ロンメル戦記/山崎雅弘著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ロンメル戦記

「ロンメル戦記」 山崎雅弘(1967年生)著
副題:第一次大戦~ノルマンディーまで
帯広告:名将ロンメル、栄光と苦悩の全戦記
2009年11月24日 学研より文庫化初版 ¥933+税

 ロンメルはドイツ生まれ、第一次大戦から第二次大戦と、二つの大戦を経験した名将、本書はその人となり、戦術、ヒトラーとの関係、他将軍らとの角逐など戦記を中心に詳細にわたって記述した内容。

 ロンメルは「幽霊師団」とも「砂漠のキツネ」とも言われ、敵国兵士に畏怖された将軍として、今にその名を残している。

 ロンメルは1891年生まれ、第一次大戦時は歩兵連隊とともにフランスに向け、ベルギーとの国境沿いに進撃、勝利し、1915年、中尉に昇進、ルーマニアに移動、そこでも三倍近いルーマニア軍の兵士を捕虜にした。

 1917年には山岳地帯を専門とする軍事行動を学び、敵国イタリアの兵9千人を捕虜とし、80門の火砲、兵器、装備、補給物資を大量に捕獲。1919年には参謀として評価され、司令部に配属されたが、間もなく敗戦が決定的となる。

 その後も軍隊生活は継続、ヒトラーがナチ活動を推進し、数年後にはヴェルサイユ条約を一方的に破棄、再軍備を宣言、軍事産業に注力。この間、ロンメルは士官学校の上級教官になり仕官の養成に力を尽くす。

 ロンメルはヒトラーに気に入られ、1937年には大佐に、1839年には少将に昇進。

 ヒトラーはソ連と軍事同盟を結び、ポーランドに侵攻開始。ソ連は東からポーランドを蹂躙。こうして第二次世界大戦が始まった。

 第二次大戦の大きな特徴は戦車と急降下爆撃だったが、1940年、ロンメルは装甲師団長に任命され、電撃戦を身上とする新しい戦争方式を考える。同年、フランスの国家レベルでの抵抗は消滅、6週間にわたる攻撃で、捕虜97、648人、兵器、装備のほか、戦車と装甲戦闘車両458台、乗用車2000台、火砲222門を捕獲、1941年には中将に昇格。

 第二次大戦ではイタリアがドイツと同盟したが、イタリア軍はエジプトを中心とする北アフリカにおいて、イギリス軍により壊滅的な打撃を受けたため、ドイツに救いの手を求め、1941年にはロンメルが指名され、アフリカ戦線へ。

 イギリス軍にはオーストラリア兵が味方として参戦しており、アフリカと似た乾燥地帯で訓練を重ねてきたため、欧州勢より一日の長があった。ロンメルは初めこそ苦戦し、部下からも本国からも指揮官としての資質に疑問が投げかけられたが、持ち前の「奇襲、スピード、大胆な迂回軌道作戦」をもって、敵軍を駆逐、これが評価され、同じ年に装甲兵大将に昇進し、さらに1942年には元帥に昇格した。ロンメルのように短期間に元帥にまで昇進した例はほかにない。

 その後、エジプトへの侵攻作戦は補給が不十分で、失敗に終わり、ロンメルは体調不良から本国に戻るものの、再びアフリカに赴任、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーの命令にそむき部隊をチュニジアへと退却させ、不興をかった。精神的ストレスのため病人と化したロンメルは本国へと戻った。

 1943年、ヒトラーはロンメルを大西洋防壁強化査察官に任命、米英連合軍の大陸反抗作戦に備えるよう命令する。ロンメルはフランスのカレー港への上陸が最も可能性が高いと判断はしたが、ノルマンディへの上陸もあり得ると考え、最善の備えをもって迎撃できると報告。

 英米軍のノルマンディーへの上陸作戦が実行に移されたときも、おとり作戦ではないかと疑ったが、結局、連合軍のノルマンディー作戦が功を奏し、ドイツは大きな打撃を受ける。その頃、ベルリンでヒトラー暗殺計画があり、ヒトラーはこれを免れはしたが、ロンメルが暗殺計画に加わっていたとされ、自殺を強要された。

 軍事行動に生涯を賭けたロンメル将軍は、52歳で死去したが、ドイツの軍事史には今なおその名を燦然と輝かせている。

 本書はロンメルの軍事行動や人生そのものについて、期待以上に詳細をきわめ、その人柄が豪放磊落というより、かなり繊細な神経と知性を持ち合わせていたことが理解できる。

 世の中には、歴史的にも色々な分野で天才が存在したし、存在するが、戦(いくさ)に関する天才が数のうえでは最も少ないという話を聞いたことがある。

 ロンメルは源義経が採った奇襲作戦や、パールハーバー奇襲のような戦略にだけ注力するような戦略ではなく、全体を俯瞰しながら戦を進めるタイプでありつつ奇襲にも秀でた能力をもつという稀な軍事上の天才であった。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