逆説のニッポン歴史観(その2戦後日本)/井沢元彦著

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ぎゃくせつにっぽんれきしかん

「逆説のニッポン歴史観」 その2「戦後日本」 井沢元彦著
帯広告:拉致犯罪国家を放置したのはいったい誰だ
小学館文庫  2005年1月初版

 著者が朝日新聞をクソミソに、ボロクソにコメントする論理と覇気を感じつつ、戦後、左翼傾向の、一見もののわかったおっさんたちがどっと増え、物議をかもした歴史が想起され、と同時に、ベルリンの壁の崩壊からソ連邦の破綻に達し、共産圏の崩落まで、一気に沈静化されてしまった経緯が去来する。当時、左翼化したインテリは例外なくマルクスの破綻とは無縁に思える透徹した理論に痺れた傾向があり、ことに「唯物論」の説くところに反論の余地のない論理性を感じたのは中途半端に賢いやからだった。

 日本のいわゆる進歩的な学者、オピニオンリーダーだった人物が現実に北朝鮮のやることを悉く崇め、一方で、当時の韓国が国の防御として固めたKCIAを軸とするやや独裁的な手法に批判的だった人がいたこと、そうした歴史もよくわかる。

 従来いわれた「南京における何十万人虐殺事件について、その信憑性についてはっきり書いていないことと同様、中国政府が共産主義を構築するまでに自国民をどのくらい殺害したか、自国周辺を、とくにチベットを自治区にするまえに、どのくらいの人間を殺したか明確にされていない。

 中国国内でも、今後、「共産」という言葉に反吐の出る思いを味わい、この政治体制では永続性が期待できないことを予測している人物はいるだろう。 ただ、ドイツのワインゼッカ-の語ったという「日本にとって中国との関係が今後とも一番むずかしいテーマであろう」との指摘は慧眼というしかない。この通りになると、私も思っている。

 二十一世紀の日本にとって最大の難物は、あらゆる点で、(政治、経済、軍事、外交どれをとっても)中国であること、そしてそれに同調する韓国、北朝鮮、場合によっては台湾を含め、「日本バッシング」がはじまることを、ここで声高に、私も予言しておきたい。かれらの得意な戦略は内憂があるとき、必ず他国へ自国民の関心を向ける、その場合、日本は格好の対象となる。

 本書の扱うところは、概して、タイミング的に古い。同じ書籍のなかに例によって重複が多く、正直いって、こんなに厚い本である必要などないようにも思えた。読者の時間というものへの配慮が欲しい。

 ことに、サッカーの部分、野球の部分は饒舌すぎる。

 思いついたことを総花的にいうが、筑紫哲也ニュースはこの数年、拉致の問題が出て以来、急速にニュースへの信頼が薄れ、番組として凋落しつつある。左の傾向の強い人に共通するのは「いい人ぶりっ子」であり、そこから破綻が起こる。(そうでないことを祈ってはいるが)

 アメリカから与えられた新憲法への扱い、考えが、同時に取得したドイツと日本とで大きく違っている。日本人と比べてドイツ人ははるかに合理的であり、なにが真実かを見据えていたということだろう。ドイツは戦後何十回も憲法を自国のあり方に適合するように改憲している。

 日本を骨抜きするための憲法に、時代の経過とともに疑義を感じないとしたら、それは単なるアホというしかない。さすがに、ドイツ人はなんども戦争を体験し、大きな敗戦を体験し、塗炭の苦しみを味わった体験をし、そうした数々の体験が物事を合理的に判断する軸になっているのであろう。他国と国境を接する国と、そうでない国とに横たわる「思考の深浅」と、「視野の広狭」を感じざるを得ない。

 日本人の好きな「根回し」「合議制」「護送船団方式」「談合」「稟議方式」はいまさらいうまでもないが、これが聖徳太子の「和をもって貴しとなす」からスタートしたのは新たな発見。「ハリスの日本滞在記」にも、このあたりの日本側の右往左往する様と同時に「無責任体制」がよく描かれている。

 自分の国を自分で守らないという国は、地球上にない。 安保さえあれば、アメリカ人が彼ら自らの血を流してまで日本を守ってくれるのであろうか。 そう信じているとすれば、日本人とはあまりに楽観主義であり、言葉を換えれば「平和ボケ」というしかない。

