富士山宝永大爆発/永原慶ニ著

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「富士山宝永大爆発」 永原慶二(1922年生/一橋大学名誉教授)著
2002年1月22日 集英社より新書初版 ¥740+税

 本書は宝永4年(1707年)に大爆発を起こしたときのことに絞り、渦中にあった住民の様子、藩の動き、幕府の対応など、被災地に残る文献、資料、記録をベースに纏めたものだが、富士山の噴火は過去に何度も起こっており、以下の年月が記録されている。

 800年3月-4月、864年5月、1083年3月。

 そのほかに大地震の記録もある:

 1604年:房総沖大地震

 1633年:相模湾西部を震源とするM7の地震

 そして、1707年10月4日に東海、南海、西海道にM8.4の地震&大津波があり、同年11月23日に富士山が大爆発を起こす。

 東面の中腹が噴火口となり、推定10億立方メートル容積の山体がえぐられ、吹き飛ばされた。噴火直後の噴出物が白色から黒色に変わって、昼間でも山麓の村々は闇夜の状態に陥る。

 偏西風に乗った降砂は丹沢の谷、相模の足柄平野、小田原方面を埋めつくし、秦野、藤沢、横浜方面にも降り積もった。むろん、武蔵の国(東京)にも及んだ。このときの爆発では溶岩の流出はなく、すべて石や砂のテフラであった。

 本書はこの災害の実態に触れながら、苦しむ住民の様子、幕府の対応、右往左往する藩主などの言動を、地域ごとに纏めているが、行政の拙速、お門違いの応接など現代と大して変わっていないことに気づかされる。

 幕府や藩主が富士山の爆発直後にまず懸念したのは年貢の収納のことだった事実からは、「現地で何が最も必要か」を的確に把握できなかったのは当然だという気がする。

 砂を取り除くことが急務であることに漸く気づいた藩主が幕府に他藩からの助けを要望し、それが実現するや、官吏との間に落札にからむ癒着が起こるなど、「いずこも同じ秋の夕暮れ」という感じ。

 老人、子供、病人など働く能力をもたない人が「飢人」と称されたことなど、意外なことを含め、本書から学んだことは僅かではなかった。


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