ロシア・ロマノフ王朝の大地/土肥恒之著

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ロシア・ロマノフ王朝の大地

「ロシア・ロマノフ王朝の大地」
土肥恒之(1947年生)著
副題:「専制植民の帝国・300年の光と闇」
講談社 単行本  2007年3月初版

 かねてからロシア帝政時代の歴史書を探していたが、意外なことに、インターネットでの検索では「ロシア文学」に関する書物は出てくるものの、帝政時代の歴史書は出てこなかった。ために、本書が店頭に並ぶなり、即座に手にとったのは成り行き上、当然といえば当然だった。

 なかに、「世に少なくないロシア嫌い」という表現があるが、ロシアを専門に研究している作者ですら、そういった嗜好が日本社会に存在することを認識していたことに驚くとともに、相似する心情が世界的に共通するものであることをも再認識した。

 私自身も、決してロシアが好きで、この国の歴史書を探していたわけではなく、あくまで、300年継続したロマノフ王朝時代の治世を、その実態を知りたいという欲求に従ったまでである。とはいえ、教科書的な歴史書のため、読了まで思わぬ時間がかかったものの、初めて知ったこと、学んだことが僅かではなかったことを、そして私の知識欲を存分に充たしてくれたことに感謝する。

 ただ、本書が革命後の東西冷戦時代にまで踏み込んでいるため、全体的に散漫かつ雑握な部分がうかがえたことも、あえて記しておく。とはいえ、ロマノフ王朝が誕生するまえの歴史と、人種的にはイギリスに侵入したヴァイキングのノルマンディ人と同じだという説には驚愕を覚えた。

 以下は、備忘録的にポイントをピックアップし、(  )内は私の個人的な印象、意見を挿入した。

 1.先祖はスカンジナビアを本拠地とするヴァイキング、ノルマン人の移動に端を発した。航海者であり、機動力、軍事力に優れた彼らはフランスに上陸、911年にはパリにノルマンディー公国を建設、ノルマンディー公国の君主はイングランド国王の王位継承にからんで海峡を渡り、イングランドを制圧したが、これが世にいう「1066年のノルマン・コンクエスト」(ノルマン人による征服)であり、以来、フランスのノルマンディー公国とイングランドのノルマン王朝は5世紀にわたって連携した。(イギリスですら、外国の海賊にのっとられた時代を経験していることに親近感をもつ)。

 2.東ヨーロッパでは8世紀ラドガを支配していたハザール国を攻め落とし、キエフを拠点としつつ、スラヴ人との通婚を通して同化。「ルーシ」はロシアの古称。

 3.この時代は東ローマ帝国(ヴィザンツ)との親交をはかり、キリスト教国として認知されることが、国際化を意味し、地位の保全にも繋がった。ロシアに次いで、922年にはチェコ、966年にはポーランド、1000年にはハンガリーが受洗した。(ロシア正教と名づけられた宗教)。

 4.1223年、モンゴルの騎馬軍団が初めてロシア南東部に出現したが、そのときは戦闘に至らず、1236年に再び現れたときはタタール人(地獄の民の意)の略奪と殺戮のために徹底的に荒廃させられ、240年間ものあいだ支配を受けることになり、これが、いわゆる「タタールのくびき」と称される歴史上もロシア人の精神上も大きな部分、というよりダメージを受けることとなる。(「ざまあみろ」という印象。)

 チンギス・カーンは1227年に死去したが、孫のバトゥの部隊がロシアからヨーロッパ深くに進攻、1241年「リーグニッツの戦い」は全欧州を戦慄させた。さらに、カルパチア山脈を越えて、ハンガリーの大平原で、ハンガリー軍を打ち破り、行くところ敵なしという状況だった。

