赤い人/吉村昭著

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赤い人/吉村昭

「赤い人」 吉村昭著
1977年11月筑摩書房より単行本として刊行
1994年3月15日 講談社文庫より初版 ¥495+税

 「赤い人」とは、時代が明治に替わって、新政府が罪人に色つきの着衣を強制したことに理由がある。

 目立つ服装をさせることで、脱獄した場合など、囚人であることが即座に判るようにとの配慮があったであろう。さらに、江戸期にはなかった風習を持ち込んだ裏面には、武家社会の破綻によって、新しい政府にも、新しい施策にも素直に応じられない人が全国的にいたであろうことも想像できる。そうした特殊事情が犯罪者を、囚人を増やす結果を導いていたはずだ。

 明治になって経済的に困窮したのみならず精神的にも疲弊したのは武家であった。西郷隆盛を中心とした西南戦争でもわかる通り、新政府に不満をもつ元武士階級に属する武家が少なくなかった。ために、かれらによる犯罪が多発、政府はこれへの対応はもとより、収容する施設に苦慮せざるを得なかった。

 (むろん、元武家だけが罪人だったわけではない。新政府も欧州列強に倣い、軍隊、警察、省庁などを創設、石高に依存して生活していた武士階級の救済に心を砕いたという史実もある)。

 新政府は明治14年、増えた囚人らを北海道に押送し、かれらを収容する施設はもとより、年を追って増えている囚人らを収容する施設、「集治監」と称する大型の施設建設(3千人収容可能)に労力を使うよう強制した。

 囚人の労働力をこのような社会インフラに国策として使う習慣は古くはロシア皇帝、ピョートルが現首都、サンクトペテルブルグの湿地帯を埋めることから始め、長年を要して建設したことは有名な話。

 戦争捕虜をシベリアに送り込んで過酷な労働に従事させる風習もここに始まっている。

 赤い人らは酷寒の北海道での労働を強いられたにも拘わらず、新政府は身を守るための暖衣はもとより道具についても全く配慮することなく、(足袋、手袋、綿入れなど、なに一つ供与されなかった)ために多くが凍傷にかかって脚の切断を余儀なくされたり、栄養失調で死んだり、「ここにいたんでは死を免れない」との思いから脱獄が途切れなく継続した。脱走者は捕縛されれば、惨殺されるのが判っていたが、それでも脱獄の数は減らなかった。

 道路の開拓工事を始めて、たった1年と2か月の間に、囚人の死亡者は101名にのぼったという。政府にとって囚人らは「使い捨ての道具」同様の対象だったといっていい。

 北海道に大型の集治監が幾つも必要だった時代は遠い過去のことになりはしたが、かれらの労働によって、収監所が幾つもできたことで、交通網が拡大し、内地からの移植者が増え、北海道の開拓に繋がったことも事実。

 本書は「赤い人」に焦点を絞っていて、上記した労働の実態のほかに、脱獄と、捕縛を含め、その顛末について一件、一件、ことこまかに追い、かつ書いている。ある意味で、この書籍は日本史の暗部というより「恥」の部分を露出させているといってもよい。と同時に、本書を完成させたことが「破獄」を書く上でさきがけとしての基本的知識となったように思われる。

 私にとっては、こんなに古い時代に書かれた吉村昭の作品にこれまで遭遇していなかったことに驚きを禁じえなかった。

 ちなみに、この著者は「間宮林蔵」、「羆(ひぐま)」のほか、アリューシャンに流されてエカテリーナ皇帝にまで謁見した「大黒屋光太夫」、ポツダム宣言を受諾後にも拘わらず、ロシア潜水艦が樺太から内地に帰還途中の引き揚げ者で満載の輸送船にトピード(魚雷)を打ち込んで沈没させた話などなど、北海道といわず、北に関する関心が高く、当然ながら、この領域についてもアイヌについても半端な知識ではない。本書はそのはしりだったと思われる。

 思い出したことが一つある。(関東でのこと)。

 それは戦後しばらくしてから、囚人の一部が青い服を着せられ、警察官の監視下に置かれつつ道路工事に携わったりする姿に接したことである。周囲の大人はそういう人たちを「青ちゃん」と呼んでいたことで、戦後暫くまで、囚人に色のついた服を着せる習慣があったのではと思われる。


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