オホーツク街道 街道をゆく38/司馬遼太郎著

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「街道をゆく・38・オホーツク街道」  司馬遼太郎(1923-1996)著
帯広告:秋の網走のモヨロ貝塚から、雪の知床峠まで
1992年 週刊朝日連載
1993年 朝日新聞社より単行本
2009年5月30日 新装版文庫化初版 ¥940+税

 この作家は基本的に小説家ではあっても歴史家ではないこと、さらには多岐に渡る分野で物知りであるがゆえに、独特の想像力と洞察力が跳躍も飛躍も生みがちであることを胸に刻みながら本書に相対したが、作者の用意周到な事前の調査に加え、現地には専門家の案内もあって、僅かな気分的飛躍を感じながらも、ある程度の独善的な予断は許容の範囲、最後まで愉しく読ませてもらった。

 そうした中から面白いと思った点を列記する:

1.北からのモンゴロイドは「北モンゴロイド」と称し、韓国人、日本人はその中に入る。中国人は「中モンゴロイド」、南下し南太平洋に散ったポリネシア人は「南モンゴロイド」であり、長年の生活から、それぞれに特徴的な身体を形づくった。ポリネシア人は背丈が高く、(海風から体を防ぐために)肥満型が多いが眼球から蒙古襞(モンゴロイドの特徴の一つ)が消えている。

2.日本人の鼻が低いのは先祖がシベリアの寒地(バイカル湖畔付近との説がある)に誕生したため、寒気が鼻腔の奥を凍らせることがないように、鼻を顔にめりこませたからで、顔形が平べったいのも、そのことと同じ理屈。赤子の尻に青い蒙古班があるのもモンゴロイドの特徴。

 (韓国人の眼が例外はあるが、ほとんどが細いのは、やはり寒気と関係していて、眼を大きく開けていると、乾燥してしまうために、長い歳月のなかでそのような眼になったのではないかと思われる。ものの本によれば、一重の瞼は弥生人の特徴っだったらしい。もっとも、現代の韓国女性の多くは整形手術をする人が多く、韓国人の典型である頬骨が張った顔、一重瞼の細い目が最近の韓国女性の容貌から消えていて、そうした傾向が顕著)。

3.韓国人に二重瞼が極めて稀で、男に脛毛がないのも身体上の特徴。脛に毛がないのは、モンゴル人の男にもツングース人の男にも共通する。日本人の男に脛毛があるのはアイヌの血が入っているから。北モンゴロイドの特徴は体毛が薄いこと。

 (日本でも、山陰地方の男は体毛が薄いという話を聞いたことがあるが、韓国に近く、ここに韓国人の漂着や移住が歴史のなかであったのではないかと憶測される)。

4.アイヌがモンゴロイドか否かは不明。彫りの深い顔、濃い体毛からコーカソイドではないかとの説もある。耳垢には湿性と乾性があり、北東アジア人は日本人を含め圧倒的に乾性だが、ヨーロッパ人やアフリカ人およびアイヌの多くは湿性で、べとべとしている。

 また、沖縄人との相似から、アイヌ系の民族が日本の本州一帯に先住していて、前3世紀に稲作をもった弥生文化が北九州に侵入してきて以来、北と南に分かれたという説もある。

 7世紀以前までは、新潟県以東は蝦夷(えぞ)の地で、大和政権とは別の国だった。現在知られているアイヌ文化は13世紀(鎌倉初期)に誕生したもの。

 (アイヌと沖縄人との相似はいずれの民族も体毛が濃く、容貌の彫りが深く、二重瞼をもち、女性に刺青の習慣があったことも上記のような推測に結びついたと思われるが、最近のDNAによるチェックの結果、沖縄人はアイヌよりもより本土の日本人に近接だと言われる)。

5.日本本州西部の縄文文化は紀元前1万年から同300年まで続いたが、この時代の日本人ほど、世界的にみて、豊富な食料に恵まれ、豊かな生活をしていた民族は少ない。

6.北海道にアイヌ文化の遺跡が出土するが、文化の成立は13世紀と推察される。それ以前は縄文人より背の高いオホーツク人が異種文化をもって侵入、混血していったとみられる。網走の貝塚に出土したオホーツク文化はギリヤーク人のもの。

7.氷河時代、海面は現在より百メートル低く、大陸と樺太(サハリン)、北海道、本州とには陸橋ができていて、色んな動物が往来した。北海道に人類がやって来たのは約2万年前。約1万年前になると、気候は温暖化し、土器、弓矢、舟などが普及、縄文時代に入る。この時代、本州の東半分から北海道にかけては木の実が豊富で、苦労して田をつくる必要はなかった。

 (シベリアからベーリング海峡を経、アラスカに渡海できたのも同じ例だが、イヌイット(エスキモー)もモンゴロイドであり、さらには南米の一部民族にもモンゴロイドの特徴をもつ人々がいる。ちなみに、インディアンはアメリンドとの別称がある)。

