心は孤独な数学者/藤原正彦著

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「心は孤独な数学者」 藤原正彦著
新潮文庫  2001年1月文庫化初版

 本書は作者が「あとがき」で語っているように、数学者として憧れ、仰ぎつつ研究に明け暮れてきた三人の天才、「万有引力」のニュートン(イギリス人)、「光学理論、力学理論」のハミルトン(アイルランド人)、「数学上の新定理」を量産したラマヌジャン(インド人)の足跡を追い、三人の業績以上に、それぞれの人間味、人間性に迫るエッセイであるのと同時に、それぞれの国と国民性にまで触れており、長年知りたかった多くを学ぶことができた。ことにイギリスに関しては、今月に入って3冊書評しているので、それらの書物との比較のうえでも愉しむことができた。

 この著者の作品を読んでいつも思うことだが、著作の内容と、表紙カバー裏の著者の写真とが噛み合わないというか、隔たりがあるというか、この作者が好きなだけに、微笑を誘われる。

 以下は私個人のための備忘録なので、飛ばしていただいて結構である。

1.アイザック・ニュートン(イギリス人:万有引力/プリンピキア)

 アイザック・ニュートンは1642年、ケンブリッジの北方80キロの村で、未熟児で生まれ、父親は彼が生まれる3か月前に死亡している。同じ年、ガリレオ・ガリレイが死に、5年前にはデカルトが「哲学原理」を執筆。また、ニュートン誕生の3年前には16歳だったパスカルが「円錐曲線試論」を著し、神童といわれた。レンブラントの「夜警」はニュートン誕生と同じ年に描かれた。

 ニュートンは生涯独身。大学に入るまでは数学や物理の勉強をしていたが、ケンブリッジのカリッジに入学後、数学や光学で名高いアイザック・バローのもとでデカルトの「屈折光学」、ボイルの「色についての実験と考察」を学び、同時にガリレオやケプラーの著作をむさぼり読んだ。(当時の哲学は自然哲学、つまり自然科学を意味する)。

 「天体の三角法」をユークリッドの言論から学び、デカルトの幾何学やワリスの著作(積分)も読んでいる。2年足らずの短期間に独学で科学と数学を身につけ、特待生となる。

 1665年、ロンドンでペストが猛威をふるい、首都の人口の5分の1が死亡。ケンブリッジにもペスト患者が出たため、大学卒業の年に母親のいる村に逃避。

 アリストテレスの自然哲学では世界を月より上と下の二領域に分け、それぞれが異なる原理で動いていると考えられていたが、これに対し、デカルトの哲学原理ではどちらの領域でも同じ原理が働いているとして「力」と「運動」という概念をもたらし、多くの研究者に天体を考えるうえでのヒントが提供された。

 当時の天体観測データは玉石混淆、という以上に、誤った学説で溢れていたが、ニュートンはゴミの山からダイヤモンドを発見する能力、嗅覚を備えていた。そのうちの一つが、ケプラーの発表した観測結果からの法則、「惑星の周期は軌道中心からの距離からの2分の3乗に比例する」という謎めいた法則に目をつけた。そして、数ヵ月後、彼は「引力の強さが距離の2乗に反比例する、すなわち、距離が2倍になると引力は4分の1に、3倍になると9分の1になることを数学的に証明した。

 思弁的な自然現象の考察からフランシス・ベーコンが実験的考察を提唱し、そのうえに数学的裏づけを与えて理論に現実性を高めるというのがニュートンの創始した手法。

 村に退避していた20代前半の青年ニュートンは、その間に、微積分法、光と色に関する理論、万有引力の法則という三つの大理論の端緒を発見。ペストが流行したおかげで、好きなだけ時間をかけ、孤独のなかで研究に没頭する時間を得た。

