江戸の数学文化/川本亨二著

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江戸の数学文化

「江戸の数学文化」 川本亨二著
岩波科学ライブラリー 1999年10月初版

 日本に初めて数学というものが入ってきたのは中国からで、6-7世紀頃だったらしいが、日本側にそれを吸収する力量がなく、根を下ろさなかったという。

 江戸の数学基礎は16世紀末になって、中国から再渡来した数学だったが、伝えられたのは「天元術」「算法統宗」であり、天元術などは「X」、「Y」などの未知数が1個しか使えない欠陥があり、同時に、算木や算盤を用いることの面倒があった。また、方程式にいたっては、最上段が定数項、2段目がXの項、3段目がXの2乗の項となるため、それらの不便を解決しようとする発想が日本独自の数学(いわゆる和算)の出発点で、ここから大きな飛躍をとげた。

 (中国から渡来した数学がもう少し完成度が高かったら、和算はどうなっていたのだろうか)。

 関孝和(せきたかかず)(1624-1728)、建部賢弘(かたべかたひろ)(1664-1739)以降、松永良輔、(?-1741)、安島直円(あしまなおのぶ)(1739-1798)、和田寧(1787-1840)などの専門家を輩出、彼らの手を経て、解析学、微積分学の一部にまで達した。(関孝和などは世界で初という発見までしている)。

 ただ、この国特有の現象というべきか、数学すら、華道、剣道、茶道、日本舞踊、囲碁、将棋などのように、流派に分かれ、閉鎖的な研究集団と化す。こうした環境が和算の実用性を疎んずる方向へと傾斜させた。

 専門家による和算と庶民生活に必要な数学とのあいだに乖離が生まれ、庶民はそれとは別の生活数学の道を拓いていった。

 日本の和算が実用性を高め、人類が解決を求められている課題を研究動機とし、新しい発見に向かう過程を踏まなかったのは、この国の自然科学への関心が希薄で、その面から課題を突きつけられるという経験をしなかったからで、このあたりに西欧とのあいだに大きな相違、隔たりを招く結果を生ずる。

 (自然に対峙し、自然を科学的に知見することに関心を抱いた西欧と、自然を花鳥風月や俳句の対象とし、生活を自然に調和させてきた農耕民族である日本人とのギャップであろうか)。

 庶民にとって、算盤は主として生活や商売に使われ、和算家の主目的とは違っていた。算盤も中国から16世紀に伝えられたが、江戸人は上段の2珠を1珠とし、珠の形も丸型だったのを菱形の尖ったものに変えた。

 (珠算という言葉は明治10年頃から使われた言葉)。

 寺子屋では「読み」「書き」「そろばん」が教科の三大科目だったが、そろばんを教えられない教師が多く、寺子屋の30%しかその任を全うできなかった。これは、商人が加減法のほか乗除算を必用としたためであり、言葉を換えれば、商人の側は商売に必要な算数以外には関心を示さなかった。

 18世紀後半から簡略化された算用文献が出回り、安価にもなったが、庶民化イコール通俗書であり、教科書としての体裁はなかった。彼らは「早見表」「換算表」「定法」などを座右に置き、必用に応じて使い分けた。

 海賊版が多く出回った背景としては、専門家が和算学のリーダーシップを率先してとり、発見した数学的方法や方程式などを自派に貯めこんで、公表を避けたからではないかと思われる。

 当時の通貨は金貨が一両を超えると、十進法になるが、一両未満では四進法で、一両は四分、一分は四朱、一両が16朱であり、一方京阪地区では銀が主流で、貫、匁、分、里という単位を使ったが、同じ銀にも、流通貨としての「丁銀」(純度80%)のほかに、「灰吹き」と称する100%銀もあって、小銭への換算が面倒だった。

 当時は、現在でいう「両替商」が「銭売商」と呼ばれた。

 長さにも、重さにもそれぞれ地域別の呼称があったのは、長いあいだ自給自足を基底とする生活のなかで慣用されてきた単位がそのまま温存されたためで、商品経済、大量流通の経験が浅いため、生産品規格や単位を全国的に統一しようという動きに至らなかった。

 現実の生活のなかでは「定率係数」も「勾配早見表」も屋根づくりの職人に利用された。正三角形は(一辺)X(一辺)x0.433で求めた。ルートもピタゴラスも知らなかったものの、一辺の二乗に0.43を機械的に掛けさえすればよいことを知っており、これを「三角の法」といった。そのほか、球の面積には「玉法」が、円錐、角錐には「錘法」が、差し渡しや斜辺のルートには「裏曲尺法」などがあった。

 「目分量」「よい加減」「腹づもり」などの言葉は現在でも使われるはするが、大雑把で正確さに欠ける意味も含まれるが、なんとなく捨てきれない愛着も感ずる。身分制社会のなかで、「身の丈に応じた生活」「分相応の生活」を旨としていたかれらには、正確さよりも緩やかな妥協を大切にしたのではなかろうか。