8.稲作が入ってくると、人々は定住生活を送るようになり、人口が増え、日本語の原形がかたちづくられたが、言葉には中国語の影響が黄砂とともに入ってきた。中国語の馬(ma)が「ウマ」に、梅(mei)が「ウメ」に、麦(m∂k)が「ムギ」に、竹(tuk)が「タケ」に、都(giu∂n)が日本語では「ク二」になった。

9.稲作圏が東へと拡がっていくにつれ、稲作語も拡がり、人口の増大と定着による生産形態が団結を必然とした。一方、北の縄文人は狩猟生活をしている以上、小単位で散居する生活を続けたが、西側からはそれが蛮居する姿に映った。

10.考古学者、米村氏の説。「北海道へは北から三度の侵入があった。第一波はマンモス・ハンター、第二波は石刃鏃文化、第三波はオホーツク文化」。

11.網走の「モヨロ貝塚」からはおびただしい人骨が出土、日本人の頭骨ともアイヌの頭骨とも異なる形質から「モヨロ人の頭骨」と判断、歴史的にはモヨロ人はアイヌのなかに同化していったとみられる。

12.北海道、樺太、大陸側の渤海州は民族や文化に共通性が高く、その文化は中央アジアからハンガリー高原にまで拡がっていた。ただし、中国とは無縁に近い。

 樺太の西岸に河口をもつ大陸側の黒竜江(アムール河/全長4340キロで世界第六位の河川・源はモンゴル高原)の下流域で、そこに居住していたのがギリヤーク人、これがオホーツク人に最も近いのではないかと推測される。

13.ヨーロッパにズボンをもたらしたのはアジアから侵入したフン族。(ローマ帝国滅亡の遠因をなした民族)。

14.アイヌ語は大別して北海道アイヌ語、樺太アイヌ語、千島アイヌ語という三つの方言がある。ただ、千島アイヌ語は研究者が根室や知床の山深く入って方言を知る人を訪ね歩いたが、一語も採集できなかった。

15.ストーン・サークルはイギリス、フランスのほか、南シベリアのミヌシンクスにも北海道にも見られる。

16.外国の地図を見ると、宗谷海峡はラ・ペルーズ海峡(La Perouse Strait)と、フランス語になっている。これはフランス人のぺルーズという男が国王ルイ14世の命を受け、アジア東北の海を探検したときに命名したもの。この海域には、1797年にはイギリス人、W.R.ブロートン、1805年にはロシア人、I.F.クルーゼンシュテルンが来ており、三人とも樺太を半島と誤認したまま帰国している。

 (江戸期、間宮林蔵の樺太探検によって、樺太が島であることが世界で初めて発見されたことは歴史的な快挙であり、世界地図にも「マミヤ海峡」との名で通っているにも拘わらず、作者は間宮林蔵には簡単に触れているだけ)。

17.1804年にロシア海軍は幕府と交渉したが、鎖国を盾に交易の申し出を拒絶。これに対し、使節のレザノフは樺太で日本人施設を襲い、択捉島で日本人村を襲撃し、利尻、礼文両島では沖を通過した日本船を焼いた。日本人のロシアへの不信感、嫌悪感はこのときに始まった。

 (そのうえ、平和条約が締結され、その期限が終了していないのに、日本に宣戦布告をするなり、満州に軍を入れ、女性とみれば強姦し、満州で守備にまわっていた日本兵士の多くを酷寒のシベリア強制収容所に連行、長期にわたって理不尽な強制労働をさせられて多くが死亡した事実のほかに、ポツダム宣言を受け容れた後にも、樺太から北海道に帰還する一般市民を満載した輸送船を潜水艦を使い魚雷で沈没させ、多くを殺害し、そのうえ、北方四島の返還には今なお応ずる気配をみせないしたたかなロシア政府の姿勢に嫌悪感を越えて憎悪感をすら抱くきっかけとなった。司法的には、中国には日本を裁く権利があったが、ロシアにはなかった。大前研一氏によれば、現在のロシア人は日本製の電化製品や低燃費の自動車に高い評価を与え、ロシアとの関係を変化させる絶好の機会がきていることを指摘してはいるが)

 当初、「オホーツク街道」とのタイトルから、作者はサハリンからアムール河にまで足を延ばしたのかと推量したが、そうではなく、北海道がオホーツク海に面する地域を幾度かに分けて散策しただけで、あとは文献、資料、専門家の言説、案内に加え、作者の思い入れで本書が仕上げられたことを知った。ちなみに、間宮林蔵は北海道から樺太へ、樺太北部からアムール河にまで足を運んでいる。

 本書の内容とは別に、「我々地球人を今日在らしめている『過去』という荘厳さ」などという表現には、この作家以外からは期待できない表現だなと、あらためて感心もし、痺れもした。


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