マルタの碑/秋月達郎著

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「マルタの碑(いしぶみ)」- 日本海軍地中海を制す
秋月達郎著   祥伝社文庫  定価¥980
2002年単行本出版   2006年6月文庫化

 第一次世界大戦は1914年、サラエボにおけるオーストリア皇太子夫妻暗殺に端を発したことは本ブログの「バルトの楽園」ですでに触れた。

 大戦時、日本が同盟国イギリスの要請を受け、青島(ちんたお)に在ったドイツの城砦を攻略し、あわせて南洋のドイツ植民地であったマーシャル諸島、東西カロリン諸島、マリアナ諸島、クサイエ、トラック、ポナペ、ヤップ、パラオ、アンガウルなどの島を奪取したことも、ブログですでに紹介したところだが、日本海軍が地中海にまで艦隊を派遣、遠征し、連合国の食料、燃料を満載した商船、兵員を乗せた輸送船を護衛した事実については、(恥ずかしいが)全く知らなかった。

 大戦がバルカン半島を軸に起こったことから、地中海は連合国側(イギリス、フランス、ロシア、イタリア、オーストラリア、ニュージーランドなど)にとっても、同盟国側(ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア)にとっても、あらゆる意味での補給路だった。そこにドイツが発明、製造した潜水艦(俗称Uボート)が実用に供されるや、あっというまに期待以上の活躍をしはじめ、イギリス一国で4,200隻の船舶が被害を受け、大戦終了までには5,708隻の船が沈められ、10,333人の生命が失われた。

 ちなみに、Uボートの建造総数は343隻で、被害を受けたドイツ側のUボートは198隻、犠牲となったドイツ兵は132人ではったが、総トン数1,219万1996トンの敵艦船、輸送船を沈めるという驚異的な戦果を挙げた。 

 この当時、潜水艦というものはまだ誕生していない。Uボートはドイツ語でUnter See Boot(ウンタゼーボート)といい、英語のUnder Sea Boatにあたるが、直訳すれば「海面下のボート」との意味で、第二次大戦時における「潜水艦」、Submarineのイメージとは遠いものの、魚雷を撃つことは可能で、船舶の被害はそれによる。

 大戦が長引いたため、ドイツの植民地、租借地を占領したあとの日本は特需に見舞われ、ドック(造船所)はどこもボルト(鋲)を打ち込む音が連日絶えなかったという。 要するに、連合国内には日本に対し「領土を広げたり儲けるばかりでなく、血も流せ」という意図があり、それが「地中海で暴れまくるUボートから連合国の輸送船、商船を護衛する任務について欲しい」との要請に繋がったという。
 (特需のなかにはフランス海軍から注文を受けた駆逐艦8隻もある)。

 日本海軍はこれを受け、極秘裏に巡洋艦を旗艦とし、8隻の駆逐艦をつけて特務隊とし、インド洋からアデンを経、スエズ運河を抜けて地中海のマルタ島に達する。このことについては、軍の関係者以外はメディアを含め、日本人はだれも知らなかったという。

 マルタ島(当時イギリス領)はいにしえより地中海の争覇の中心であり続けた島で、ヴァレッタという港に入ったときに眺める風景はまるで要塞だったという。
 (いっておくが、地中海は入り江だから常に穏やかな海だと思うと大間違いで、季節風が吹くと、三角波が高々と行く手を遮り、日本の艦船も苦労した)。

 日本海軍はマルタ島のヴァレッタを母港とし、連合国の要請がある都度、2、3艦を一つのチームとしてマルセイユへ、ポートサイドへ、アレキサンドリアへという艦隊行動を採って護衛の任務をこなす。 ときには、護衛している輸送船がトピード(魚雷)にやられ、駆逐艦でUボートを狙って爆雷を落としつつ、沈む船から兵員らを救助する仕事(ときには5,000人もの人命を助けた)にも従事、欧州で喝采を浴び、以降、日本海軍特務隊は「地中海の守護神」と呼称された。(当時、潜水艦がない以上、爆雷というものも考案されていず、ここでいう爆雷も、日本艦隊が離日するまえに世界で始めて独自に工夫、創造したという)。

 1917年3月、大戦の真っ只中、ロシアで革命が勃発、ロマノフ朝は倒壊し、連合国側に手痛い情勢が予測される。東面していたドイツ軍がすべて西部戦線に向けられるのではないかという危惧。 同じ、1917年4月、それまで中立を宣言していたアメリカが連合国側に入って参戦を表明、連合国側は一様に安堵した。

 大戦がまだ終わる前、1918年、スペイン風邪が猛威をふるう。発生地は中国南部、苦力(クーリー)から米水兵に感染、それがキャンサス州のフォトライリーから米国全土に広がる。また、香港で感染した英国兵士がインドにもちこみ、インドからスエズ運河を通ってアレクサンドリア、マルセイユ、その後数か月でスペイン全土からフランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、イギリスへと拡大、世界中に飛び火した。日本も例外ではなく、384万人が感染し、うち38万人を超える死者を出した。 地球上の人間の25人に1人が死んだ勘定になる。
 (このことから、人類にいずれ訪れる死滅はまったく新しいウィルスの蔓延だという人が少なくない)。