 1666年はロンドン大火の年でもあったが、被災者はペストの生き残りであり、被災者総数20万人、死者はたったの6人ですんでいる。

 ニュートンは力学については20年後に「プリンキピア」で全容を明らかにし、数学と光学についてはなんと38年後になって初めて公表、62歳のときだった。これは、彼が完全主義者だったことと関係があり、自分のやり方を数学的に正当化できなかったために発表を控えた。現代の微積分法のレベルに達していなかった時代である。また、引力の原因については、現在でも、不可解のままである。

 発見した微積分についても、そのなかに現れる「極限の概念」を明確にできなかった。光学についても、光線が粒子の流れであるという自らの仮説を十分に、納得のいくものにできなかった。「極限概念」は19世紀になってやっと解明されたし、光が粒子性と波動性の両方を備えていることは20世紀になって量子力学の登場で解決した。

 ニュートンの悪癖は良心的だが、「発見の先取性」に人一倍の執着をみせたこと。メルカトール(地図のメルカトールではない)が双曲線の面積を見出す方法を発表したとき、3年前にすでに得ていた結果を数日間で論文に書き「無限個の項をもつ方程式による解析について」にまとめあげ、ロンドンのコリンズ(1665年にロンドンとパリで刊行を始めた科学情報誌)に送り、匿名で発表してくれるように依頼している。しかも、署名入りを求める師のバローや発刊元のコリンズに対しても快諾しないという偏屈ぶり。

 大著「光学」でも実名を伏せている。そのため、ライプニッツとの争いに巻き込まれるが、結局、42年後、ニュートンが69歳のときに解決されるが、性格に陰湿で姑息な匂いがする。

 ハレーが惑星の軌道について質問すると、「楕円だ」と答える。「なぜ?」との問いに、「まえに計算したことがある」「だったら、その計算をみせて欲しい」との要請に対し、3か月後に論文ほどの厚さで、しかもケプラーの第三法則まで証明してしまう。

 (ニュートンはハレー彗星の楕円運動の計算をしつつ、将来の動きも計算したところ、2,020年には太陽に衝突するという結果を得たという説がある。この計算が正しいとしたら、2,020年が地球に生きるあらゆる生物の最後の年となる)。

 この頃になって、ニュートンは自分のやりはじめたことの途轍もない可能性に目を見張った。力学と天体とを一つの体系にするという壮大な研究に全精力を注ぎ、1年後の1686年に「自然哲学の数学的原理」(通称「プリンキピア)を完成、自然科学の歴史においてプリンキピアの出現ほど重大で衝撃的な事件はない。アリストテレスにはじまって、プトレマイオス、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、デカルトと、人類の叡智が築きあげてきた力学、物理学、天文学が一変したからだ。

 いかなる天才の業績といえども、それまでに積み上げられてきた多くの研究者の成果の上に成立している。微分はフェルマー、積分はワリス、両者の関係に至ってはバローという手本があった。力学においては、「運動の三原則」のうち一つはガリレイのもの、天文学においては22年間にわたる超人的な観測と洞察力により見出した「ケプラーの法則」があった。独立した三分野、数学、力学、天文学へのそれぞれにおける諸成果を完全無欠な有機体として統一したのがプリンキピアであった。もし、これを剽窃(ひょうせつ)というのなら、人間の知的生産はすべて剽窃となろう。

 数学者は一般に、若いうちから真理の探究に至上の価値を信じこんで一心不乱に研究してきた後遺症というべきか、50代になってから一過性の精神不調に陥る。ニュートンも例外ではなかった。数学史上、50歳を過ぎた研究者によって大発見がなされたことは皆無。ニュートンは84歳で死去。身長は小さく、160センチだった。

 ニュートンがいなかったら、世界文明は50年は遅れたであろう。天才科学者の力とはそういうもの。

 イギリス人は不便に鈍感である。言葉を換えれば、不便に耐える力があり、それを誇示する。もっといえば、忍耐することに快感が伴う、一種、自虐的な趣味がある。イギリスの道路が、高速道路を例外として、ほとんど曲がりくねっているのも、楽な運転をしたいと思わない国民性に起因している。逆説的にいえば、艱難辛苦に強い体質をもっている。