 明を征服し、元を創設したクビライ(チンギス・カーンの孫)も、政権を長くは維持できず、明に滅ぼされるやモンゴルの平原へと退避したが、ロシア南部に根を下ろしたバトゥの部隊はおよそ15万から20万の規模、1242年に西方への進攻をやめ、サライにキプチャプ・ハン国を建設、臣従する公国の王は、その位を認め、公国の地位継承について叙任権を公使。二度と祖国に帰還することはなく、この地に骨を埋め、原住民とのあいだに通婚し、子孫を残した。ために、この土地周辺では、今日でもお尻に青い蒙古斑をつけた赤子が生まれるというし、また、東洋人に特有のアルコールに弱い体質、「下戸」も生まれるという。

 5.モンゴル人による支配のネガティブな影響として、(1)文化水準の低下、(2)文盲の増加、(3)ビザンツをはじめ欧州世界との相対的な孤立を深め、ロシアの歴史としては150年から200年は「くびき」のために遅れたと言われる。

 6.1480年に、「タタールのくびき」から解放されるが、ロシア政府はその後も長く、国境警備に細心の注意を払い、多くの軍事力を割かねばならなかった。(一種のトラウマ的な効果をタタール人の建設した国が崩壊した後も継続した)。

 7.ロシア帝国の基礎は1462年、22歳でモスクワ大公となったイヴァン3世(1462-1505)で、初めて「ツァーリ」を名乗り、モスクワのクレムリンは頑丈な城壁で囲まれた。ヴォルガ河下流のタタール人の国、「大ハン国」はまだ存在していたが、かつてのパワーは失っていた。

 8.初期皇帝の系譜:イヴァン3世(大帝)は1462-1505、ヴァシリー3世は1505-1533)、イヴァン4世(雷帝)は1533-1584、フョードルは1584-1598。この後、世継ぎがなく、ツァーリはしばらく途絶えた。

 9.ツアーリ死去後、動乱の時代に入る。スウェーデン、ポーランドといった隣国が王位を要求して侵略を開始した。

 10.ポーランドはスウェーデンに侵略され、1601年から3年間、大飢饉にも見舞われ、人口の3分の1を失ったといわれる。

 11.1612年、モスクワでツァーリの選出が行なわれ、ミハイル・ロマノフが選ばれ、ロマノフ家によるロシア王朝が成立した。 17世紀に入っても、タタール人の脅威は続き、ミハイルは1625年から南部国境防衛のために全長800キロにおよぶ「ベルゴロド線」を建設のうえ、要塞都市を幾つも築き、その間を土塁や逆茂木(さかもぎ)で結ぶ手法を用い、中国の万里の長城のロシア版をつくった。

 12.1645年、アレクセイが二代目皇帝となり、専制君主的性格が強調されるようになる。

 13.当時のロシア人口は1000万人くらい(フランスが欧州最大で2,000万人)、ヨーロッパ人によるロシア見聞記に共通するのは、ツァーリの政治的専制、道徳的下品さ、文化的なものへの無関心さといったもので、(知性の欠けたイナカッペというイメージ)。

 14.地方への長官任命はあらゆる貴族に喜ばれた。「汚職天国シベリア」という言葉があるが、シベリアに領土を拡げたのは、はじめは領土そのものへの野心ではなく、シベリアに多棲する獣、テン、黒と白の狐、オコジョ、銀リス、ビーバー、北極狐、兎、狼、ジャガー、黒豹などの毛皮だった。当時、ロシアの国家歳入の3分の1が毛皮収入で、シベリアの先住民には一定の毛皮の納税義務が強制されていた。毛皮の買い手はむろん欧州の貴婦人だった。(ちなみに、「シベリア」の語源は「シビル・ハン国」というから、モンゴルの息のかかった地域も含まれていた可能性がある)欧州貴婦人による毛皮需要がなかったら、ロシアの領土は現在のような広大なものにはなっていなかったであろう)。

 15.バイカル湖の付近に、東シベリア中心都市、イルクーツク砦が建設されたのは1661年、世紀末には早くも太平洋岸に達していた。もともと住民の過疎の烈しい地域であり、かつ、住民に戦闘的な種族は不在であり、ロシアの狩猟者、商人、軍人らは毛皮を求めて、(かつて司馬遼太郎氏が言ったように「無人の野を行くが如くに、結果として広い領土を元手をかけずに入手することになった)。

