芭蕉/田中善信著

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芭蕉

「芭蕉」  田中善信(1940年生/白百合女子大学教授)著
副題:「かるみ」の境地へ
2010年3月25日 中央公論より新書初版
¥900+税

 佐保姫の、春立ちながら、尿(しと)をして

 芭蕉は若い頃、源氏物語や峡衣物語などの古典文学や耳学問によって得ていた知識を活用、しばしば句に古典から言葉を引用した。私の頭の中では、姫が立ち小便をしている風景がエロティックに艶(なまめ)かしく写っている。

 実は、女性が立ち小便をする後ろ姿を箱根に近い田園地帯で目撃したことがあるが、その女性は50歳以上の方で、着物の裾を両手で持ち上げ、脚をA型に開き、真下の地面に向かって勢いよく小水を落下させる景色が忘れがたいものの、上記俳句のような色気はなかった。

 作者によれば、当時の句は現代人に膾炙している句とは異なり、連句方式が多く、掛詞や縁語が必然的に多くもあり、私個人としては関心を惹かれない。

 芭蕉が1672年、29歳時に江戸の日本橋に移住し、「貝おほひ」を出版、再販にも恵まれ、おかげで俳句の世界に名の残る室井基角、服部嵐雪、杉山杉風、松倉嵐蘭などが相次いで入門した。芭蕉は桃青という号も使っていたが、若い頃は連句が主体だったが、後世に残した「かるみ」は江戸移住以後の新しい思いからの産物だった。

 日本橋に8年余住んで、突如深川に転居したが、当時深川は新宿がそうであったように江戸市中ではない。移住後、木因(ぼくいん)、荊口(けいこう)、知足(ちそく)らが新たに門人となる。この頃から、芭蕉は中国の詩聖、杜甫に傾倒し、奇をてらった句や漢文をベースに据えた句などが多くなる。

 41歳時、故郷を含め、旅に出る。伊勢、大和竹、吉野、桑名、熱田、鳴海、名古屋、奈良、大津などを巡り、多くの門人を得る。

 「野ざらし紀行」の冒頭の句は、「野ざらしを、こころに風の、しむ身かな」、「みちのべの、むくげは馬に、食はれけり」と、これまでの連句様式とは異なり、当時の門人の一人、許六は「これらの句は芭蕉が目指す蕉風俳諧を開くきっかけになった句である」と見ている。

 また、許六以前にも、素堂が、「山路きて、なにやらゆかし、すみれ草」を評価している。これら三句には芭蕉のいう「かるみ」が出ていて、現代人にも解りやすい。ただし、この頃から、芭蕉は俳諧に禅の精神を込めることを根本理念とするようになる。

 「蛙飛びこむ、水の音」の上の句を門人たちに考えさせたところ、基角が「山吹や」を提示したものの、芭蕉はこれを退けて「古池や」を採った。

 「野ざらし紀行」の俳句は過去の俳句と断絶して、新風を吹き込んでいる。

 常陸の国、鹿島への小旅行での、「冬の日や、馬上に氷る、影法師」もその延長線上にある。

 「塚も動け、我が泣く声は、秋の風」は芭蕉に会いたがっていたが、会えぬまま逝去した一笑という俳人に捧げる句で、「塚も動け」は激しい。

 江戸時代にあっては、和歌、連歌、俳諧の順が社会的通念であり、芭蕉はこれを打ち崩し、同等の立場に立つ俳諧観を形成、樹立することを生涯の目的とする。芭蕉が「かるみ」「日常のごくありふれた事柄を平易に表現した俳諧」を考えたのはその意図に沿ったものだが、「おくのほそ道」「猿蓑」に一層具体化される。

 1689年3月、「行春や、鳥啼き、魚の目は泪」を発句とし、曽良を同行者に、およそ2年8か月におよぶ「おくのほそ道」への旅に出る。

 「夏草や、兵(つわもの)どもが、夢の跡」は平泉にて、その他、「象潟(きさがた)や、雨に西施(せいし)の、ねぶの花」、「汐越や、鶴はぎ濡れて、海涼し」、「五月雨(さみだれ)を、集めて早し、最上川」、「荒波や、佐渡に横たふ、天の川」など多数の句を残し、多くが現代にも膾炙している。

 「おくのほそ道」の価値は卓抜な表現技術にある。一字も増補の余地がなく、一語も置き換えることができないほどに練り上げられた珠玉の名文である」と、作者は強調する。さらに、「このような文章は芭蕉以前にも、以後にもない」と。

 しかも、「おくのほそ道」が出版され、世に出たのは芭蕉の死後である。

 以下の三句は、芭蕉が没した同じ年の句。

 「秋ちかき、心の寄るや、四畳半」

 「此の道や、行く人なしに、秋の暮」

 「秋深き、隣は何を、する人ぞ」

 同年、大阪に旅し、その地で没した。辞世の句は、「旅に病で、夢は枯野を、かけ廻る」。

 芭蕉の死後、一番弟子だった基角は芭蕉の「かるみ」から離れ、江戸に残って徘徊師として活躍、芭蕉の名は江戸俳壇から次第に忘れられた。

 一方、地方に勢力を築いた支考や野坂は「かるみ」の特徴を懇切に説明、多くの同調者を得、芭蕉が後に俳聖として崇められる素地をつくった。

 当時の人は、芭蕉の名が西暦2010年に至ってもなお「俳聖」として残り、芭蕉のつくった多くの俳句が人々の口に上ることなど予想しなかったであろう。それにしても、基角が芭蕉風から離れたとは意外の一語だった。

 現代人は芭蕉の句と、一茶の句が好きなのだ。


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