な進歩が促され、封建体制による支配が揺らぐことを危惧している。

 (幕末の特殊事情が背景にあった)。

31.江戸港を閉ざし、外国人が江戸で居住する希望をかなえ、守る力がないことの責任は将軍家よりも、むしろ大名にある。たとえば、イギリスは日本との交易を維持するために、横浜港に7隻の軍艦を配備し、800名の陸軍兵士を配置、長崎にも1隻の軍艦を停泊させていて、それらの駐留費は日本との交易から生まれる利益を上回っている。

32.幕府は外国の高官が個人的に利益が得られるように、為替交換率を高官らに有利に設定している。これに対し、日本商人が異議申し立てをしたが、顧みられることはなかった。

 (幕府も新政府も銀の価値を金との比較において過大に評価していたため、国内に在った金の相当量が海外に持ち出されたのも事実)。

 訳者が「本書には欧米至上主義がまったく見られない」と書いているが、まったく同感であり、観察のアングルに偏りがなく、きわめて公平な精神を垣間見る思いがした。


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