 16.ロシアには「ドン・コサック」という騎馬軍団が跋扈(ばっこ)した時代があったが、モスクワ政府は彼らの存在を認め、国境の警備を委ね、定期的に穀物、塩、火酒を提供した。「ステン・カラージン」とは、「ステバン・ラージン」の愛称で、コサックの首領の一人、ペルシャに向かい、カスピ海遠征によって莫大な獲物を持ちかえり、ドン・コサックの首領たちを押しのけ、コサックの主導権を握った。

 17.アレクセイの後、1676年、フョードル3世が世継ぎとなったが、病弱で、治世わずか6年で、この世を去った。次いで、アレクセイの第二の妻が産んだピョートル(10歳)が母ナタリアの摂政を受けて就任。

 18.ピョートル大帝がツァーリとしての権力をふるったのは、摂政である母親が1694年に亡くなり、異母兄のイヴァン5世もなくなった1696年の後で、オスマン・トルコ帝国との戦いから始まった。ピョートルは海軍を創設、造船所をつくり、トルコのアゾフ要塞を2か月あまりで陥落させて帰国したが、大国オスマンに戦いを挑み、一部とはいえ、戦果をおさめたことは国内外を驚愕させた。

 19.ピョートルは航海に深い興味をもち、身分を隠して、ロンドン、アムステルダムに造船技術を学ぶために長期滞在した。ピョートルは欧州と親しく接したおかげで、「ロシアは変わらなければならない」ことを意識し、使命感をもつ。帰国するや、ポーランド、デンマークと三国同盟を成立させ、北方の雄スウェーデン(バルト海の制海権を握っており、当時はカール2世が統治していた)に対向する姿勢をみせた。

 20.(スウェーデンが当時、欧州における強国であったことは本ブログの書き込みによって知った事実だが)、スェーデンのカール2世はロシアが三国同盟を組み、スウェーデンに敵対する情報に接するや、まずデンマークをロシアの同盟軍から離脱させ、スウェーデンの要塞、ナルヴァ(現ポーランド内)を包囲していたロシア軍を急襲、ロシア軍は大敗北を喫した。「もし、カール2世がそのままロシア国内に進攻していれば、近代の大国ロシアは存在しなかった」とは、欧州の識者、学者の共通する意見。(かえすがえすも残念な思いとどまり。このほんの一瞬hンの決断の誤りが次のスウェーデンの運命を決定づけてしまう。

 21.1718年、スウェーデンのカール2世が落命。1721年、スウェーデンはバルト海南岸の領土をすべて失い、バルト三国、エストニア、リヴォニア、イングリアはいずれもロシアの領土と化した。(逆説的にいえば、スウェーデンは現在の領土にプラスして、ポーランドの一部、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、バルト三国などを自国の領土としていた時代があったということで、私にとっては「寝耳に水」といった新知識だった)。

 22.ピョートルは首都をモスクワからサンクト・ペテルブルグに移す命令を発した。スウェーデンを北方に追いやった1921年からは、いわゆる「帝政ロシア」という時代に入って、欧州における存在感を確固たるものにした。ちなみに、1718年のロシアの人口は僅か400万人である。(ロシアはラッキーだったという以外に言葉がない)。

 23.サンクト・ペテルブルグは元々沼沢地で北風が吹き荒れるところ、地盤固めの基礎工事だけに年間4万人の労働者を村や町から強制徴用。悪天候と劣悪な衣食住のため、多くの人間が羅病、命を落とした。町に入る荷車、荷馬車、船などには規模に応じた量の石を持ち込むことを義務づけ、地盤固めに60年以上が費やされたという。(過酷な労働に従事した人間のなかには刑務所に収監されていた囚人も少なくなかったと聞いており、こうした手法はピョートル以降、戦争のたびに捕虜をシベリアの開発にあたらせるという手法に結果したと、私は考えている。とはいえ、ピョートルのやったことはロシア歴史史上、革命的な事績だという点を含め、代々の皇帝のなかで最も隔絶した能力に見合った人気のある皇帝であることも納得できる)。

