荒木経惟 生と死のイオタ/伊藤俊治著

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せいとしのいおた

「荒木経惟 生と死のイオタ」 伊藤俊治(1953年生/多摩美術大学教授)著
1998年11月15日 作品社より単行本初版  ¥3,800

 2008年12月5日に荒木陽子作「愛情生活」を書評したが、本書は彼女の夫である経惟氏が撮影した100点の写真を掲載しつつ、その生き様を語る内容のもので、「愛情生活」を読んだ時点から所望した著作だった。

 作者によれば、「荒木は自分の前にぶら下がる物象の実態を『死』というキー・ワードを足がかりに、極めて私的で個人的な理解と解釈を加えようとした写真家である」と解説し、「経済成長が達成されるのと同時に存在した頽廃と堕落と退歩を感じさせる社会に精神的なブレイクダウンが起こると、その影響は大都会に強く現われ、荒木はそういう都会にもレンズを向けた」と言う。(センスの鋭さ、天才を感ずる)。

 一枚の写真がもつインパクト、人の感性に訴える衝撃という点では、日本人写真家としては他に比肩を許さぬセンスとレベルの持ち主であり、撮影者としての着想、着眼点が奇抜ではあるが、見方によっては、奇を衒(てら)い過ぎという印象なしとしない。

 セックスを「小さな死」と捉えるのは本人の勝手だが、あくまでパートナーを含めた二人の意志が共鳴し、共振しないと成立しない撮影であり、先に亡くなった陽子夫人にも荒木氏に負けず劣らずの性的興味も意欲もあって、だからこそ、その行為に飽きがこない愛情生活が可能だったのではないかと私は想像する。むろん、カップルの双方がスケベであることは良いことで、決して悪いことではない。「性に淡白」であることを自慢げに言う人がいるが、それは男女の関係に破綻をきたすだけの効果しかない。そういう人間に限って、愛撫を知らず、女の体の奥深さを知らず、性の喜悦を知らずに一生を終える。

 著者は、また、「体系化したり、構造化できない人間の裏側にひそむ個の沈殿物のようなものや、淀みを湧出させようとした」と表現するが、確かに、そういうイメージが強烈な刺激臭となっているし、人間の心の襞(ひだ)に踏み込もうとしているかにも感ずる。

 性のことをもろに暗示する撮影は、「そこに世界の支点があり、そこから始めなくては世界は見えないという撮影者の主張がある」との解説は、掲載されている100点の写真の大半に該当する。どの写真も濃い陰影に彩られ、重いというだけでなく、陰鬱で暗く、それが一層のインパクトとなって、見る者に肉迫する。

 1997年のオーストリアのグラーツで開催された芸術展に荒木の写真が出品されたことがきっかけで、その名が広く知られるようになるが、欧州での話題は専(もっぱ)ら、女性の裸体写真の意味に関してだった。

 ヨーロッパ人は単なるエロチシズムを超えた感情の深さの刻印を直観的に捉えたから、荒木作品を受け容れたのではないかと作者はいう。

 たかが280ページを少し超える厚さの単行本で、これだけ重量のある本は稀であり、同時に、眼に触れる写真の数が増えるにつれ、そのグロテスク度に脳味噌がついていけなくなり、ページを繰る意欲が殺(そ)がれてしまう。また、自分の妻の裸、セックス時の妻の表情、男根をフェラする場面などの写真を世の中に出せる神経は、芸術家の業(ごう)としか私には思えない。


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