 (無能な政治家どもも当選回数が多ければ大臣になれるというのは、つまるところ、その政治家を何度も選んでいる地方の民度の低さに原因がある。そういう実態、あわせて、政治家の世襲制、タレントやスポーツ選手の選挙への引っ張り出しなどを見ていると、正直鳥肌が立つ。 そういう人間を政治家にしたところで、あの優秀な官僚に子供扱いされ、適当にごまかされるのが落ちではないか。 国民はそういう実態を横目で眺めつつ、選挙にすら足を運ばない。 名を連ねる人物のどのツラを見ても、まともな政治家にはなれそうにないからだ。 要するに、官僚の上をいく政治家をわれわれは求めているのだから。民主主義といい、主権在民といい、こうした社会体制が良質な政治を生むとはとても思えない)。

 (著者は本書をもって朝日を向こうにまわしボロクソに書いたが、早かれ遅かれ、マスコミの主流はテレビに奪われるだろう。(現に、朝日新聞の販売数は減少の一途である)。 問題は、今後とも残る民法テレビの質の問題である。 現状のような、視聴者に媚びを売るような、おちゃらけた質の悪い番組を一日中流していて、ニュース番組やワイドショーのような番組には、これまた質の低い、その資格があるとはとても思えないコメンテーターを招く、これでは国民に対して最も影響力の強いテレビ放映が中身的に杜撰、低劣なままで、最悪の国民教育をやるばかりでなく、世論まで意図的につくってしまう)。

 (世に恐るべきはマスコミであり、今後はテレビの力である。 時とともに、テレビが奢りはじめるだろうが、その奢りは従来のマスコミのレベルではないないだろう。 かつての川原乞食がタレントになって、世間の見る目が変わったことはいい。大企業からスポンサー料をとり、視聴率一本主義でやっていくだけでは、衆愚を相手とするばかりで、いずれ破綻をきたすのではないか。 外国から見た場合の「日本の民放テレビの低劣な番組構成」は眼をおおうほどだ。 ことに、名の売れたタレントのプライバシーを追いかけるいい歳こいたおっさん連中の「卑しく、下品なツラを」見ていると、見ているだけで目が腐りそうになる。ああいうのが自分の父親だったら、私なら最低でもぶんなぐるだろうし、半殺しの目にあわせるだろう)。

 (この国が大々的な鉈を振るった、いや振るい得たのは、第一に応仁の乱にはじまった戦国時代の終焉時、第二は封建制度が崩壊した明治維新、第三は太平洋線に敗戦したときで、この3つの時期に共通するのは日本がメロメロになって、それまでのよりどころ、規範が壊滅したときである。 この国はそういう時期にしか、新しい日本をスタートさせることはできないと、私は思っている。そういう稀有のタイミングをふいにしたのが敗戦後の日本だ。せめて、朝鮮動乱のあとにでも、憲法を身の丈に合った形に改正すべきだった)。

 (見てみたらいい。 小泉さんの郵政の問題も、時間がかかりすぎたという側面はあるが、利権をもつ人々、ぶら下がる族議員らが日を追うごとに増えて、構造改革は一層やりにくくなっている。日本の醜さを天下に曝しているようなものだ。やらねばならない構造改革はまだまだごまんとあるというのに)。

 (人間は利権を手放すことにはあらゆる手段を弄して反対する動物であり、性悪な動物。 税金がまともに使われているかを厳正にチェックするだけで、官僚の過去の行動が見えてくる)。

 (聖徳太子の「和をもって尊としとせよ」は、「罪を憎んで人を憎まず」と同様、この国古来の「性善説」に根拠をもっているのかも知れない。私はこの国に「窮鳥懐に入らば、猟師といえども、これを殺さず」という性善説のベースとなった話が大嫌いである。こういう美名に隠れたところで、この国の偉い人が過去の歴史のなかでどのくらい悪業を重ねてきたか。「性悪説」に一本化して、それに見合ったチェック機能をあらゆるところに配置すべきだ)。

 (戦後、あらゆる日本人が信頼を寄せてきた一部上場の有名企業がここ数年次から次へと新聞沙汰になったケースは枚挙に暇がない。明らかに、日本経済に過度期的なタイミングが訪れているように思われる。「老兵は消え行くのみ」といったような)。


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