 一方、和算の専門家は遊戯性をもった問題をクイズとして出し、クイズには自分の姓名も露出させている。

 日本に初めて「九九」が伝わったのも中国からで、奈良時代の少し前だった。日本にはその時代の「九九」が残っていず、長いあいだ謎だったが、今世紀に入って、中国から出土した「九九表」は「九九八十一」からはじまっていたのが日本に渡ったものと思われ、同じ「九九八十一」型のものであることが判明した。

 逆に「一、一が一」で始まる「九九表」が伝来したのは16世紀か、それ以降で、これが現在まで継続。中国がなぜ「九九八十一」から始めたかについては、数学の特権階級が計算を一般大衆の手に届かないように意図したためという説がある。「九九表」は大正14年の国定教科書のときから小学校で採用された。

 記数法はインド数字からアラビア数字を経て算用数字となり、その間にゼロ(0)も発見され、ヨーロッパに伝えられて以後、数学が学問として独立し、飛躍的に発達した。

 ローマ帝国が使用した数字は日本数字と同じで、いずれもゼロ(0)を用いないため、同じ不便上の欠点がある。

 数字の読み方に、日本語では3種ある。「いち、にー、さん」「ひー、ふー、みー」「ひとつ、ふたつ、みっつ」、これは表現の遊び、音の響きを愉しむ精神。

 (こういう国は稀だが、日本語では「わたし」「わたくし」「おれ」「われ」「吾人」「小生」「わたくし」「あたくし」「あたい」「うち」などを代表として、こうしたケースは幾らでもあり、擬態語、擬声語を含め、この事実が日本語を世界的に稀な性質の、語彙の豊富な言語とさせている)。

 江戸の武士たちは数学を学習することを非常に嫌った。下っ端役人のすることと軽侮。下手に数学を勉強すれば、仲間はじきにされた。人の上に立つ者は金銭のことを口にすべきではない。銭勘定を生業とするのは商人のような身分の卑しい者のすべきことで、武士が同様の行為をすることは許されず、恥ずべきことだった。

 (イギリスの騎士道でいう、食べるものに対し、美味であるとか、不美味であるとかいうのは騎士ではないというのに似ている)。

 この名残は、現在でも僧侶へのお礼は「お布施」という形で料金表はない。

 (これはちょっと違う。墓に立てる木を使って寄進者の名を書いてもらう卒塔婆(そとば)など一本につき5千円を請求されるし、僧侶は外車に乗って檀家を回り、集金に余念がない。僧侶ほど図々しい存在はないと私は思っている。また、江戸前寿司で、品物は見せても、料金表などは置かず、それが江戸前の粋だとしゃれた精神が現在でも生きており、一見客に対しては法外な値を吹っかける。そのため、回転寿司が世に出回るようになってから、潰れた寿司屋は数知れない。「ざまーみろ」と私は思っている。世界のどこを探しても、レストランでメニューに料金を示さないところはない。「粋」というより、「恥」だと、むしろ「バカげている」と、私は思っている)。

 ペリー来航に伴い、国防の危機を感じた幕府はオランダと交渉し、軍艦一隻とオランダ教授陣22名を招聘、本格的な海軍伝習が長崎で始まったが、ここに日本の数学にも一大変革が起こった。

 欧米の近代科学が軍事科学技術のベースであったため、数学も西洋のものにならざるを得なかった。和算法はこの時代変化を目の当たりにしつつも一向に力を貸そうとはしなかった。そこで、幕府は若きエリートを選抜、西洋数学を学ばせた。和算は高い水準の学問でありながら、これを機に時代から取り残される運命をたどる。

 明治政府ははじめ西洋数学を学校に教科として持ち込んだとき、算盤の欠如に関して、多くの人から非難を浴び、ために1年も経ずして、「洋風の算術」のなかに「算盤」を併用することを認め、相互の融合一体化によって、決着をみることとなった。

 アメリカでショッピングをすると、まず品物を置いてその値段を言い、そのうえにつり銭をプラスしながら、客に渡すが、彼らの頭にはプラスしかないことがわかる。アメリカ人は機械を使うことで、数学的低脳を補っているが、IT関連が伸張する時代、インド人には到底勝てないのではないか。

 本書に、関孝和や建部賢弘の数学的発見について、多少でも説明が欲しかった。彼らの数学が当時いかに優れた高次のものだったかを紹介することで、日本人に数学への自信をもたせるよすがともなり、本書をさらに価値あるものとしたように思われる。とはいえ、それぞれの数学者が華道や舞踊のように、それぞれが発見した数学的発見、知見を門外不出とし、内部に貯めこむだけで、公表しなかった事実からは、日本人の狭量さ、せこさを感ずるばかり。


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