解剖学個人授業/養老孟司&南伸坊著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

かいぼうがくこじんじゅぎょう

「解剖学個人授業」 養老孟司/南伸坊共著
新潮文庫  2001年4月文庫化初版
1996年新潮社より単行本

 二人共著という体裁の本になっているが、それだけにどこが南氏の言葉で、どこが養老氏の言葉なのか、しばしば判別できず、苛々する部分のあることは否めない。また、南氏の話があっちこっちに飛び火するため、それを理解するのに時間がかかり、薄っぺらな文庫本なのに時間をとられることにも不快感がある。とはいえ、逆に、南氏だから掘り下げがありきたりでなく、内容を面白くしている面も見逃せない。

 以下は、学んだこと、気になったことなど:(   )内は私の意見、感じたことなど:

1. 人間がものを知ろうとする欲には限りがない。

2. 「知りたい」欲の是非は? 孔子は典型的な都市生活者、都会主義者だから、自然現象、不思議なことについては語っていない。「死とは?」と問われて、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と言ったと。(これは逃げ。孔子はエコロジーとは無縁の存在だった)

3. 日本では人間の死体の解剖を1、300年前に大宝律令で禁じたが、これは中国の真似。

 (中国人はやけに死体を怖がったとあるが、中国史を読む限り、中国人が考案した死刑の方法や拷問の残酷きわまりない手法を知る限り、彼らが死体を怖がったという印象は私にはなく、本書の言葉は意外)。

4. 日本ではじめて死体解剖したのは「解体新書」を書いた杉田玄白だと思っている人が多いが、それはオランダ人から貰った図面を写しただけで、実際は山脇東洋という漢方医が1754年、京都の壬生で死刑囚を解剖することを許可されて解剖した。首なしの死体が解剖の対象で、「大腸と小腸は同じもので区別はない」と雑把な判断をしている。その17年後にオランダから提供された「ターヘル・アナトミア」の解剖図をもって立ち会った杉田玄白が「山脇東洋の観察は杜撰だ」と批判した。はじめて人間の解剖をしたら、大腸、小腸の区別がつかないのは専門家としては常識。

 (「解体新書がパクリだとしたら、杉田玄白というのは歴史で習ったほどの知性豊かな人物ではなかったということになる)

5.耳の機能は無茶苦茶不思議。脳からみると、耳は体性知覚。身体は感覚、触覚なんかとよく似ている。魚の段階では側線。それの一番前にある部分が変化していく。聴覚部の蝸牛というのは陸に上がってから発生する。これは側線の一部から発生してきたのに間違いない。感覚細胞そっくりだから、空気中に出たときに、それが音をとるように変化した。それが、脊椎動物の歴史。

 哺乳類になると、今度は脳のなかで聴覚領が次第に独立してくる。下等な哺乳類だと、触覚領域と聴覚領域は区別がつきにくい。それがはっきり分かれてくるのが、逆にいうと、哺乳類の進化。おもしろいのは爬虫類では耳小骨に相当する顎関節で、方形骨と関節骨っていう二つの骨が下顎と上顎のあいだにあって、顎関節を形成した。その二つの骨が外されて耳の中に入って耳小骨になった。ところが、哺乳類の場合、耳小骨は三つある。

6.数学では、一本の線は無限個の点の集合したもの。そして、線というのは、長さがあるが、面積はない。そして、点は位置はあるが面積はない。点に面積がないのなら、いくら無限個集めてみても、それは線にはならないはずなのに・・・・。点に面積がないのなら、どこに打ったか判別できず、その位置を定めることもロケートすることもできないはずだ。(尤もな疑問だが、これに対し養老氏は「無限はだれにも確かめられたり経験したりはできない。とすれば、無限は我々の脳のなかにしかない」と答える。数学を知る者としての理解)。

7. 日本の伝統文化に「道」がある。「道」は要するに身体の所作であり、道を究めることが理想とされたが、そこに答えなどありはしない。三島由紀夫は形式主義、つまり視覚主義者だったから、その答えを形だと思ったらしいが、それは間違いであろう。形は所詮は知覚系のものである。形から入るのは、知覚から入るのと同じで、それがただちに運動になって出てくるわけではない。

8.[餅屋は餅屋]という言葉がある。これは専門性を評価したものだが、問題は専門をどう決めるかである。頭からというか、上からというか、斬り方を自分の都合で決めている典型が官庁であろう。これを「縦割り」という。実際は違うふうに切れているのに、官庁はそれを頭で切ってしまう。そうなると、切れないものが切れたり、無関係のものが一緒になったりする。(縦割り行政が隘路になって、横の連携が杜撰、希薄にもなり、解決できる問題も解決できなくなりもする)。

9.ペンフェールドのホムンクルスの微弱電流を刺激として記憶喪失者の脳に流す実験があり、まるでヴィデオのようにあらゆる過去の体験が蘇ってくるというのがある。つまり、脳みそは必要、不必要にかかわりなく、膨大な記憶を映像として収納している。養老氏は「回路として保存されているのではないか。あるきっかけで、ひとつの回路が立ち上がると、それに反応して、次の回路が立ち上がり、さらにそれからまた新たな回路が立ちあがるというふうに」と説明。

10.普通の人の普通の現実を日常性といい、英語でActualityという。一方、それに現実感が付着すると重みがつけられ、真実とか信仰とか、真善美がからまって、英語でRealityという。(言ってることが全然解らない)

11.解剖やっていると、学生のなかには発作を起こすやつがいる。(気の弱いやつは吐きもするだろう)

12.解剖でも、解りにくいのは脳と免疫。(合点がいく)

13.病気の90%は自然治癒力で治る。(治癒能力で治すのと、早く治すのとには大きな違い、差がある。また、そのために医療がある)。

14.かつて人間は呼吸、心拍が停止し、瞳孔が光に反応しなくなるという、三つの兆候を示せば、臨終とされ、死を確認できた。ところが、人工呼吸器を装着することで昏睡状態が生じ、これが後に「脳死」という言葉を生み、かつ、移植手術と結びついた。人の死を決定するのは今や科学的な判断ではなく社会的な規定に基づくことになり、ややこしい概念の導入が世界の多くの国で必ずしも一致をみなくなった。

 脳死とは、自発呼吸の停止を主たる兆候としているが、それは脳障害が延髄に及んだことを意味しているからだ。ただし、心拍の停止は起こらず、呼吸は人口呼吸器によって代替されているために循環機能は保持されている。障害の程度を具体的にどう判定するか、定義がむずかしい。

 (いわゆる植物人間の誕生だが、鼻に管を入れられ、寝たきりで、周囲を識別できない状態で生きていたいとは誰も思わないのでは)。

 本書に触発され、もう1冊、南伸坊の本を読んでやろうかという気になった。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