よみがえる天才アルキメデス/斎藤憲著

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よみがえる天才アルキメデス

「よみがえる天才アルキメデス」
斎藤憲(1958年生/大阪府立大学人間社会学部助教授/ギリシャ数学史専攻)著 
副題:数学の幻の奇書と呼ばれるアルキメデスの「方法」とは何だったのか
岩波科学ライブラリー 2006年3月初版 単行本

 現代に伝わるギリシャ語の写本は大半が9世紀以降に東ローマ帝国(ビザンツ)のコンスタンティノープルで筆写されたもの。 

 本書では冒頭に、1998年、ニューヨークはクリスティーズにおける競売の場に、アルキメデス著作の写本が供される話が出され、好事家の好奇心を煽ったことが記されている。

 著者によれば、むかしパピルスという紙が執筆に使われたものの、質が悪く、長くもたなかった。ために、羊皮紙が使われるようになったが、高価であり、羊の皮が使われた著作はしばしば擦って消され、新たな著作が上に書かれた歴史がある。クリスティーズに出されたアルキメデスの写本というのも、オリジナルはアルキメデスの著作だったものが12世紀に祈祷書が上書きされたものだった。

 (日本の和紙がいかに優れたものであるか、認識を新たにすべきだ。先年、太平洋のトラック島の海底で発見された日本船舶に残された航海誌が和紙に書かれていたために、70年近く経過した今も、それがはっきり読めるレベルで水中に残っていた事実は日本のもつ独特のスキルと評価されていい)。

 にも拘わらず、提示された金額は80万から120万ドル(日本円にして約2億円)であり、実際に落札された価格は200万ドルだったという。

 アルキメデスといえば、私のように数学に弱い人間を含め、だれもが知っている数学者であり、数々の業績を遺した人物として記憶されている。そういう知識が、消された著作が競売に付されたという、少し生臭い話からはじまる本書にはまり込む機会となった。

 アルキメデスは紀元前287年に生まれ、同212年に75歳(当時としては破格な長命)で亡くなった人だが、地中海はシチリア島のシュラクサイで一生を送っている。ローマ帝国との戦いのなかで、自分が製作した武器、兵器、機器を使ってローマ軍をさんざんに悩ませたといわれるが、このときの戦のなかで落命した。

 古代の数学者の著作については、写本に接する機会はあっても、時間的な経過のなかでどのように思索をし、どのような結果を導いたかは知るよしもないが、アルキメデスに限っては、彼が住むシュラクサイで数学的発見や証明を理解できる人物がいなかったため、彼は考えがまとまる都度、思考の結果を著作の形に整え、エジプトのアレクサンドリア(大図書館があった)に送っていたことのほか、今後の予定や著作の成果についても言及した記述が見られ、そのおかげで、2千年後の我々もアルキメデスの著作の順序はもとより、研究の経過をたどることができる。

 ユークリッドは前250年頃の人というのが有力な説で、アルキメデスとほぼ同時代の数学者ということになる。また、数十年後にはアポロニオスが「円錐曲線」を著し、大きな成果を挙げたように、当時の流行は軌跡や作図の問題にあった。ただ、アルキメデスの「螺旋について」「円錐状体と球状体について」などは送付先の人間が恒常的に同一の人物だったわけではなく、関心をもたれなかった可能性もある。

 紀元前490年ー480年にはペルシャの大軍が「マラトンの戦い」「サラミスの海戦」などの名で歴史が語っているように、バルカン半島に向かい、ギリシャ本土のアテネ、スパルタなど各ポリスはシュラクサイに支援を求めてくるが、シュラクサイにとっての当面の敵はアフリカ北岸を拠点とするカルタゴであり、ギリシャからの要請に応ずることはなかった。(ただ、ペルシャの大群をギリシャのポリスが力を合わせて追い返したことは、ギリシャがヨーロッパを守ったことになり、もし破れていたら、欧州の現状も相当に異なった様相を呈していたのではないかとは識者の話である。スパルタが少数の精鋭で、多くの敵相手に戦った歴史的時事については、本ブログですでに書評している)。

 紀元476年、西ローマ帝国がゲルマン民族の侵入によって滅亡し、東ローマ帝国は領土を縮小、首都コンスタンティノーブルだけを領有する小国家となりながらも、1453年オスマン・トルコに滅ぼされるまで、ほぼ1千年という驚異的な時間を生きた。これ以後、都はイスタンブールと名を変えて今日に至っている。

 16世紀半ば、アルキメデスによる著作の全貌が明らかにされ、さらに数十年の時間をかけて著作内容に啓発されて面積、体積、重心の決定に関する理論と技法は飛躍的な進歩をとげた。それは、17世紀前半の「無限小幾何学」を経て、17世紀後半のニュートン、ライプニッツによる「微積分」の発明を準備することになる。

 競売に付された写本については、擦り消された部分をかつては紫外線ランプの下でかすかな文字の痕跡を探すという、気の遠くなるような作業が強いられたが、アルキメデスが使ったインキと上書きに使われたインキの違いから、コンピューターを使って一部を除き、かなり鮮明な、読みやすい画像が得られた。

