セックスボランティア/河合香織著

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セックスボランティア

セックスボランティア」 河合香織(1974年生)著
2004年6月新潮社より単行本
2006年11月1日 新潮社より文庫化初版
¥438+税

 本書を興味本位やエロ期待で読むと、大きなミスを犯す。タイトルからくるポルノ小説然といった軽いイメージとは異なり、障害者の性とその処理を真摯に、著者なりに真っ向からぶつかったノンフィクションであり、むしろ陰鬱で、重いという印象。

 数年前、雑誌で、知的障害の子をもつ母親が、子が大きくなり自慰行為をする姿を目撃して哀れに思い、自分が相手をする話や、そういう男の子のために精巧に女性人形を製作し、そういう子以外の人には絶対に販売しないという製作者の話を読んだことがあるが、障害をもつ男女の性を見極めようとする書としては類書はなく(あったにせよ僅か)、衝撃的である。

 介護を必要とする人や身障者として生まれた人にとって、食べることや排泄のことは口に出せるが、性的欲望については言いにくい。わが国では、障害者のセックスは長いあいだタブー視されてきたという実情があるが、作者は若干30歳時にこの問題に関心をもち、作者なりに真摯な、かつ真剣な思い入れのもとに取材を重ね、遠くオランダにまで足を運んで実態を調査し、この難しい問題に取り組んでいる。

 取材の過程で、「性とは人間として生まれてきた意味を確認する作業だ」という、障害をもつ女性の言葉に遭遇し、作者は感銘を受ける。

 この問題が難しいのは、第一に障害の程度によって求めるものに違いがあること、性的な満足を求める人もいれば、単に手を握る、体を寄せるなど温もりを求めるだけのケースもある。第二に、求める相手として女性が男性を求めるケースと、男性が男性を求め、自慰行為を手伝うだけのケースもあるし、障害者が下半身麻痺のケースではセックスそのものを求めず、一緒にいることだけを求めるケースもある。

 また、障害のありようによっては、セックスを望まれれば、体位のとりかたにも工夫を凝らさねばならない。さらに、知的障害者と身体障害者とでは、対応が色々に分かれる。すべての対象者に対し、単純なサービスを提供するだけではすまないという実態があり、サービス提供者の側としても、相手の条件を配慮しつつサービスの内容を考える姿勢が求められる。

 また、身障者を抱えた家庭として、両親や家族はどう反応するか、障害者には生活するうえでの国あるいは自治体からの支援金は僅かながらあるだろうが、場合によっては両親がなけなしの年金から支払いに応ずるケースもある。また、快く支援に協力する家庭もあれば、そうでない家庭もあるという実情。さらには、こうしたサービスが社会的にどう認知されているかは国によって異なり、万国に共通した取り決めも、一国における対応索もないという厳しい状況も存在する。

 重度の障害をもつ老人が一年に一回のソープランド行きを楽しみにし、70歳を越えたときですら、「最後に会いたい人はだれですか」との問いに「ソープランドの女の子」と即答する場面などは、障害者ゆえの過剰な性への憧憬が感じられて、胸に響く。また、同じ老人は自分の手も自由に使えない状態なため、男性介護者と一緒にアダルトビデオを見ながら、同性の介護者に自分のペニスを握ってもらってマスターベーションを手伝ってもらい、さいごに精液がほとばしる場面も、老人の性欲が決して右肩下がりになっていないことを暗示して、驚愕させられる。

 また、女性障害者のところには週に1、2回ボランティアの男性がやって来て、裸にしてもらい(むろん男性も裸になり)、まず風呂を一緒し、体を洗ってもらい、拭いてもらったあと「お姫様抱っこ」をしてもらってベッドインし、セックスをする。それを唯一の楽しみに生きている女性の様子にも胸を打たれる。必要経費は親が納得して支払っているという現実は、個人的な環境では知りえない場面で、違和感をもちながらも、それが悪いとは口が裂けても言えないという印象。

 さらには、下半身には感覚がまったく残っていない障害者ですら、異性との肌の接触による、ぬくもりを求める気持ちは健常者と変わるところはないという話も納得できる。

 知らなかったが、オランダという国は「同性愛」も「安楽死」も「売春」も法的に許されているが、そのほかに「SAR」という組織があり、セックスボランティアという仕組みが自治体の援助を受けて組織化されているという。また、同国では、刑務所でも受刑者にパートナーがいれば、呼んでセックスするための個室が利用できるようになっているし、売春婦を呼ぶことも可能という実態には固定観念を脱した柔軟な対応に脱帽のほかはない。尤も、そのようなサービスが行なわれる国はオランダだけではないが。

 日本では、始まったばかりのこうしたサービスには苦労も苦難も伴うし、それを金銭的な支払いでサービスの対価を決定するという、ある面で、反社会的と批判されそうな手段を用いる場合すらある。社会としてこうした実態にどのように対応していくのかという問題がすっきりしないまま、今日に至っているという状況を知りながら、作家はあえてほとんどの人が顔をそむける分野にあえて足を踏み込んだ。その意欲にも姿勢にも頭が下がる。

 「私たちは石ではない。どんな重い障害者にも性的欲求はある」との言葉も、知的障害をもっていることで軽くみられたり扱われたり、性的ないたずらをされたりというケースがしばしば起こるという話も理解できる。

 「性器は両脚のあいだにあるが、セクシュアリティ(Sexuality)は両耳のあいだ、つまり大脳にある」との米国の性教育学者の言葉にも感銘を受けた。

 私の想像だが、作者は自分が取材した百パーセントを本書に露出していないのではないか。取材の過程で遭遇した実態のなかには彼女の想像を超える、言葉にできない卑猥さや、目を覆いたくなるような場面もあったのではないか。また、彼女自身が少女(10歳時)時代、若い男に道を聞かれ、納屋に連れこまれ、露出した陰茎を見せられ、頬にキスされたという、これまで親にすら伝えたことのない経験を本書に暴露しているが、それだけだったのかどうかという疑問も消しがたい。また、それだけだったとしても、長期にわたって、トラウマになったであろう。

 読者として私が驚嘆したのは、作者と取材対象者との間合いが適切であり、常に安定していることで、過剰な憐憫や過度な憶測を抑制し、1冊のノンフィクションとして成功しているように思う。

 32歳の若い女性が、このような深刻な問題に取り組んだ姿勢には「すごい人だな」という印象がある。文章が堅固で、乱れがない点にも、知性の高さが伺える。なによりも、作者の人間性に惚れ惚れするものを感じた。こういう人とは一度テーブルをはさんでコーヒーを一緒しながら、話をしてみたいという欲求を感じた。と同時に、本書が処女作だと知ればなおさら、今後のノンフィクションが愉しみになる。

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