 イギリスはいまでも階級社会である。保守的でありながら、独創的でもある。力学はニュートン、電磁気学はマクスウェル、進化論はダーウィン、近代経済学はケインズ、すべてイギリス人。ビートルズも、ミニスカートも、ジェットエンジンも、コンピューターもイギリスで生まれた。戦後だけで、ケンブリッジから30人余のノーベル賞受賞者が輩出している。物事の本質を見抜く眼力は、ひょっとしたら、伝統、慣習、保守性のなかから磨かれるのかも知れない。保守性が反動として斬新さへの爆発力を生むという可能性も否定しがたい。

 (著者は以上のように、イギリス人の国民性についてもケンブリッジでの研究期間での経験を通じて、触れているが、こうした内容は前三作のイギリスを語った著作(本月の書評)でも触れられていない。さすがは数学者の目は違うという印象。また、「イギリス婦人のメニューは一般に驚くほど少ない」などの断定も、自らの経験あってこそであろう。尤もイギリス人の味覚は最低であり、「味覚を追う者は紳士ではない」との信念から発した欠陥かも知れない)。

2.ウィリアム・ロウアン・ハミルトン(アイルランド人:光学理論の完成・双軸曲線の屈折光線に関する現象の予言など)

 イギリスの西側にくっつくようにして存在するのがアイルランド、長年、イギリスの属国だった。民族的にはケルト族で、紀元前は欧州大陸に散在していたが、ローマ帝国に追われ、追われするうちに、イギリスの一部(主にスコットランド)にも、アイルランドにも流れ込み居住するようになった。ローマ人にとっては蛮族だったともいえる。

 アイルランドはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、レーガン、ケネディ両元米国大統領の出身地でもある。天才数学者、ウィリアム・ロウアン・ハミルトンもアイルランド人だが、世界に名の知れた多くの作家が輩出していることも特記しておきたい。「ガリヴァー旅行記」のジョナサン・スウィフトをはじめ、オスカーワイルド、バーナードショー、ウィリアム・イェイツ、ジェームズ・ジョイス、サミュエル・ベケットなどなど。

 全人口が日本の静岡県と同じ、350万人、上記した作家たちはいずれも人口50万の首都、ダブリン生まれであり、文学史上の特異点といっていい。

 イギリス人でアイルランドを訪れる人はわずかであり、イギリスにはアイルランド人を揶揄したり小ばかにしたりする言葉が尽きぬくらいある。とはいえ、ダブリンの人々が話す英語はイギリス人が話す英語よりはるかに美しい。

 12世紀、イギリスにヘンリー八世が誕生するや、アイルランドへの侵略がスタートする。その蹂躙ぶりは筆舌に尽くしがたい。宗教上、イギリスはプロテスタントで、アイルランドはカトリックである。イギリス人はプロテスタントのアイルランド人、プロテスタントに改宗したアイルランド人は穏便に扱ったが、そうでない人々は僧侶を含め、ほとんど皆殺し。19世紀中頃に至っては、自作農所有の土地は全体の3%で、97%はイギリス貴族の小作人とされ(土地を強制的に取り上げた)、飢饉のたびに多くの死者が出たが、イギリスはまったく救済の手を差し伸べなかった。アイルランドの海外貿易を阻害し、差別的手段により教育や仕事の機会も奪い、アイルランド人を無知、蒙昧、無学の徒とし、貧民の島と位置づけた。19世紀に、人口が減ったのは、世界でもアイルランド人だけ。(後日、北アイルランドにおいて起こった暴動、テロはイギリスが撒いた種というべきか、身から出た錆というべきか)。

 (イギリス人はアイルランドで行なった他民族抑圧政策を植民地時代、他の地域にも適用し、逆らう者を悉く惨殺した。イギリスのアイルランド政策に比べれば、日本の朝鮮半島併呑や慰安婦問題などは微々たるものに思われる)。

