大使が書いた 日本人とユダヤ人/エリー・コーヘン著

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元駐日イスラエル大使が書いた日本人とユダヤ人

「大使が書いた 日本人とユダヤ人」  エリー・コーヘン(Eli Eliyahu Cohen/1949年生/イスラエル人)著
原題:Nations with missions
訳者:青木偉作
中経出版  単行本 2006年8月 初出版

 思い出すのは、むかしイザヤ・ペンダサンとのペンネームで出版された『日本人とユダヤ人』で、当時私はそれを夢中になって読んだ。仕事上アメリカに足を運ぶことが多かったことと、旅行業に携わるアメリカ人にはユダヤ系が圧倒的に多かったという理由があり、彼らとの交渉に苦労していたという事情があった。お金のこととなると、ユダヤ人は厳しいからだ。また、コーシャというユダヤ料理(口にしても良いものと悪いものが多い)についても、知っていないと、大変なことになりもした。

 著者は「若年時代、日本で空手を覚え、修行し、現在はイスラエルの駐日大使として赴任しているが、空手は今も続けているという、いわば武道家であり、日本人の知己も増え、日本各地を旅行もし、日本の文化にはあちこちで接している。そのうえで、日本人とユダヤ人とのあいだには意外にも多くの共通点、類似点があることに気づき、一層の親近感を持った」という。

 表紙の帯広告には都知事の石原慎太郎氏の賛があり、「著者の指摘は日本人に大きな驚きを与えるであろう」とあるが、基本点な目線は武道家としてのもので、思い込みが高じて話題の内容に「こじつけ」も少なからずある。

 曰く「武道精神は良い意味で人生哲学であり、広い意味で日本民族に影響を与え続けているし、現今の生活の知恵や問題を解決する方法としても自分を精神的に高める哲学として生きている。そういう歴史はユダヤの哲学とも共通している」と。正直なところ、最近の日本人男性はむしろ軟弱で、武道精神とはあまり関係がありそうには思えない。

 「イスラエルの壁と日本人の伊勢神宮とにも類似点があり、日本人の精神が神道に貫かれているのと同様、ユダヤ人の精神はユダヤ教に貫かれている」と言うが、この断定には抵抗感がある。私たち日本人にとって伊勢神宮は必ずしも存在してもしなくてもよいもので、私などはアメリカ人観光客をエスコートし、一度きりしか訪問したことがない。著者は「伊勢神宮の灯篭の紋様はユダヤのダビデの星とそっくりで、感銘を受けたし、禊(みそぎ)にも似たところがあるし、釘など一切使わずに木材だけで建築する様式にも似たものがある」と、一人悦に入っている。

 「現在、イスラエルでは空手のみならず、柔道、剣道、居合道、合気道など、日本武道が盛んで、多くの道場が存在する。 武道で勝敗を決するのはユダヤでは神への全託の信仰であり、日本は肉体的な技術より精神である」というが、隔たりは著者がいうより大きく、同じなのは精神統一だけであり、とすれば、それはどんな武道家にも通づるものだ。しかも、イスラエルは隣国からの攻撃がいつ起こるか知れない状況下にあり、ために武道が盛んなのであろう。かたや、日本は長い平和にボケがきていて、双方の置かれた状況には天地の差がある。イスラエルなら、テポドンの試射一発に怯えるようなことはないだろう。

 「武士道に報酬を期待しない献身や行動があるように、ユダヤ教にも報酬を望まない献身がある。空手道場には『日々感謝し、質素、礼節を旨とせよ。しかし、一旦緩急あらば、正義のために身を惜しむな」とあり、「善行、貧しい人への施しは人の見ていないところでやれ。誰が施しをしたか判らぬ方法で、相手に礼を言う機会さえ与えずに行なえ」とあるが、ユダヤ人にも同じ言葉がある。

 「日本武道にはしばしば切腹の場面が出てくるが、ユダヤ教では基本的に自死は許容されていないものの、自死によって多くの仲間を救ったり、自死によって人を援ける行為は賞賛され、英雄視されもする。この事実と太平洋戦争時の特攻隊との間には、著者が言うほどの相似点はない。

