武士の一言/火坂雅志著

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「武士の一言」 火坂雅志(1956年生)著
副題:逆境を打ち破った男たちの名言
帯広告:悩める平成のサムライたちへ
2010年4月30日 朝日新聞出版より単行本初版 ¥1200+税

 本書は著者独自の見方にベースし、過去に生きた武士たちの言葉、織田信長、真田幸村、坂本竜馬など50の名言で構成されているが、たとえば、本書裏表紙に「大石内蔵助という男の懐の深さは、そうした世の不条理に悲憤する一方で、不条理を甘んじて受け容れ、現実的に浅野家を再興する道を模索していることだ」とあるが、私の見方はほとんど百八十度異なり、「部下である武士をはじめ、武士たちに繋がる家族を含めたら相当の数に及ぶ藩のトップである浅野が腹立ち紛れに殿中でご法度の刀を抜いてしまい、あげく、一度抜いた刀で相手を斬ることもできず、取り押さえられたという醜態、トップとしての責任感こそがこの件の話題にすべきすべてであり、大石内蔵助以下のその後の運動、四十七士の討ち入りと切腹などというストーリーは歌舞伎が残した物語であって、この一件から私には学ぶことはもちろん、関心すら惹かれるものがない。

 だいたい、50人の武士が残した名言と著者が称している言葉にしろ、いたるところで文字になったり、伝えられたりしており、何度も耳目に触れており、いまさらそういう言葉を学ぶことによって逆境を打ち破る効果があるのかどうか、はなはだ疑問というほかはない。

 本書を通読した結果、私の心に残ったのは、言葉よりも、著者が決めつけた武将の性格への反発をはじめ、名言以外の部分から学んだ点である。

 以下にそれを記す。(   )内は私の個人的意見 or 感想:

*秀吉の朝鮮出兵時、伊達政宗が「臥龍梅」という梅を持ち帰り、それを城の周辺に植えたのが、明治期には地を這うように見事な枝を伸ばしていたが、維新後そこに監獄が建設され、陸奥宗光はその監獄に数年入所させられた。

 同じく、加藤清正は当時朝鮮半島では名前を聞けば泣く子も黙るといわれたほど有名を馳せたらしいが、清正も半島から香味野菜のセロリをはじめて日本に伝えた。その後、残念ながら、江戸幕府よりお家取り潰しとはなったが。

*太平洋戦争時の連合艦隊司令長官だった山本五十六は長岡の出身で、19世紀に薩長に逆らい最後まで戦って果てた同じ中岡藩の河井継之助を尊敬していた。

*藤堂高虎は「理詰めでものを言って相手を追い詰めるな。悪口や告げ口が耳に入っても、それをみずから口にすることは控えよ。それが大人というもの」 (高虎のこの言葉だけは心の琴線に触れた。なぜなら、日本人は未だに紙さながらにぺらぺらとおしゃべりで、口が軽いことでは世界でも有数の民族だから.。米軍から流された機密情報を外部に漏らす自衛隊員がいるほど、この国はその意味でひどい)。

*西郷が庶民から好かれるようになったきっかけは二度にわたる琉球王国への流罪にある。一度目は奄美大島での3年、二度目は沖永良部(おきのえらぶ)島における待遇の劣悪な1年6か月。琉球人の心の優しさに感ずること、学ぶこと、教えられることなど多かった。

 (にも拘わらず、薩摩人の沖縄の人間に対する過酷さは終戦まで継続しているし、日本人一般のウチナンチュに対する蔑視は戦後かなり長く続いていて、在日韓国人が名前を日本名にした人が少なくなかったように、ウチナンチュのなかにも戦後は姓を変えて本土で就職にありついた人が少なくない。日本人の心の狭さを現して余りある)。

*北条早雲は近江商人の出身だが、小田原城に商人を集め、商いを盛んにさせることで北条五代に栄えをもたらした。

*島津斉彬の言行録には、「人材は必ず一癖ある者のなかに選ぶべし」との言葉があり、造船、大砲の製造、経済、写真、製薬などにも手を広げ、当時の日本の最先端技術を手中にしていた。西郷隆盛の登用も斉彬の意図であった。