 24.地盤固めのあと、人間の移住に先立って、住宅を建設、ピョートル末期には人口にして4万人がペテルブルグに住んでいた。

 25.晩年、ピョートルは部下のべーリングに命じて、北太平洋を探検させた。「べーリング海峡」はべーリングの名から命名された。死去したとき、皇帝は52歳、1725年だった。太平洋に達したロシア船は北米のアラスカにも侵入、これをロシア領とし、太平洋での活動のために燃料の薪、水や食料の補給を日本に依頼したが拒絶され、やむなくアメリカのサンフランシスコまで出かけて、補給した。(ロシアが領土を簡単に拡大し得、アラスカまで手を伸ばすことのできた要因はあくまでツンドラ地帯かそれに似た酷寒の地だったこと、西から東へ向かう土地にはロシアに面と向かってはむかう軍事勢力が皆無だったことなど、幸運が重なっている)。

 26.ピョートル大帝の死後、世継ぎを狙う争いや、即位した皇帝、皇女いずれにも、これという事績はなく、1762年、エカテリーナ2世(旧名ゾフィ、生粋のドイツ人)が即位、民衆には不評だったが、欧州の精神、「啓蒙思想」をもとに宗教、政治、経済、教育など諸分野の改革を推し進めた。(日本の大黒屋光太夫らが難破してアリューシャン列島の一島に流され、ウラジオストックからイルクーツクを経てモスクワに至り、帰国許可を願いに謁見してもらっい帰国を肯んじてくれた相手がエカテリーナだった)。

 27.1976年、ロシアの人口は3、740万人に達した。群の数も493群と増加、在地の貴族たちから互選によって地方役人や裁判官を選ばせた。

 28.エカテリーナの治世は34年間におよんだが、その間に21人の愛人がいたといわれる。自分の夫だった皇帝をクーデターで殺害させた男、オルロフとも愛人関係にあり、彼女が生んだ3、4人の子供の父親はオルロフだったという。

 29.1771年、第一次ポーランド分割、1793年第二次分割により、ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアはともに領土と人口を増加した。(ただ、このときの分割によって初めてロシア領内にユダヤ人が在住することになり、いずれは共産思想の拡大と革命への道をとだることになるという点、新しいくびきとなったともいえる)。

 30.1768年以降、それまで南下作戦でしばしば戦火を交えたオスマン・トルコの力が弱体化。ロシアは黒海への出口を確保し、クリミア半島の併合に成功する。この頃、アメリカでは独立戦争が勃発、そして、1789年には、フランス革命が始まる。

 31.1796年、エカテリーナは34年の在位の末、脳卒中で死去。功績は外国人であった女帝としてロシアにもたらしたものは小さくはなかった。ただ、エカテリーナの後を継いだ皇太子パーヴェルは貴族たちのクーデターに遭い、1801年にあっけなく生涯を閉じ、孫のアレクサンドル1世が即位。

 32.1825年、アレクサンドル1世の死去の報がその子、ニコライのもとに届く。ときを同じくして、フランスのナポレオンが大群を率いてロシアに侵入、モスクワを火の海とした。ロシア軍は4万5千人の兵士を失い、ナポレオン軍は2万8千人の兵を失ったが、ナポレオンは帰還に難渋、パリに帰り着いたとき、軍隊はほとんど壊滅状態だった。

 33.ニコライ治世の間、ドイツ人貴族のロシア官界への進出が目立った。ヨーロッパの技術、文化の吸収に寄与したばかりか、官僚制度の拡充と法の整備に貢献。

 34.1840年、モスクワの人口は35万人、ペテルブルグの人口は47万人と膨れ上がった。

 35.分割領有していたポーランドは兄のコンスタンティン大公が常任していたが、ポーランドの方が専制ロシアより進んだ社会体制だった。ところが、ニコライが即位するなり、ロシア通貨を導入させ、ロシア人の役人を登用、公用語はロシア語を強制した。