 ハミルトンは5歳で、英語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を読解でき、10歳時にはイタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、サンスクリット語、ペルシャ語を加え、10か国の言葉を習得。

 また、10歳時にはユークリッドの「原論」を読み、12歳時にはニュートンのプリンキピアを読んで、天文学に魅せられる。15歳時、数学者ラプラスやラグランジェを読み、数学にとりつかれる。16歳時、ラプラスの「天体力学」に誤りをみつけ、専門家を驚嘆させた。

 この天才は恋愛の傷に弱く、一年以上も鬱状態に陥り、首席だった学校の成績も下落。失恋の経験は終生癒えぬまま彼の人生に影を落とす。

 大学での業績として、「光学理論」を完成させ、「双軸結晶の屈折光線」に関する現象を予言。また、光学理論を力学理論へ拡張、特性関数の威力を示した。ヤコービという数学者と合体しての方程式は解析力学の基本方程式となり、考え方は量子力学にも応用された。

 アイルランド人は自己陶酔型が多く、状況判断が雑だが、失敗にもめげないところがある。戦闘に突っ込んでも、綿密に計画を立てるイギリス人に「ロマンティック・フール」とバカにされて、難なく撃退されてしまう。片足を夢の世界に入れて生きているといった印象がある。

 ハミルトンは1843年、「四元数」の概念に想到し、「a x b と、b x aは異なる」という革命的な代数系を発表した。

 3.シュリニバーサ・ラマヌジャン(1887年南インドの生まれ:定理、公理の量産)

 独力で発見した定理や公式は上司や友人にはその価値や真偽が判断できず、宗主国イギリスの一流学者によってその存在が知られるようになる。

 イギリスは1757年にフランス、ベンガル太守連合軍を破り、ベンガル地方の支配権や徴税権を握る。

 1758年にはスペインの無敵艦隊を破り、海軍力を背景に1600年東インド会社をマドラスに創設。当時、マドラスは辺境の地、綿布が他より安かったという単純な理由による選択だった。以後、マドラスには次第に人が集まるようになり、カルカッタ、ボンベイと並ぶインドの三大都市の一つとなり、イギリスはさらに先発のポルトガル、オランダを追い落とした。ポルトガルはマカオと東ティモールにに移り、フランスはヴェトナムを支配、オランダは日本との交易を長崎を通じて行い、他方インドネシアの全島を植民地化した。

 1857年には、インド全土を植民地とし、搾取し続けた。イギリスにとって唯一の輸出品だった毛織物が東南アジアで評価されず、貿易に貢献できないことを知るや、インド人に阿片を栽培させ、これを中国に持ち込んで、二度にわたる阿片戦争を行なった。ガンディーは暗殺され、インディラ・ガンディ首相も、その息子のラジブ・ガンディ首相も暗殺された。

 一方、人口は増え続け、1911年に2億5千万だったのが、1996年には9億5千。(現在では公表11・5億人だが、実際は13億人に及んでいるだろう)。

 ラマヌジャンは母親とともにバラモン教徒で、菜食主義。周囲は自分の家を含め貧困者のみ。そういう環境にあって、だれもが理解できない数学に血道をあげる青年はほとんど狂人のように映ったであろう。物質より精神に重きをおくバラモン教が辛うじてラマヌジャンを生かしたといっていい。

 インドでは総人口における男女比が100対93という数値で、国際的見地からも不自然なバランス。女児の死亡率が高いことに人為的なものがあるのではと疑われている。インドでは女の子を嫁にやるとき、持参金(ダウリー/金塊)をもたせるのが通常で、現行法では禁じられているが、実効なく、継続されている。「娘が三人いると家には灰すらなくなる」といわれ、ダウリーがらみの死亡者、自殺者が跡を絶たない。