 (琉球王国への侵攻から琉球王朝にたいする過酷な徴税により、黒砂糖、牛皮、大島紬、中国から琉球に運ばれた薬草、泡盛などが入手でき、それらが造船にも銃を買うことにも、どのくらい役立ったか、想像を超えるものがある。尤も、一癖ある人間を雇用する度量が官僚にあったら、日本はもっと発展していたであろう)。

*安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が信長に会い、その傲岸さ、比叡山延暦寺の僧兵のみな殺し、伊勢長嶋一向一揆に参加した2万人を虐殺した経緯などから、信長の寿命は短命で終わること、人心が彼に従ってこないだろうことを予測したという。

 (安国寺という男は典型的な日本人であって、信長は宣教師のフランシスコ・ザビエルから見せられた地球儀を見て、「この地が円形であることこそ理に叶っている」と即座に納得できたほどの合理性、感性ともに豊かな人間である。安国寺に信長の全貌が見えていたとは思えない。まず、信長は既成概念に捉われなかった、だからこそ延暦寺に武装して閉じこもる僧兵どもを3,000人焼き殺しても屁とも思わなかったし、そのように扱われても文句の言える資質の僧侶ではなかった。規制概念に捉われなかったからこそ、上杉謙信も武田信玄もできなかった「武士の専門集団」を形成でき、農繁期でも、冬でも、軍を派遣できた。

 また、西欧人が見せてくれた日本文化よりはるかに進んだサイエンス、サイエンティフィックな品物に彼ほど関心を示した人物はいない。当時の平均的な日本人の資質をはるかに凌駕していたと見るのが妥当。城下に楽市楽座を開かせたり、関所を撤廃させたのも商業の活性化を意図したもので、当時の他の武将の智恵にはなかった。

 ただ、西欧の優れたものが理解でき、それらを入手し、日本の生活のなかに取り入れようとするタイプの人間は当時の日本人には受け容れがたいものがあったであろうし、たとえ明智光秀に殺されていなくとも、他の誰かに暗殺される運命だったようには思うが、もう少し長生きさせることができたら、何かが違っていたのではないかとは思う。私は日本が生んだ稀有の、そして最高の天才だと思っている)。

*(黒田官兵衛を使いきれなかったのは、秀吉の小物ぶりを、盟主としての限界を現しているだけ)。

*(島津の「退口」といわれる、関が原での敵中突破の退却ほどすさまじい、武士(もののふ)の意地、度胸に勝るドラマティックな場面を想像することはできない)。

*元軍の日本侵攻は第一回目が1274年の文永の役で、敵兵2万8千、船舶900艘、第二回目が1281年の弘安の役で、兵士14万人、船舶4,400艘。

 (当時、日本の寺々では毎日祈祷に追われるばかりで、新たな軍団を九州北部に派遣したりもせず、その上、途中で蹂躙されるであろう壱岐対馬への連絡さえ怠ったと言われる。さらに、その折り、多くの船を造らされたのは朝鮮半島の人であり、日本に攻め寄せ、台風に遭遇して命を落とした兵の半分は朝鮮半島の人間ではなかったかと推量される。こういう歴史について、今の韓国の若者はどう考えているのだろうか。

 むろん、朝鮮半島は歴史上再三再四中国の皇帝や武将に蹂躙されているし、ロシア人の侵入にも甘んじた歴史がある。日本が西欧列強の真似をして植民地とすべく土足で入っていったのは事実ながら、歴史を顧みれば、土足で入っていったのは日本人ばかりではなかったし、世界を植民地化した西欧列強のなかで植民地化した国に謝罪した国は皆無である。辛うじて、経済的な支援や移民の受け入れでお茶を濁したのが現状。日本だけが韓国や中国に平謝りする必要などはない)。


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