メロヴィング朝/レジーヌ・ル・ジャン著

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「メロヴィング朝」
レジーヌ・ル・ジャン(フランス人歴史家)著
訳者:加納修
帯広告:フランク王国最初の王朝、その権力と社会を解説
2009年9月5日 白水社 文庫クセジュ(新書サイズ)初版 ¥1050+税

 メロヴィング朝とはフランスの原型、フランク王国最初の王朝。

 5世紀末から8世紀半ばにカロリング朝が台頭するまで存続、興った時期はポストローマ期にあたる。

 5世紀初頭、フン族の西進によって圧迫されたゴート族、スエヴィ族、ヴァンダル族がガリア、イタリア、スペインを通過、略奪を行い、5世紀後半には西ゴート族が進出、ブルグンド族は南西方面へと膨張した。これの防衛に当たったのがゲルマン人であり、ローマ帝国からは「戦争の民、戦争を職業とする民族」とみなされ、ローマ帝国崩壊後は、みずから後継者を名乗った。

 「フランク人」という言葉は、3世紀のローマ帝国史料によれば、ライン河下流沿いに定着したゲルマン諸部族を示すために使われた。(ライン河は源をアルプス山脈に発し、現フランスとドイツの国境沿いに下り、ドイツ国内を経てオランダ領に入り、ロッテルダムに近い海岸に流れこむ一級河川)。

 上記した戦乱の時代に勃興してきたのがメロヴィング朝で、初代王はクローヴィス、領土を拡張し、東ローマ帝国との関係も友好裏に保ち、コンスル職にも任ぜられたことも存続に寄与。

 6世紀の終わり、クロタール2世の時代、中央集権的政策と王権の一層の充実と確立を目的に、メロヴィング朝とフランク族との結びつきはさらに緊密になった。以後、キリスト教的な聖性を王家に取り入れたことにもよるが、王朝とフランク族の優位とは互いに不可分の関係におかれた。6世紀末のガリア地方にはおよそ220の修道院があったが、この時代のキリスト教化は表面的なものにとどまった。

 王朝の首都、「王の座」として選ばれたのはパリ、オルレアン、ソクソン、ランスであり、6世紀末にはオルレアンはシャロンに、ランスはメッスに取って代わられた。

 6世紀の末には、ゲルマニアのアルザス、アレマニア、バイエルンにメロヴィング朝ははじめてフランク出身の大公を置いた。(大公領が伯領になるのは次の王朝「カロリング朝」になってから)。

 メロヴィング朝時代の人々の平均寿命は39歳、社会形態はローマ帝国やゲルマンの多様な起源から、その中身を汲み取っている。また、この時代、奴隷の存在が必須でもあった。奴隷は世襲によるもの、戦争捕虜、戦利品、購買、断罪を通じての奴隷化などがあった。

 7世紀末には、中央集権が脆弱化、司教らは統制を受けず、権力をほしいままに行使することが可能となる。そして、この王朝は8世紀に入ると、各地に配置した役人による横領のため租税の回収にも苦労するようになり、同時に、軍隊を召集する力も他国との相対的な関係において弱体化し、力強さを喪失した。

 本書には、解説にもあるが、人道的な観点から王朝の社会を説明する傾向が強く、ために、宗教はむろんのこと、人々の住居、生活、食料採取手法、相続、結婚、女性の立場、村落のありよう、人口、病気、牧畜、耕作にまで筆が及んでいる。


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