おくのほそ道/松尾芭蕉著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

おくのほそ道

「おくのほそ道」
松尾芭蕉(1644~1694)著 50歳にて逝去
角川書店編 ビギナーズクラシックス
2001年7月文庫化初版

 本書を読書対象に選んだのは初めて。「おくのほそ道」とのタイトルは、それだけで圧倒的な魅力を放っている。

 芭蕉は伊賀の準武士階級の家に誕生、周辺はほとんど農民だったこともあり、土地では名家。時代は戦乱が治まり、徳川家光の支配下にあったため、武士にはなれず、俳諧の道に精進。江戸に出、旅から旅へという遍歴をくりかえしつつ句作に精魂を傾けた一生。

 江戸時代以前の著作に比べ、芭蕉の文章は読みやすく、そのうえ格調が高い。「おくのほそ道」には弟子の曾良が随行する。曾良の句で印象に残ったのは、「卯の花を、かざして関の、晴れ着かな」くらいで、他の句に印象的なものはなかった。私は同じ弟子でも、基角の句が好きだ。

 芭蕉には古歌への憧憬心が強く、ことに花への執着をことさらに感ずる。古歌に出典をもつ枕詞を配慮しつつ句作に励む姿勢は時代の変遷とともに減ずる傾向にあるが、芭蕉の時代はなお色濃く残っていた。芭蕉が本書において採用した古歌には、千載和歌集、古今和歌集、新古今和歌集、伊勢物語、後拾遺和歌集、後撰和歌集、万葉集、金葉和歌集、小倉百人一首など多数。

 ただし、本書はノンフィクションではなく、解説者によれば「小説もどき」であり、かなりの部分に虚構が意図的に創出されているという。

 1682年、出発にあたって、「行く春や、鳥啼き、魚(うお)の目に涙」を句作。

 宮城県の塩釜あたりが当時は僻地であったらしく、芭蕉は「辺土」という言葉を使って「辺境の地」を表現、松山に至って句作はしなかったが、文章が、下記のように、松山の美景への賛歌になっている。

 「島々の数を尽くして、そばだつものは天を指さし、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるいは二重に重なり、三重に畳みて、左に分かれ右に連なる。負えるあり、抱けるあり。児孫愛するのごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのずから矯めるがごとし。その気色婉然として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇(おほやまづみ)のなせるわざにや。造化の天工、いずれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽くさむ」は名文の誉れ高い一章で、心打たれるものがある。

 平泉に至り、荒れ果てた古戦場を目にし、「夏草や、兵(つわもの)どもが、夢の跡」の名作を残す。この句作には中国の詩人、杜甫の「国敗れて山河あり、城春にして草木深し」の詩が芭蕉の脳裡に去来していただろう。

 また、同じ中尊堂で、「五月雨(さみだれ)の、降り残してや、光堂」の句作にも成功している。

 鳴子から出羽三山を越え、漸く得た宿は山の中、母屋には馬が飼われていて、蚤、虱(しらみ)に責められ、あげく、「蚤、虱、馬の尿(ばり)する枕元」という、名句に結果する。私は個人的にこの句が好きである。ただ、この時代、人の尿は「しと」といい、芭蕉は「ばり」と読ませて、野趣を強調している。

 山形県の立石寺(りっしゃくじ)に向かう道は樹木が鬱蒼と茂り、蝉の鳴き声がしきり、古色を帯びた岩や篠を踏み分け、河川を渡り、肌に冷たい汗を流して最上川に達するが、その途次に「閑(しず)かさや、岩にしみ入る、蝉の声」という世に名高い句が創作される。

 この句を創るにあたり、「しみ入る」に定まる前、「しみつく」「しみこむ」に思い悩んだ末、岩の内部に浸透する動感を表現するには「しみ入る」が最もまとまりが良いと判断。また、このときの蝉は、時代が下がって論争を経、「ニイニイゼミ」だったことに落ち着いたという。

 最上川を目の前にして、今に人口に膾炙(かいしゃ)する、「五月雨を集めて早し最上川」が句作されるが、「早し」は「涼し」といずれを採るかで悩んだ。また、「暑き日を海に入れたり最上川」は同じ土地での二句目にあたるが、川の圧倒的な迫力に敬服したとみるのが妥当との解説。

 羽黒山では、「涼しさや、ほの三日月の羽黒山」と、「雲の峰、いくつ崩れて、月の山」の二句を披露している。

 最上川は秋田県の酒田の海に流れこんでいるが、そこに在る「象潟」(きさがた)では、能因島に至って、体を休め、ふと簾(すだれ)を揚げると、鳥海山が天を支えるように聳え立つ姿が目に入った。「象潟や、雨に西施(せいし)の、ねぶの花」と、「汐越えや、鶴脛ぬれて、海涼し」の二句が生まれる。西施は中国古代の美人。

 越後に至り、日本海に浮かぶ佐渡を遠望しつつ、流刑地として知られた孤島の秘める哀しい歴史を想い、たまたま七夕の夜とあって、「荒海や、佐渡に横たふ、天の河」と、300年以上の歳月を経てなお、人口に膾炙している句を創るが、この句は実景描写ではなく、島のもつ歴史と運命に涙しつつ、銀河が天を覆い、降り注ぐ光が島の闇を覆うことで浄化する意図がこめられている。私なら「荒波の佐渡を覆いて天の河」とでもやってしまいそう。

 金沢に至って宿で休んでいると、襖(ふすま)を挟んで隣の部屋から年寄りの男と話をする遊女の声が聞こえてくる。女は明日から伊勢神宮へと旅をするらしい。「一つ家に、遊女も寝たり、萩の月」はそのときに出来た句。

 1689年に奥羽から越後を回っての旅から帰り、「おくのほそ道」をまとめ、2年後に完成。

 芭蕉は1694年、西国旅行に出発、大阪で発病し、10月に、「旅に病んで、夢は枯野を、かけ巡る」を辞世の句とし、生涯を閉じる。

 芭蕉は生涯独身だったという説が根強いが、明治期になって、寿貞という尼が若き頃の妻であり、「まさ」、「ふう」、「次郎兵衛」という三人の子があったという調査があり、寿貞らに対し、芭蕉が深い愛情を寄せていたことは諸説に一致している。

 ドナルド・キーンという日本文学の研究者は芭蕉の句を英訳している。

 「The summer grasses, Of brave soldiers’ dreams, The aftermath」は「夏草や、兵どもが夢の跡」であり、

 「Turbulent the sea, Across to Sado stretchers the Milky Way」は「荒波や、佐渡に横たふ、天の河」であるが、中国人の研究者は「古池塘、青蛙跳入、発清響」と、「古池や、蛙(かわず)飛び込む、水の音」を訳した。

私が知るこの句の英訳は「The old pond, a frog jumps in, the sound of water」だったように記憶している。

 本書とは関係ないが、皇室が菊を紋章に選んだのは、今日のように観賞用として広く栽培されることなく、秋になっても花の勢いが強く、容易に枯れなかったことにあるとは初めて知った。

 また、芭蕉に忍者説が出たのは伊賀の出身であること、生涯に不明の部分が多いこと、一日に50キロも歩く異常な健脚ぶりから特殊訓練を受けた忍者ではなかったかとの憶測が生んだもので、真偽のほどは不明。


前後の記事

«  (前の記事)

(次の記事)  »

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