睡蓮の長いまどろみ/宮本輝著

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睡蓮の長いまどろみ

「睡蓮の長いまどろみ」上下巻
宮本輝(1947年生)著
1995年-1998年まで「文学界」に初出
1998年 文藝春秋社より単行本
2003年10月 文春より文庫化初版

 以前のブログで、この作者のデビュー作で、賞に恵まれもした「泥の河」「蛍川」「道頓堀川」の、いわゆる「川三作」に感動したこと、以来、同作者の作品にのめってかなりの作品に目を通したが、いずれも初めの三作を超える作品はなく、1999年以来、接触なく今に至っていることを書いた。 

 再びこの作者の著作に触れることはないと思っていたところ、知己が「ぜひ、この本を読んでみて」と言い出し、貸してくれたのだが、半年以上ほったらかしたままだったのを、昨日からあえて手にとった。久しぶりに一気読みさせられ、感動が読了してなお長く胸底にくすぶり続けた。

 蓮は花を咲かせれば同時に実をもつところから、「花果同時」といわれ、それが「因果倶時」(いんがぐじ)という仏教的な用語になったという点に、本書執筆のモチーフがあり、因があって結果があるのではなく、因と果とは同時に決まっているという思想には奥の深さを感じた。ところが、本書では「運命だと思うのなら、それに立ち向かって生きよ」といった展開になっている。

 「人間関係の過酷さ、生命の脆さを作者は心底から知っている」とは、解説者の言葉だが、そうした思想が「運命というものがあって、変えられないとしたら、人間として生きる必要も価値もない」と主張する主人公の母親の言い分に繋がり、読者にも納得がいく。さらに、解説者は「作者の思念、思想は深くなっている」との言葉にも頷けるものがある。

 ただ、私個人としては、原因が生じた瞬間には結果もまた生じている」という思想からは、「人類の誕生は自然破壊を経て、ついには人類が自滅していく結果を既に包含している」と想像したし、この想像には確信さえ持っている。それはちょうど地球、つまりは宇宙そのものが、誕生と同時に破滅をも意味していることと同じだ。違うのは昆虫の一生と、人間の一生と、植物の一生と、地球の一生と、宇宙の一生とが、それぞれに時差あるというだけのことである。

 本書のなかに、「幼児の頃に母親との肌と肌の触れあいや母親との親しみを欠いて育つと、そうした記憶の欠落が性的倒錯の芽となる」という話が出てくるが、真実か否か、判断しかねた。私自身は私が生まれた翌年に弟が生まれたため、当然ながら、母親との接触は1年ほどしかなかったはずだし、1歳児の折りの記憶があるはずもないし、母親に抱きしめられた記憶もないが、自らを性的に倒錯していると思ったことも感じたこともない。ただ、弟が生まれて数年のあいだは、母が目の届かないところに行ってしまうことがたまらなく寂しかったことを記憶している。

 だから、誠実で、男らしく、良き家庭人でもある主人公の男性が自殺した若い女を自らに憑依させ、自慰行為に耽る部分には抵抗感が強く、納得できないものが残った。

 が、「悪行の報いで、罰があたって、みすぼらしくて恥ずかしい姿になった自分を、過去に苦しめた相手の目のまえに曝す、そういう日が必ず来る」という自業自得の顛末を語る部分は説得力がある。

 さらには、「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」という言葉に触れ、最近耳にしなくなった言葉だなと、やけに懐かしいものが胸に溢れたし、「夕立を最近経験しなくなった。子共に夕立といっても、かれらは理解しない」という概嘆にも納得がいく。

 しかし、「旅客に食べきれぬほどの食事を用意する、それが北海道のもてなし方だ」との下りには、むかっとくるものを覚えた。

 6月から9月までは、北海道は観光客が多数訪れる、いわばピークシーズンだが、その期間に大きな旅行社の一番高い価格のツアーを買って中学生だった息子と道東へ旅をしたことがあるが、どこの旅館でもレストランでも、ひどいものを食わされたし、ことに羅臼の旅館の夕食のひどかったことには憤りを覚えたほどだ。

 それはとにかく、本書を手にしたとたんから途中で止められなくなったこと、作者の思いが十全に伝わってき、宮本輝の作品に久しぶりに感動したことを、もう一度ここに記しておく。


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