関が原 島津退き口/桐野作人著

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関ケ原 島津退き口

「関が原・島津退(の)き口(ぐち)」 桐野作人(1954年生/歴史研究者)著
副題:敵中突破300里
2010年6月1日 学研パブリッシングより初版 ¥790+税

 少しでも戦国時代に興味をもつ者なら、史上名高い、関が原における島津軍の「敵中突破」して帰郷する度胸と行動に憧憬とともに高い評価をもつ人は多いだろう。

 私も、具体的な詳細について全く無知なくせに、「たった1500人の軍勢で何万、何十万という敵兵が往来する戦地を避けもせず、死を覚悟しつつ消耗戦を繰り返し、わずかな数だけが生き残って薩摩に帰り着いた」と思い込んでいたし、史上稀な「負けを悟った撤退ぶり」に瞠目していた。

 戦国時代、九州は全体的にほとんど島津の所領となっていたという史実は初見だった。豊臣秀吉軍が九州に侵攻するにおよび、薩摩、日向の三郡に押し込められていたとも知らなかった。

 関が原以前に島津は東方(徳川方)とよしみを通じてもいたが、関が原まで足を運んだ義弘は西軍につき、石田三成の後方に待機する形(後備え)で布陣、総勢1,500人だったという。また、三成と行動を伴にした理由は、朝鮮出兵時、島津軍が明と朝鮮との連合軍を撃破、三成軍を援けたという経緯があったことに加え、秀吉軍が九州を攻め、島津を南に押し込めたとき、三成がなにかと世話をやいたことに恩義を感じていたかららしい。

 義弘は国許に兵を補充するよう、送ってくれるよう再三再四依頼したが、ことごとく無視され、1,500の軍勢では西軍の主力の一つにすらなり得ず、ために出る幕すらなかった。

 三成が少数の兵しか持たぬ義弘に出陣の請いに来た時点では、すでに小早川秀秋の裏切りが明白で、義弘や副将の豊久からすれば、秀秋を統御すらできなかった三成の力量不足を目のあたりにして、いまさら外様の自分たちが三成に従う義理はないとの判断に達した。

 義弘、このとき66歳、「もし我にせめて5千の兵あらば」とつぶやきつつ、死中に活を見出す敵前突破しか敗勢の決まった西軍陣地から逃避する方法はなく、武具と鉄砲とを交換して突入という島津式の軍法に従ったものの、撤退交戦のなかで従者はバラバラ、部下は次から次へと命を落としていく。

 副将格の豊久の家老、長寿院盛淳は合戦中「我こそ義弘なり」と名乗り、大勢の槍をわが身に呼び込み、討ち死にした。

 義弘は生き残った従者を集め、初め大垣城を目指したが、火の手があがるのを見て断念、伊勢街道をめざす。途中、撤退中の長宗我部軍と遭遇、両軍に敵対の意思のないことを確認すると、義弘主従が先に行くこととなり、現岐阜県海津市の駒野坂に合戦当日の15日の午後7時に到着。

 この後、なぜか義弘は進路変更し、養老山地を横切る駒野峠越えを選んだ。東軍の高須、長島などの居城が駒野の先に存在したため、これを避けた可能性がある。主従が駒野峠に達したのは夜の10時頃だったが、このとき義弘に従う兵は、50人前後であった。

 16日、義弘は駒野越えから伊勢路をとり、17日、鈴鹿峠を越えて、いったん土山まで達した。

 18日、伊賀国に入り、城下を抜けて近江国、甲賀郡に入り、信楽を通過、摂津住吉にたどり着く。

 退き口の敵は東軍の追っ手のみならず、飢え、渇きのほか、村々の百姓たちの落ち武者狩りが容赦なく襲いかかることだった。百姓たちにとっても、落ち武者は飢えているため、落ちていく途中、なにをするかわからないという恐怖があり、必然的に一村総ぐるみで敵対した。

 15日にも、従者の一人が50人分の食料調達を村人に頼んだところ、これがバレて、村人が大挙して一行に襲いかかり、これによって従者10人が打ち殺された。 17日にも、鈴鹿峠から近江側の土山では、4,500人もの里人に行く手を遮られたが、7人を切って、逃げ延びた。

 信楽郷に入って、土地の人間といさかいが起こり、退き口は乱戦となり、主従はいったんバラバラになったが、摂津をめざして落ち延びたとの報に、従者も合流を急いだ。

 同じ薩摩の入邦完重時は伏見城では総奉行となって攻撃を指揮し、決戦当日は残兵30人余とともに戦場を離脱したが、23日、近江水口あたりで東軍に包囲され、主従33人、ことごとく玉砕。

 義弘主従は摂津住吉にたどりついた後、いったん明寺という空き寺に入り、20日には境の商人の家に潜伏、21日には大阪を目指したが、義弘の頭には大阪城に人質として預けた嫡男、忠恒の嫁、亀寿の存在があった。薩摩に逃避するにあたって、彼女をなにがあっても同伴帰郷するのが自分の義務だとの自覚があった。

 20日、うまく亀寿と合流でき、主従は船で瀬戸内を進み、九州の国東半島に至ると、東軍の黒田如水(世に名高い軍師、黒田官兵衛のこと)が待ちうけ、海戦となったが、和睦が成立、ようやく日向の国に着いたが、義弘は難を避け、ここから山を横切る形で西行し、日州街道を通って故国の土を踏んだ。

 関が原から離脱して19日、1,500人いた従者のうち、故国に帰り着いたのは3分の1の500人前後だった。

 総評として:

 「島津退き口」、とくに薩摩までの退避経路については諸説があり、この著者はそれらを一々採り上げては肯定、否定を繰り返し、ために退路にしたがっての説明に相当のページを割くこととなり、結果的にこの実話が本来もっている迫力を殺いでしまっている感が拭えない。


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