 (ポーランドは歴史的にロシアには長期にわたり自由を束縛され、しまいにはポーランドを安堵の土地として居住していたユダヤ人までポーランド分割によって自国に引き込んだことが大国崩壊の原因の一つとなったことは否めない)。

 36.1851年、ペテルブルグからモスクワまで、約1、500キロ、鉄道敷設計画が持ち上がる。

 37.ニコライの晩年、1853年、ギリシャ正教の保護を目的に、オスマン・トルコ帝国の自治領に8万の軍隊を派遣すると、オスマン帝国もイギリス、フランスの軍隊支援を受けて、宣戦布告。戦場はふたたびクリミア半島、50万人のロシア兵が戦死。この戦争で、イギリス軍が「セヴァストリーポリの虐殺」と呼ばれる殺戮を行なったことで、イギリス人に対するロシア人の憎しみは長く残った。(と同じ憎悪心をなぜ中国は二度にわたるアヘン戦争でひどい目に遭ったイギリスに抱かないのか、為政者の手に負える相手だけを相手に外交問題をふっかける中国為政者の意図が透けて見えている。日本が最も組みやすい国、舐められているという以外にない)。

 38.新帝アレクサンドル3世はクリミア戦争の敗戦処理、政治犯の恩赦の実施、長い歴史的な懸案だった「農奴」の解放(ロシアでは人口の90%が農民)を訴えたことで、貴族らの軋轢を生みはしたが、1861年に農奴解放令に署名した。(クリミア戦争の敗戦処理のなかには、オスマン・トルコへの賠償金の支払いのため、アラスカのアメリカへの二束三文での売却も含まれていたであろう)。

 39.ロシアはポーランド分割以来、世界最大のユダヤ人人口を抱えていたが、アレクサンドル2世暗殺に関与した組織にユダヤ人が数名加わっていたことを明らかにされたため、その直後からユダヤ人への迫害、攻撃が民間に増えた。モスクワではユダヤ人2万人を追放、多くのユダヤ人がアメリカに向かった。

 40.1865年、鉄道の延長計画、3、800キロ。1874年には18、200キロ、1885年には2万4、100キロに達した。長距離移動の手段が生まれたことが人口の移動にも影響した。1910年の人口は、サンクト・ペテルブルグが1、566、600人、モスクワが1、481、240人。

 41.農奴解放後のロシアの近代化は、明治維新の日本、南北戦争後のアメリカとほとんど同時代であり、19世紀後半のロシア総人口は1億2、600人。

 42.ロシアの「乞食」は有名だが、これが真正の乞食なのか、ただのホームレスなのか、季節による出稼ぎなのか、生業としてやっているのか、伝統的に存在し続け、政府や領主がどんな手を打っても、なくならなかった。キリスト教の「喜捨の慣行」が贖罪行為として形骸化し、偽善化したために継続し、社会的に認知されてもいた。ゴーリキーの「どん底」のような風景であり、乞食を生業とする者が全国で30万人は下らないといわれる。

 43.1847年にはカザフ地区(アジア人の土地)を併合。1867年、タシケントにトルキスタン総督府を置き、プハラ、ヒヴァを保護国化し、コーカンド・ハン国は滅亡させた。1881年、トルクメンの戦いに勝ち、中央アジアをほぼ支配下におさめた。鉄道も、さらに拡張、1888年にはサマルカンド、1899年にはタシケントまで延長。(当時も現在も、ロシアと国境を接する小国の権益はロシアによって適当に決められ、ロシアの意思を無視しては国政の運営はありえないだろう)。