 ところで、アレクサンドロス大王の家庭教師を務めたのは哲学者アリストテレス(紀元前384-322)で、アルキメデスより1世紀ほど先輩にあたるが、そのアリストテレスに論証数学を教えたのが、アルキメデスが考案した「帰謬法」のアイデアの元を提供したエウドクソス(プラトンの弟子)だったといわれる。

 ちなみに、ギリシャの数学者として名高いタレス、ピタゴラスは紀元前6世紀、プラトン、プロクロスは前5世紀、エウデモスは前4世紀の人である。

 帰謬法とは背理法を意味し、数学的な証明の代わりに、「もし、そうでないとした場合には」との仮定を設け、矛盾を導くという証明手法であるが、正しい結論が判明していて初めて使うことのできる手法。

 放物線の切片の面積が、内接三角形の面積の3分の4倍であることを証明したのもアルキメデスで、これを「放物線の求積」と呼んでいる。また、放物線の切片を近似する多数の三角形の和を等比級数の和を利用して求めた手法は現代の「区分求積法」に共通する要素がある。

 球体を表面を底面とし、半径を高さとする円錐の集まりと考える幾何学的直観からスタートし、内接立体の表面積と体積を求める天才的な工夫で目的を達しているが、この手法が遠い将来の「幾何学の代数化」に向かう重要な第一歩であることを彼自身はおそらく全く意識していなかったであろう。

 この後、アルキメデスは「回転放物体」、「回転楕円体」などについて、別のアプローチ(図形を離れ、量的性質だけに注目する方法)を発明したことで、近代の積分法に向かって決定的な一歩を刻んだ。

 アルキメデスの証明は幾何学であって、平方数の和、正方形の面積の和、円柱の体積の和をベースとしたものであり、あくまで具体的な図形が彼の頭を占めていたことからも、これらの証明に相当の苦労が伴ったことが想像される。現代ならば、代数学によって解釈できることであり、図形の大きさの間に一定の比例関係があることを利用して、問題を解決してしまうところだが、アルキメデスの幾何学に「比例」という概念はなかった。

 以上が20世紀初頭までに知られていたアルキメデスの姿であり、業績であったが、競売に付された写本から、さらに進んだ「求積法」が考案されていたことが判明。写本からは新たに「爪形」「交差円柱」が提示され、ともに放物線の求積という既知の結果に帰着することがを示されている。つまり、アルキメデスは探求の対象を選ぶにあたり、形状ではなく量的性質に着目していた。これは、図形から出発して、図形の探求の一環としての量的性質をも論ずるという、ギリシャ幾何学の探求方向を180度転換するものだった。図形から離れ、量的関係という、抽象度の高いものへ移行していく、最初の一歩をここに見ることができる。とはいえ、それらの事実が知られたのは、2001年になってからだった。

 欧州において、数学では、ユークリッドの「原論」については、3桁もの写本が存在したのに比べ、アルキメデスの著作は西欧社会に知られるのは恐ろしく遅かった。ために、1562年に生まれたルカ・ヴァレリオ(イタリア人)が「立体重心論」という著作で回転放物体だけでなく回転楕円体や回転双曲体の切片の重心を決定した時点で、初めて、客観的には、アルキメデスを越えたといっていい。両者の命題と証明手法の類似性は明らかで、アルキメデスの「方法」を知らなかったヴァレリオの優れた才能とともに、2000年近く時代を先んじたアルキメデスの天才を示すものともいえるが、図形をベースとする手法はギリシャの幾何学的手法で、地中海周辺の数学者は自分の頭から図形を消してしまう発想が生まれなかった。

 イギリスのウォリス(1616-1703)は「無限算術」のなかで数字だけを使って放物線の求積をやってみせたが、ギリシャ数学の証明基準からは論外とはいえ、有効性と効率性は明らかに図形による証明を超えていた。

 微積分学は1660年代にイギリスのニュートン(1642-1727)によって、さらにはその10年後にライプニッツ(1646-1716)によって独立に発明された。

 「数学は無限のものを考察の対象とするのではなく、有限な論証で実質的に無限を扱う有効なテクニックを発展させるものだ」という著者の言葉が印象的だが、と同時に、本書を読みながら、つい先日(2007年5月29日)、本ブログで紹介した養老孟司氏の「唯脳論」が想起され、紀元前の人間の頭脳と現代の人間の頭脳とに大した差のない事実をあらためて思い知った。

 また、欧州人がいかに恵まれていたかは、哲学はギリシャのソクラテス、プラトンに始まり、数学はタゴラス、アリストテレス、アルキメデス、ユークリッドに始まり、後にイギリスのウォリス、ライプニッツなどにつながり、哲学はカント、デカルト、ニーチェ、サルトルなどに引き継がれていったことは、ギリシャあってこそのことであり、白人科学者が単純に日本科学を凌ぐという図式ではなく、結局は優れた先達のいたこと、それをベースに出発できたことにある。日本が島国で置かれた状況に比べ、同じ大陸にギリシャという先達に恵まれた彼らがはるかに有利な立場にいたことが判る。


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