 (現在、世界で地下資源としてではなく、現物の金塊を最も多く持っている国はインドである)。

 また、早婚でもあり、初潮をまだみぬうちに結婚式をすませ、初潮をみてから嫁入りするという風習もあり、国法は15歳前の結婚は禁止しているが、これも実効がない。

 インドの水道水には日本の水道水の百倍の細菌が含有されているといわれる。インドには歴史上、統一言語は一度も登場したことがない。サンスクリット語はギリシャ語、ドイツ語と同根、南インドで使われるタミル語(トラヴィダ語圏)と日本の古語の、とくに稲作に関する言語に同根を感じさせる語が多くある。例としては、米のことを「クマイ」、糠のことを「ヌク」、藁(わら)のことを「バラ」などといい、近似である。中国から言葉が入ってくるまえに日本にインドから入った可能性がある。現に、ローマ帝国時代、ローマはインドと貿易をした歴史がある。ローマがインドまで来れたとしたら、インドから日本へは距離的にはさらに近い。

 イギリスは1830年にマンチェスター、リヴァプール間に世界初の鉄道を敷設したが、世界で二番目の鉄道は1840年、インドでイギリス人が敷設したものだった。目的は収奪だったが、結果としてはインドの近代化に寄与したし、現在でもそのまま使われている土地も存在する。

 ラマヌジャンの天才性についての正当な評価、判定が周囲のインド人にはできなかったが、イギリス人に紹介され、そのうちの一人がロンドン大学に論文と未公表の成果を伝えた。 1913年、ケンブリッジの数学の専門家、ハーディ教授に送り先を得たことが幸運を呼んだ。

 ただ、ハーディは厳密性をことのほか重んじ、無限、実数、連続、極限といった直感的に理解できる概念に明確な定義を与えることの重要性を強調、これがないと、たとえば円の内部から外部へ出るのに必ずどこかで円を横切らねばならないということさえ証明できないからだ。

 厳密性や論理性は柔軟性の欠けたドイツ人の考えであり、つまらぬ理屈を並べてたてるのは口先だけのフランス人、経験を重視し、教義や論理より経験を重要だと考えるのがイギリス人。西欧にはこうした評価があり、だから、形而上学はイギリスに根づかなかった。イギリス人は外交面でも現実主義で、かつて大陸諸国からイギリスは「不実のアルビオン」といわれ、一日のうちに、まるでイギリスの天候のように、考えを変える気まぐれな民族と揶揄された。

 ハーディはこういうイギリスに大陸(とくにドイツ)で育った厳密性をもちこみ、イギリスの数学を研究するうえでの致命的な欠陥を補おうとした最初の人物である。

 イギリスはかつてアイルランドに対してやったように、インドに対しても、劣等国民に代わって土地を支配する、それは搾取ではなく統治に対する正統な報酬だと主張。確かなことは、イギリス人の植民地官僚がインドで賄賂や汚職に関係したことはまったくなかったという事実。イギリスがインドを300年近くも統治できたのは、一つはインドのカースト制度を巧みに利用したこと、もう一つは、インド人がイギリスによる統治を、その公正さゆえに歓迎したという背景がある。(300年植民地化に成功したといえば、オランダによるインドネシア統治もその範疇に入る。賄賂や癒着の有無については知らないが)。

 ラマヌジャンは若くして逝去したが、残した公式は3254個、証明に何十年もかかっている。イリノイ大学のバーント教授は「全五巻で最終巻だが、証明は完成したものの、これら公式にたどり着いたラマヌジャンの動機、洞察、証明、智恵などについては何一つ判っていない。何よりも、公式のもつ意義、数学における位置づけ、応用については手がついていない」と発言している。

 インド技術者の優秀性の背景には数学教育による思考と、中学から学ぶサンスクリット語の構造がコンピューター的思考に近縁にあるという事情もある。

 ただ、ラマヌジャンは大学は落第し、定理や公理は泉のように湧いてくるものの、それらがどの程度重要なのか、自分でも解らないし、証明もできない。彼は数学科の学生ならだれもが知っている基本的な「コーシーの積分定理」さえ知らず、証明という言葉の概念すら知らなかった。