 44.1857年、西欧列強が中国をターゲットした狡猾な交渉をしているのを座視せず、ロシアは中国領土だったアムール河、ウスリー河に航海権を獲得、1860年には中国領だったウラジオストックを建設し、土地の支配権を宣言。その間、サハリンが島であることが判明した。(作者はそれが日本の間宮林蔵の手柄だとはあえて書いていない)。ロシアは中国(清)が疲弊している隙に乗じ、中国領土の一部を掠(かす)め取ったのではないか。だとしたら、中国は日本の領土である尖閣諸島についてごちゃごちゃ言うまえに、ロシアに盗まれた土地を返してもらう交渉の方が先決である)。

 45.農奴だった貧民のシベリア移住では10人に1人は死亡したが、それでも移住は止まらなかった。ウラジオストックは1897年には約2万9千人だったのが、1911年には8万5千人ほどに増加していた。

 46.シベリアに金の鉱脈が存在することは現地人は知っていたが、あえて口にしなかった。が、1840年にはレナヴィチム河流域を中心に金が発見され、採掘が始まった。1886年には、南アフリカで金鉱が発見され、20世紀初めの時点で、イギリスは世界に867の金鉱山を所有し、世界の金産額の半分以上を占めていた。ロシアで発見された金鉱脈の発掘作業に、イギリスはむろん参加を表明する。

 47.ロマノフ王朝最後の皇帝となるニコライ2世は1868年、アレクサンドル3世の長男として生まれ、皇太子時代、日本を訪問した折、日本人警察官に斬りつけられ負傷するという事件に遭遇(大津事件)。1904年、ロシア国内は共産主義者による暴動、内乱、騒乱が各地で起こっていた時期、日本との開戦を迎え、惨敗する。

 48.レーニン、トロッキー主導による革命が起こり、ニコライ皇帝の家族は全員殺害され、帝政ロシアの時代は終焉を迎える。(その間、日露戦争に破れ、社会体制が変化し、帝政ロシアはマルクス主義を主体とする政治に変容していく)。

 49.1922年、ソ連邦が成立。ロシアのほか、ウクライナ、べロルシア、ザカフカース(1936年からグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに分かれた)、1924年トルクメン、ウズベク、1929年タジク、1936年カザフ、キルギス、1940年バルト3国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアのほかモルダヴィアが加わった。同時に、革命後、約150万人が母国を離れ、外地に亡命。

 50.レーニンが死去、スターリン(グルジア出身)が政権を握るにおよび、自身がツァーリの立場にあるがごとく、史上有数の独裁者として君臨。30年間、最高権力者の地位を保持、(逆らう者はすべて抹殺した。モンゴルでは、かつてロシアのくびきとなったタタール人への憎悪からか、復讐のため、彼はチンギス・ハーンの子孫を探しださせ、これを悉く殺害したという。たま、スターリンの殺害したユダヤ人の数は、ヒトラーの殺したユダヤ人の数を凌ぐと言われる)。

 51.ソルジェニーツインの「イワン・デニーソヴィチの一日」は1962年、フルシチョフの許可を得て出版された。(同書は本ブログの2006年1月9日に書評)。

 52.ソ連邦時代の中央集権的性格、抑圧的性格、いずれもロマノフ王朝時代をはるかに凌ぐほどすさまじいものだった。

 

 本書はたった3世紀に君臨したロマノフ王朝だけを扱うのではなく、ロシアの歴史全体を扱ったため、内容的に、雑駁な部分が存在することは否めない。

 正直な感想だが、ロシアにとって、モンゴルのタタール人が「くびき」として長い期間にわたってトラウマになったことの意味は諒解したが、一方で、本当の「くびき」は農奴だったような気がする。また、ウォッカがなければ、夜も昼も明けぬという民族という実態からは、社会体制への、ひいては為政者への不満が根にあるように思われる。

 現在の、プーチンが政権を担うロシアが常識ある国か否かはここでは問わないが、ミハイル・ゴルバチョフという人物がいなかったら、ロシアに資本主義的な自由市場の存在はまだなかったであろうし、二酸化炭素の排出国になるのも遅れていただろう。プーチンも、プーチンが氏名したベトベージェフ首相も根性の腐った、小者であることはプーチンが指名したことで明らか。


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