 「日本人にもユダヤ人同様、伝統を守る精神が息づいている。初詣も、子共の誕生後のお宮参りも、七五三も、節句も、成人式も、正月のおせち料理も、地鎮祭も、葬儀も、宗教心から出たものであろう」と仰るが、これらは今や単なる習慣になっていて、そこにはユダヤ教徒が考えるような堅固な伝統も信仰もない。最近では、正月にインスタントラーメンを食べる人も増えている。ひどかったのは、GHQが駐留したとき、「日本はすべて葬儀は火葬にしたらどうか」というマッカーサーの言葉に、国民が最も大事に守ってきたはずの、地方によって土葬だったり、風葬だったりした重要儀式を日本人は「Yes Sir」の一言で、全国的に火葬にした例など、日本人が伝統や習慣に強く固執する民族ではないことを物語って余りある事例である。

 「日本人は例外なく皇室を尊敬しているし、天皇を神と崇めてきた」というのも一方的な見方というしかなく、私個人は、明治、大正、昭和、平成と天皇が代わるたびに年号があらたまることに辟易している。日本でしか通用しない年号では、ひとたび海外に出たとき、それを西暦に直す必要があるし、加齢者にとって二つ覚えなくてはならないのは疲れるだろう。年齢とともに、一々計算するのは苦痛の一語である。天皇を「現人神」と称したのは戦前の右翼と政治家であり、そうすることで利用価値が高まることを念頭に置いていたからでしかない。天皇の存在価値は常に利用価値の有無と、装飾としての価値だったのではないか。宮内庁にあれだけの公務員を配置する神経の方が私には不可解である。

 だいたい日本人は、前にもブログに書いたが、神道も儒教も仏教もごっちゃになっていて、寺で手を合わせるのは「ご利益主義」でしかなく、ユダヤ教徒のような揺ぎない一神教の人がもつ信仰などとは無縁。

 「日本人は中国から漢字を輸入しながら、日本語として独立した言語に創り上げ、平仮名、片仮名を生み、独自の母音体系の言葉をつくったが、ユダヤ人は数千年前からの古語、ヘブライ語を忘れていず、イギリスやアメリカにバックアップしてもらい、シオニズム(自国への復帰と国家建設)が第一次大戦時たまたまドイツ側についたトルコがイスラエルを領土として持っていたため、その土地を召し上げ、かねての希望が達成された。そして、国家が完成したとき、国語をヘブライ語とすることになんの抵抗もなかった。(古語を現代語に出来た点には尊敬心を抱いているが、一度失った土地をイギリスやアメリカにバックアップされて取り戻したやり方にもし正当性があるのなら、アルメニア人にも同じことをしてやって欲しい)。

 両国の言語が長期間にわたって独自性をもち続けてきたことにも類似点がある」というが、彼らが使うヘブライ語は2千年前の古語であるヘブライ語そのものであって、現今の日本語は平安時代や鎌倉時代の日本語とはだいぶ異なる言語体系になっているし、発音がまるで違う。さらに、「日本は皇室を中心に長く栄えた国」というが、ユダヤ民族は紀元前から王国が存在し、一方、イスラエルがモーゼの時代、日本は縄文式石器時代だった。歴史の長さが違うし、一方は迫害に迫害が重なり世界に散った民族、日本人は海に隔てられた島国でのうのうと生きてきた民族であり、相似性などは全くない。

 著者には「ユダヤ教」「モーセの五書」「信仰」「選ばれた民族」などという言葉が氾濫するが、神などは妄想そのものであって、ユダヤ教がキリスト教もイスラム教も派生させ、異教徒への迫害を生み、戦争を惹起したのだと思っている私には、頭痛しきりだった。ちなみにイスラエルは日本の国土の15分の1ほどで、四国の面積に近い。もし神がいたら、人類同士をここまで殺し合いをさせはせず、もっと愛と知恵をさずけたであろう。

 本書からは2005年8月と、10月に書評した「ユダヤ人の歴史」から得たほどのものはなく、「大いなる誤解の上に立った著作」という印象であり、私個人はユダヤ人への尊敬心は持っているが、両民族相互の類似性よりも相違の方が強く感じられる。迫害され、各地に散ったユダヤ人は受け容れてくれた土地の風習になど全く馴染まず、あくまで自分らの信仰、伝統を守り、結局は再び迫害に遭って、散り散りになっていく史実を読むと、日本人ならば受け容れてくれた土地に素早く、かつ素直に同化したであろうと思うし、古語を現代にまで継続していたとは思えない。

 一つだけ、教えてもらったことは、日本で最初に切腹したのは平家に敗北したときの、源氏の大将、源為朝であったという歴史である。

 逆に一つだけ申し上げたいことがある。それは「もし宗教というものがなければ、この世ははるかに豊かで、平和で、まともだっただろう」ということであり、宗教の源を創造したことはユダヤ人にとって唯一の巨大な錯誤であったと、私は思っている。


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