 同年、ドイツ国民のなかに長引く戦争とスペイン風邪に厭戦気分が充ち、革命へと傾斜、ときの支配者、ウィルヘルム2世がオランダへ亡命し、直後にドイツが降伏。9月にはブルガリアが、10月にはトルコが白旗を揚げ、オーストリア・ハンガリー二重帝国のカール1世はスイスに亡命して休戦を宣言。ハプスブルグ朝の崩壊をもって、大戦はほぼ終焉する。オーストリアの支配下にあったクロアチア、スロバキア、スロベニア、ゴビナ、トランシルヴァニアなどが帝国からの独立を目指し、局地戦を展開するも、ほどなく平穏を取り戻す。

 4年3か月にわたった大戦も1918年11月11日、休戦協定が施行されるも、日本は未曾有の好景気に沸いた。

 また、マルタ島には日本海軍兵士死者が弔われ、石碑が建てられた。日本には青島と、南洋諸島が領土として新たに加わった。

 さて、本書で面白いと思ったのは、これ以降、マルタ島ではお尻に蒙古斑をもつ子が絶えず生まれるらしく、「旅の恥はかき捨て」で日本の海軍士官や水平がマルタの女と遊んだのか、マルタの女と恋に落ちたのか、そのあたりは不分明。ハンガリー、ウクライナにも同じ蒙古斑点がお尻に出る子が生まれるというが、これは13世紀のモンゴルによる襲来と、その後のウチャップ・カンによる200年以上にわたる統治に関係があるだろう)。

 飛行機がまだ新しく開発されたばかりのころだから、単発と双発があったり、一枚翼と二枚翼があったりした。また、飛行機から爆弾を落とす、機銃掃射するといった考えもなかった。飛行機といっても、二人乗りで、その効用についても、一人が操縦、一人が双眼鏡片手に敵情視察といった程度にしか捉えていなかった。日本人の飛行機乗りが、爆弾(実情は手榴弾の大きい程度のもの)を造り、それを一人が手で投げたという話が出てくる(青島でもこれをやったという)が、中島飛行機という会社がこの当時にできたこと、日本人パイロットがフランスの空軍に入隊して、エースになったなど珍しい話も出てくる。

 本書を読んで、日本海軍の地中海への進出という史実を知ったこと、大戦下における統計的な数値を知ったことなどを含め、著者の手による調査から教えてもらったことが多かったことを感謝するが、日本海軍兵士たちの恋愛物語ははっきりいって余計だったような気がする。つくり話が多いことが如実に伝わってきて、全体を覆う緊張感に水を差す結果を招き、「詰まらぬ話でページ数を増やすな」といいたくなった。そして、これだけの実績を残したにも拘わらず、なぜほとんどの日本人がこの史実を大戦後も知らなかったのか、納得がいかない。むろん、現代でも知らない人が少なくない。本書に史実として述べられた内容が、連合国側にも史実として残されているのかどうかについても、頼りないものを感じたことを付記しておく。

 この時代、シンガポール、マニラ、香港、バタビア(現ジャカルタ)、サンダカン(ボルネオのマレーシア領東端にある港)などには、大勢のからゆきさんがいたこと、そのくらい日本が貧しかったことについて、本書はシンガポールのからゆきさんには触れているが、深刻に捉えている様子はない。また、「バルトの楽園」で紹介した「ドイツ人捕虜の扱い」については素通りせず、わりと詳しく触れている。

 特需で儲かったのなら、日本人娼婦が東南アジアに多く存在して体を売っていたことを国の恥と考え、彼女らが帰国できる道をなぜつくってやらなかったのか不可解。

 日本赤十字が大戦下にパリ、ロンドン、ロシアで活躍していたというのも初耳だった。日本赤十字の初の仕事が西郷隆盛の起こした西南戦争時だったことは、松本清張の作品で知っていたが。ロシアはシベリアの酷寒地帯にポーランド人家族を多く入れ、人間並みの扱いをしなかったらしいが、ポーランド人の救出に日本赤十字社の社員が貢献したとの話には感動的なものがある。

 さいごに、フランスの首相が言ったとされる言葉「戦争は将軍らに任せておくには重大すぎる」には感銘を受けた。


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One Response to “マルタの碑/秋月達郎著”

  1. 鈴木 匡(まさし) より:

    日本海軍の駆逐艦に乗船した若い士官がマルタ島でどんな生活をしていたのか。今でも蒙古斑点が一定の割合でマルタ島の赤ちゃんに出るというのは、フン族のせいとか蒙古軍が原因とするよりも日本海軍の若い兵隊が活躍した仮説の方がロマンを感じます。

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