武家の女性/山川菊栄著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

武家の女性

武家の女性」  山川菊栄著  岩波文庫

 本書は江戸末期の水戸藩における武家と女性らの生活ぶりを、明治23年(1891年)生まれの女性作者が自分の両親、祖父母、縁者たちから聞いたことを口語体でまとめ、1943年(終戦の2年前)に単行本として出版されたものを、現代人に読みやすくする目的で補正、修正を加え、1983年に文庫化したもの。

 当時の、武家や女性らが置かれていた環境をはじめ、日々の生活ぶり、教育、女としてのたしなみ、食べ物、身分による心構えの違い、子供らの遊びや楽しみ、服装と身だしなみ、婚期、出産、主婦の本分など、つぶさに語られており、封建時代が時間の差を越えてストレートに伝わってくる。

 言葉に「油がタラタラ」、「霜をざくざく踏んで」「台所はちょろちょろパチパチ」「門をトントンと叩く音」「ピタと静まる」「パッと吐く」「サッと広げる」「パタンパタンと機織する」「帯をきりりとしめて」などなど、擬声語、擬態語をふんだんに使う言葉の選択に、日本人が江戸人でなくとも、オノマトペが多く生活のなかに入っていて使われていたことを実感した。

 驚いたことは、離婚、再婚が、太平洋戦争以後よりも多かった事実と、その理由である。

 一つは、医療の不備、医業にたずさわる者の無知による、若死が男女双方に多かったこと。

 また、女性の婚期が14、5歳と、体が未熟な状態での性交渉による出産のため、難産、流産、死産のみならず、母子ともどもに死亡するケースが稀でなかったことが挙げられている。

 (むろん、現時点でも、14,5歳での婚姻は南半球では少なくないが、江戸期の日本女性の体格は決して豊満ではなかったし、子供を宿してもよいレベルに熟してもいなかった)。

 ただ、若くして嫁入りしたため、生家で過ごした年数より嫁入り先での生活のほうが長期におよぶため、姑に従うことにそれほどの抵抗感はなく、婚家の家風に染まっていく上で柔軟性があった。

 また、妾(めかけ)の存在については、自分が育った家庭のみならず、他のほとんどの家庭にも妾がいたため、それが当たり前のように誰もが思っていたという。だから、自分が嫁入りしたあと、妾を置かれても、それに対して嫉妬や怒りを覚えることもなく、正妻として妾や妾の産んだ子を含め、家庭全体を治めることに意を用い、むしろそれを本文と考えた。

 (妻妾同時に子を産んだ場合、いずれかの乳の出が悪ければ、一方の乳に依存できたというメリットもあったであろう)。

 妾は一般に小金持ちの町人の娘が多く、身分階級意識の強かった時代、町人の側も娘を武家の妾に出すことを誇りにした。

 正妻に子が生まれず、妾に子ができて跡取り息子となることはあっても、正妻が正妻の座を失うことはあり得ず、妾は生涯にわたって奉公人としての扱いに終始した。

 (妾を外につくることは幕府から禁止されていたため妻妾同居という形をとららざるを得なかった)。

 「明治以降、新政府は結婚年齢を、男19歳以上、女17歳以上と立法化したため、過度の早婚による難産も死亡率も減り、離婚率は激減した」という。

 読後の感想としては、水戸は「烈公」水戸光圀という逸材を生んだ藩ながら、幕末にいたるまで封建制意識が強く、幕末に至っては藩内における国論の統一を欠き、確固たるリーダーシップ不在のまま、新しい時代の流れを掌握する姿勢に乏しかったという気がする。むろん、作者がいうように、将軍家自体に卓越した指導者が不在だったことが幕府転覆の最大の原因ではあっただろう。

 薩長と戦うまえに、藩自体に内乱による犠牲者が多く出(2千人が死んでいる)、そのうえ、いざ戦になると、先祖伝来の鎧、兜、小手、具足を身につけて出陣という、まるで漫画の世界だった。 東国は例外なく「井のなかの蛙」になっていたといっていい。

 むろん、桜田門外の変、井伊大老を殺害したのも水戸藩の下級武士団であったが。

 「維新によって、まず没落したのは無為徒食、浮草逸楽をむさぼっていた旗本と、各藩の上層武士(薩長を除く)。その一方、たくましく新しい社会に対応したのはそれまで半農、半工を余儀なくされ辛うじて食いつないできた下級武士。下層から紡績工女が出、女性教員が出たのに対し、没落旗本の娘からは芸娼妓や妾奉公に出た者が多かったことは、時代の変化による対照的な社会変貌だった」。

 作者はいう「戦争のない平和な時代に大小二本を腰に差した武士を抱え、万が一の戦に配慮し続けた非生産的な社会制度は崩壊を必然とした」と。

 

前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