 ラマヌジャンの発見した公理は奇抜ではあるが、常人の想像を超える美と調和を有した特異性をもつ。実社会や自然界からかけ離れている純粋数学は研究の動機、方向、対象の選択、ガイドラインが美的感覚以外にない。インドのような混沌とした土地にラマヌジャンが生まれたことは、モーツアルトがインドで生まれたとしたら、世界中の人が抱くであろう疑問と同質である。

 無限大の能力者は無限小の確率でしか出現しない。そのような人間を想定しては学校教育も社会ルールも存在していない。人間という不思議な生き物を扱う場合、公平の原則からいったん離れ、ときには特例を認める度量がないと、ラマヌジャンのような天才が存在したときに、その天才性も天才的創造力も無為に帰してしまう。

 ラマヌジャンとハーディとの共同研究による共同論文、「分割数の漸近公式」はそれ自身の重要性はもとより、証明で用いられた円周法が解析的整数論に革命をもたらした。

 ラマヌジャンは「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜ、そんな公式を思いついたのか数学を専門とする人間にとってすら見当がつかない」というレベルの天才である。彼の発見した公式群はその大半が必然性が判らない。ということは、ラマヌジャンが存在しなかったら、それら公式群の大半が今日でも発見されていないことになる。相対性理論や万有引力なら、アインシュタインがいなくても、ニュートンがいなくても、いずれは発見されていただろうが。

 ラマヌジャンは1915年からケンブリッジで過ごし、栄養不足で体調を崩し、5年後の1920年にインドの故郷に帰る。そして、その1年後に、30代の若さで。この世を去る。

 ラマンは物理学者で、「ラマン効果」の発見でノーベル賞を、ラマンの甥であるチャンドラセカールは20世紀を代表する天体物理学者で、「ブラックホール理論」を提唱してノーベル賞をとっている。いずれも、ラマヌジャンと同じインド人であり、南インドの同じ地域の生まれだ。美的感覚の分厚い層がこの地を特異点としている。

 あとがきで、作者は「三人の数学の天才を追っていて最も意外だったのは、二人がキリスト教徒、一人がヒンドゥー教徒と、神を深く信仰していたこと。信仰が力の源泉になっていたこと。最も論理的な数学が最も非論理的な神に依拠していたことは興味深かった」という。

 インドを旅したときのことを著者は次のように語っている。

 インド旅行で注意すべきこと:

1.夜はライトなしのトラックが疾走してくるので、夜間移動はしないこと。

2.炎天下での旅になるから、脱水症状を起こさぬようミネラルウォーター1.5リットル瓶を常時3本用意すること。水がないときはココナツヤシを割って飲むこと。

3.宿泊するホテルは各地ナンバーワンのホテルにすること。でないと、サソリや毒グモにやられる。とはいえ、ヤモリ、蝿、蚊は我慢すること。

4.昼食はバナナと水で我慢すること。

5.公衆トイレはないから、出発前に必ず排泄をすませておくこと。やむを得ず、したくなったら、野原ですること。その際、蛇の有無に注意すること。

6.南の山道を通るときは山賊に要注意。

7.ホテルにはトイレがあるが、紙は用意されていない。コップと水が用意されているだけだから、ティッシュをたくさん持参していくこと。

8.ホテルの蛇口にはHとCが書かれているが、Hot Waterは出ない。常時、40度前後の水である。

9.現代文明から隔絶されることを覚悟せよ。心身ともに疲労困憊することを覚悟せよ。インドにアメリカ人の姿を見ることは稀である。彼らはインドでの苦行に耐えられないからだ。

 インドの旅は文明を剥ぎとった人間、仮面をとった生の人間性と向きあい、自分自身と対面する機会となる。痛烈で、言葉による表現を超えた真実に遭遇することであり、そのことが疲労を招く。

 作者が本書において、ラマヌジャンについての記述を最も多くしたのは、インドでの旅で考えるところが多かった、疲労したということでもあろう。


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