江戸時代のロビンソン/岩尾龍太郎著

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江戸時代のロビンソン

「江戸時代のロビンソン」七つの漂流譚
岩尾龍太郎(1952年生/西南学院大学国際文化部教授)著
帯広告:奇跡の生還を果たした船乗りたちの物語
2006年11月弦書房より単行本
2009年10月1日 新潮社より文庫化初版  ¥476+税

 本書の「あとがき」にあるが、作者の目的は「海洋文学」への素材を提供することにあるらしく、古い文献や資料を主だった漂流記録からピックアップして、解説しながら、原文をも本書に採り入れることにより漂流の実態に迫真の生々しさを彩りにしようとの意図が感じられる。

 作品の解説のなかに、「1747年の1年間に5,593隻の廻船が浦賀港に入港し、入港税を払ったという記録が残されていた事実」から、日本列島周辺海域を各地域の物産を積載して多くの船が行き来した背景が想像される。

 当時、漂流という事件が多かったのは、幕府が島原の乱以降、海外、とくに耶蘇(キリシタン)との接触に神経を尖らせたため、船のサイズを小型化させ、したがっては有視界航行しかできなかったために、ひとたび嵐や台風に遭遇すると、そのほとんどが大海に漂流する、あるいは沈没する運命にあったと思われる。ために、作者が言うように、「この国には大型の造船技術は停滞の憂き目に陥る」。

 そうした退嬰的な布告が出る前には、「500石船が197隻あり、東シナ海を往復したし」、「山田長政が長距離運航技術をもっていたからこそ、シャム(現タイ)にまで航海できたことが判るし」、「1610年には家康自身が三浦安針に作らせた船はメキシコまでたどり着いているし、1613年に伊達政宗が遣欧使を送った船は太平洋を往復している」。

 したがって、漂流事件は、1700年頃から多発する。

 「日本列島の絶海の孤島でサバイバルし、僅かな例にせよ生還できたのは、漂着地が隔絶した遠島ではなく、八丈島と小笠原諸島の中間にある活火山の八丈島鳥島に集中していたから」という。「アメリカの捕鯨船に救助されたジョン・万次郎は1841年にこの鳥島に漂着し、アメリカに同行、英語を学ぶことにより、タイミングにも恵まれ、帰国後は幕府の側の通訳を務めた経緯があるが、幕府の扱いとしては稀な例」。

 ちなみに、万次郎が帰国を果たしたのは琉球の沖縄本島の南部の海岸だった。

 鳥島に漂着した日本船は三度重なったことさえあり、この島に渡り鳥であるアホウドリが多棲していたため、これを撲殺して食料にしたことが記録に残っているが、野菜を取らずに病気(脚気や壊血病)に冒された水主(かこ)も少なくなかったという。

 本書には、漂流記としては名高い、大黒屋光太夫ら17人が1782年に遭難して、アリューシャン列島の一島、アムチトカ(現在はアメリカ領だが、この当時はロシア人が駐在していた)に至り、ロシア人の支援を受け、しまいにはサンクトペテルブルグにまで行き、当時のロシア女帝、エカテリーナに面会、帰国のための便を図ってもらい、帰国に至った例にも言及しているが、本件に関しては、色々な作家がそれぞれ魅力的な書に仕上げている。ただ、「帰国時には光太夫をはじめ二人しか生還できず、顛末としては、幕府の小心さから、光太夫は江戸の小石川庭園で植物のケアを仕事とするよう強制され、故郷に帰還することはできなかった」。

 このように、「ごく稀にではあるが、奇跡的に生還できた例があるにも拘わらず、お上(かみ)が海外との接触の様子を本人が他者に語ることを快しとせず、司直が聞き取り調査をしても、その内容を公表することをはばかったため、漂流というリスクを回避する手段や、あるいは漂流してしまった場合に心がけることなどに関し、廻船による運搬事業に携わる人間に情報として届くことがなく、業者も水主も恒常的に危険と同居せざるを得なかった」。

 フィリピンのルソン島の北部、バタンに漂着したケースがあるが、このケースより、1764年にボルネオまで流されて漂着した水主(かこ)がたった一人生き残り、華僑の僕(しもべ)として仕えながら、主人の温情によりオランダ船に乗せられ、1771年に長崎に帰還する話のほうが胸にずしんとくる。現地人には親族が死ぬと、首を切断し、そこに他人の首を据えるという風習があって、そのために普段から数人の首(燻製にして腐敗を防いでおく)を用意しておく習慣はそれを目にした日本人水主(かこ)には驚愕の景色であったろう。テナガザルの群れに単独で山に入った人間が襲われるなども初耳だった。

 作者が江戸期の漂流記としては最高傑作と褒める「船長(ふなおさ)日記」は、1813年から1815年にかけ、トータル484日間にわたり太平洋を漂ったケースはおそらく世界最長の漂流記録ではないかという。

 14人で尾張からいったん江戸に荷を運び、帰途、下田子浦沖で嵐に遭い、そのまま太平洋をさまようという稀有の経験をする。半年後から死者が続出、結果、4人となり、1815年イギリスの商船にカリフォルニア沖で発見され、救出。いったんサンタバーバーラ付近に上陸して養生をさせられ、次いで北米西海岸を北上してロシアのシトカ港に入る。イギリスの船長が最後までつきあってくれ、ロシア船に乗って、エトロフ島に至り、あとは日本の司直の手に任された。

 本書に紹介されている漂流記はいずれも心を揺さぶられる内容で充実しているが、作者の目的である「海洋文学への素材提供」という意図は実を結ばない可能性が高いだろう。

 「ノーチラス号の世界一周」や「カリプソ号の冒険」や「イタリアのダイバーが出演したグランビュー」や、日本の作家、白石氏が書いた「中国の鄭和の大航海」なども、ロビンクルソーやガリヴァー旅行記ほどの知名度はない。一つには、西洋人は日本人に比較し、はるかにアドヴェンチャー志向が強いこと、さらに、日本という国は古来漁業が盛んな国であるがゆえに、漁業法、漁業調整規則が自治体ごとにがんじがらめに張りめぐらされ、船を係留するだけで膨大なコストがかかり、マリンスポーツがスムーズに発展する条件が欠落しているのが現状。

 このせせこましい日本社会で、大海を背景とする魅力的な海洋文学が育つとは、残念ながら、私にはとても思えない。むろん、そうでないことを祈ってはいるが。

 文中に「日本人は中国に対し、中華という尊称をやめ、『China』の音訳から「支那」という蔑称を与えた」とあるが、これには異論がある。紀元前3世紀に秦の始皇帝が初めてこの国を統一、支配したとき、Chinaという言葉が世界に伝播し、「秦」という字が「シン」とも「シナ」とも「チナ」とも伝わり、日本に長く「シナ」として記憶されたというのが史実に近いと私は思っている。


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