祖国とは国語/藤原正彦著

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祖国とは国語

「祖国とは国語」 藤原正彦著  新潮文庫

 

 数学者が書いた「国語教育絶対論」は以下のように展開する。

 「何人であれ、その人の思考の源泉は、その人が生まれ育った国の言葉に依存する。多少、外国語上手でも、母国語による思惟、思考が優先することは避けられない。

 日本人は日本語によって物事を考えるしかないが、語彙を豊富にすることが、思考をより深く、豊かに推進するための原動力になる。そして、日本語の質的な特徴は情緒や、もののあわれを感受する心にある。

 それが、「他国に比べて異質であるならば、その異質性を訴え、それをこそ自己主張すべきだ。日本人が欧米の真似をするのではなく、日本人が日本人らしく在ることこそが、世界に認められ評価される鍵」。

 数学者によるこのような理論展開にはいささか驚嘆したものの、このブログにすでに137冊におよぶ書評を書いてきたことは間違いではなかったこと、むしろ自信のようなものを与えられることになった。

 「なによりも大切なことは、読書である」と断言、喝破した点には大いに同感した。世界観、大局観は自身の体験プラス未知の世界を知ることによって研かれ、拡大し、飛躍する。映像は想像力を飛躍させないからだ。人間としての個々のスケールは良質の読書と読解力にかかっている。現実、どんな映画も原作にはかなわない。それは原作のほうが人間が根源にもつ想像力に訴えるからだ。

 「人間のもつ欲望や利害得失については、それらは人間にとって基本的煩悩である以上、放っておいても身についてしまう」という説は真実だが、それにしてはこの国にはいまだに中途半端な「人の性は善なり」という言葉が好きで、人間というものが限りない煩悩をもつ性悪な存在であるという認識がなく、グローバリズムが否応なく進んでしまった今に至って、いろいろなところで支障が起きている。

 重厚長大企業の粉飾決算、禁止されている産業廃棄物の廃棄、脱税、詐欺、手抜き工事、原産地の虚偽表示、インサイダー取引などなど、これらの悪事はかれらの専売特許ではなく、わたしたち一人ひとりがみずからこの体のうちにもっているものである。

 むかし、小渕さんが首相時代「英語を第二公用語にしようか」などという議論があったらしい。

 著者が指摘している通り、それを実行した国があった。フィリピン、スリランカ、インドなどである。これら元イギリスの植民地だった国はそのことによって何を得たのだろうか。 唯一の例外はシンガポールだが、これは優秀な架橋が国を引っ張ってきたからだろう。インドには方言が100以上あるから、それを一つの言葉で意思疎通できるとすれば、英語が生きることになる。フィリピンでは英語が通ずると、よくいわれるが、それは大学教育を受けた、裕福な家庭の子女であって、一般人ではない。たとえば、マニラにしたって、普通の人はタガログ語以外はほとんど通じない。

 ユダヤ人が数千年にわたる離散の末、現在にいたっても紀元前に使っていたヘブライ語を忘却していなかったこと、そしてそれを母国語とし得た事実。その執拗さには畏怖とともに驚異すら感ずるが、これはほとんど奇跡に近い。

 仕事が外国語の習得を必要とするなら、その時点から勉強すればすむことであり、現実に、多くのビジネス戦士が戦後、欧米に渡って、それぞれの土地の言葉を駆使し、ビジネスに結びつけた。それで充分である。

 「地球市民」など世界には在り得ないし、何世紀経ってもそういう意識は生まれないだろう。グローバリズムの跳梁に幻惑されるな」は卓見であり至言である。かつて「エスペラント語」は失敗に終わっていることも知っておいたほうがいい。

 「日本の大学が卑しい根性で企業と提携し、企業が儲かるような研究ばかりに時間をとられ、ちょうど企業からスポンサーをとった民放テレビの番組のように視聴率を上げることだけを目的として拙劣な番組をつくるのと同様の目先の利に追われるようになってしまったのは嘆かわしい」。この言葉は学者である作者の痛切な思いであろう。 企業の利益追求と学者の研究とは次元の異なる目的をもつのでなければ、その本質的な意味を失ってしまう。

 まともな教育が必要なのは子供に対してではなく、子供の親や教師に対してなのだ。子供たちが受け取る教育や情報は、現実には、学校の教師からよりも、民放テレビからの方がはるかに多いのではないか。皮肉なことは、スポンサーがバックアップした「低劣な番組」で育てられた子供たちが成人後にスポンサーだった会社に就職する立場になること、そして、スポンサーはそうした青年を受け入れる立場になるという、「しっぺ返し」である。

 「基礎研究は確かに適切な目標がないから、しいたげられがちだが、基礎研究の積み重ねこそが思わぬ発見に結果することはしばしばあり、これを効率一点ばりで推進することには納得がいかない。成功するか否か、不明の分野に金を投資できるかどうかが、結局のところ、当事国の将来を決定的なことにするだけでなく、国の品格というものである」との主張。

 文化的にも学問的にも痩せ衰えた国家の品格を世界はどう見るか。 日本が日本人にしかできないことを地道に積み上げるしかないはずだ。

 イギリス人は「愚者は武力に頼り、賢者は情報に頼る」といったとあるが、むかしのユダヤ人が国を追われ、各地に離散しながら「武力を誇ることなかれ、知性をこそ誇れ」といったとあり、イギリス人はこれを踏襲、真似た可能性が強い。イギリス人のいう情報伝達は世界に離散していたユダヤ人によって、たとえば世界で最初に通信ネットワークを使った「ロイター通信」などを生んだことを意味するのだろうが、「イギリス人が世界で平和的に他世界と交わってきた」という説にはいささか異論がある。

 獅子王・リチャードによる十字軍の派遣、中国、清王朝時代、大量のアヘン持ちこみにはじまる「阿片戦争」、豪州南に在る「タスマニア島」における現地人の殺戮が絶滅を導いた事実、北米大陸におけるローカル・インディアンの大量虐殺、ラテンアメリカの国々への圧迫などなど、イギリス人がそれほど鷹揚な民族だったとは思えないし、人種差別も世界で一、二を争うほど激しい。つまり、イギリスが一等国であるとの自負、矜持、傲岸さ、私はこれにむかつく。

 本書の後半には「満州再訪記」が書かれているが、本書があちこちに連載したエッセイをまもとめたものであることに途中で気づいた。もしこの書が「満州の再訪記」というタイトルだったら、少なくとも私は手にとらなかったと思う。

 それにしても、作者の二歳の折りの記憶があまりにしっかりしていることに、嘘ではないかと思ったり、感心したりした。 また、この家族の互いの関係が理想的に保たれてことにも感心した。

 本書はあちこちに書いた散文を寄せ集めたもので、その点からいえば、タイトルを「祖国とは国語」としたことは詐称だと思うし、作者の主張や意図との矛盾、乖離を感ずる。

 私はかつて書籍の棚なり本箱のある家庭を訪れるとほっとしたものだ。それ自体が何よりも、その家庭の知性を物語っており、どんな飾り物をも凌ぐように思えた。また、並べられた書籍を一見すると、その家庭の性格的な嗜好も思考傾向も理解でき、自分との相性すら判別することができた。なかには、本の一冊もない家庭もあり、僭越ながら、知性とは無縁の家庭なのだと独断し、つきあうことをやめたものの、会話中に出てくる言葉遣いからはしっかりした知性が感じられ、その家では書籍を本棚に飾らず、ロッカーに収納するのだということを知って、危うく恥をかくところだった。


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