私の体験的ノンフィクション術/佐野眞一著

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わたしの体験的ノンフィクション術

「私の体験的ノンフィクション術」
佐野眞一(1947年生)著
集英社新書  2001年11月初版

 作者はいきなり「ノンフィクションは固有名詞と動詞の文章であり、形容詞や副詞句は腐る」と大見得を切っているが、真意は理解しているつもりだが、現実に文章を書こうとして、固有名詞と動詞だけでは読者を惹きつける文章づくりには無理が生じるし、あまりにも素っ気無い無味乾燥としたものを私は想像してしまう。現実に、本書全体を読んで、多くの形容詞や副詞に出遭っている。

 ノンフィクションとは「虚構にあらざるもの」「紀行」「ルポルタージュ」「評伝」「戦記」「事件報道」など、きわめて多岐にわたるジャンルが含まれる。

 作者が初めて書いたノンフィクションは読売新聞の正力松太郎を採り上げたもので、タイトル名は「巨怪伝」であり、野球に天覧試合を持ち込んだのも正力であり、その天覧試合で、長島に展覧試合初の逆転ホームランで勝利を飾らせたのも正力であると強調。作者はこの男に独特のカリスマ性を感じ、見た目の男とは違った背景、隠れた部分に強く関心をもったという。彼が正力を書き出したとき、正力は既にこの世になく、文献、資料が僅かしかない時代の人間を書くよりは煩雑さや識別に苦労しなかったようだが、相当の時間をかけ、分厚い書に結実したという。

 作者の主唱するノンフィクションを書くにあたっての要諦:

1.「取材」とは「仮説」から出発して、「文献」を漁り、足を使って実際に関係者に直接会い、話を聞き、事実を嗅ぎ分けること。

2.「構成」文献、資料の整理は、内容が「発酵」してくる過程に似ている。ここで慌ててはいけない。

3.「執筆」に移ったら、余計な部分を削除していく。

 情報が正確だからといって、それらを羅列するだけでは人を感動させることはできない。情報同士を人間観や歴史観の紐を使い衝突させることで物語を動かす歯車となる。(構成の問題であろう)。

 同作者の『遠い「山びこ」』(2007年9月25日書評)は、かつて東北の山村にある小学校の教師になり、生徒から生々しい家庭生活を暴露させるような作文を書かせ、これが東京のメディアに注目されるようになるや、肝心の主人公である無着成恭は東京に移りすんでしまう話だが、事実の発見に時間と足を使ったことは、よく判る。この本の結論は「高度成長からバブルに至る日本経済が大衆一般社会を誕生させ、都会が人口を吸収し、教育を一本化、(ひいては自給自足の低下を促進、食料危機を招来した)。つまり、高度成長が大衆の生活を爛熟させる一方で、第一次産業から手を引く日本人が増え、また政府もそのことを奨励するなど自給自足体制の継続がわが国にとって是非を問わず必要であることを失念、TPPなどという農業立国の意に沿って、いずれ日本における食料問題を招来することになることを看過しているとしか思えない。

 ノンフィクションではモチーフこそがエンジンであり、原動力である。

 日本では総理大臣へのインタビューは記者クラブに所属する記者でなければならないと決まっているが、外国のメディア、たとえばタイム誌などのインタビューには応ずるし、所属記者もクレームをつけない。(これなどは日本人の毛唐コンプレックスが垣間見える話)。

 「天下をとった織田信長はなぜ朝廷を滅ぼさなかったのか」という高校生の質問に対し、歴史家や大学の専門家はガキによるくだらない質疑には応ぜず、強圧的に押しつぶしてしまうが、こうした素人の質問には、誠実に一つ一つ答えるのが教師として当然の姿勢ではないかとは正論。

 東京という人口密集した大消費地が、生活の果てに廃棄されるゴミを棄てる埋立地を必然とし、その土中には大量のメタンガスが滞留する。ゴミの山から対岸を眺めるとき、現代の繁栄を誇示するような近代的ビル群のシルエットが空疎な墓標の林立に見えてくる。(作者の言い分はよく理解できる)。上海に立ち並ぶ工場から垂れ流し状態の産業廃棄物はいずれ日本と韓国との海を汚してしまうだろう。

 最後に、世界貿易センターを訪れたときの話が出、その悲惨さを仰々しく書いているが、これに比べたら、アメリカの代々の大統領がかつて他国の人間を殺した数のほうがはるかに多いことを知るべきだ。9.11のテロで死んだアメリカ人はたったの5、6千人ではないか。中南米で、中近東で、アフリカで、米国本土で、かれらが殺した数はたかが万単位ではない。広島で、長崎で何人が死んだと思っているんだ。

 進歩に対する迷信が退歩しつつあるものを進化と誤解し、ときにはその誤解が人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものを絶滅させてしまう可能性がある」(人間のほうが先に死ぬだろう)。

 作者は次に「満州」を構想しているという。楽しみである。ノンフィクションの書き方としては、作者は正論を展開している。そのことに誤りはない。


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