塩狩峠/三浦綾子著

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しおかりとうげ

「塩狩峠」 三浦綾子(1922-1999)著
1968年新潮より単行本
1976年新潮より文庫化初版

 明治の末年、一人の青年が自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救ったというニュースが本書を書く動機となったらしいが、キリスト教徒であろうがあるまいが、そうした犠牲的精神を発揮する人間は存在する。

 著者は13年間、肺結核と脊髄カリエスに冒され寝たきりの生活をし、その間にキリスト教に帰依、受洗したとあるが、私には「困ったときの神頼み」のように思えた。

 本書は一貫してキリスト教がいかに素晴らしい信仰かを訴えているが、それにしては、時代が違いはすれ、たとえば、遠藤周作の著作「侍」(2007年2月書評)に比べ、パンチもインパクトにも欠けていて、青少年らの長たらしい会話までが精神訓話のように聞こえ、うんざり感が拭えない。唯一、心に残った話は、「目に見える不具者を笑うことはやさしいが、人間の心のなかにある不具的な心理にはなかなか気づかない」といったところか。といっても、人間という動物はほとんど例外なく精神的には不具である。

 また、聖書にある有名な言葉をあちこちに適当に配置する手法も、ありきたりというしかなく、キリスト教を知らぬ人間をその信仰への道に誘うという目的があったとしたら、内容的には薄弱で、人はついてこないだろう。

 「死んだ人間のことは、生きている人間の心にいつまでも生きている」などという言葉は耳にタコができるほど聞く言葉だが、1世紀も経たないうちに、だれも覚えていず、場合によっては無縁墓となり、寺の坊主にひと儲けさせるだけのことになる。

 人間が生まれ変わる(人間だけが生まれ変わるという思いあがりがある)とすれば、ついこのまえまで地球に40億人だった人口が今や80億人にまで膨れ上がっている事実はどう説明するのか。昆虫が人間になるとでもいうのか。

 「色情の心をもって乙女を見る者はすでに心のうちに姦淫したるなり」はまるで聖人君子に対して言うべき言葉であって、現代なら「目線で女を犯す」という言葉まであり、心に何を思うかは各人の自由であり、言動に移すかどうかが社会的ルールというものだ。また、心に煩悩をベースとしたあれこれを考え、思い悩むのこそが人間という業深き生きものである。心に思うことを裁きの対象にするとしたら、なぜ創造主たる神がそういうよこしまな人間をこの世に誕生させたのか、真意がつかめない。人間とは神を観客とする舞台のピエロなのか?

 「汝らの仇(敵?)を愛し、汝らを責める者のために祈れ」と聖書にある。キリスト教徒がこれを本気で信じていたら、なぜ、アフリカ、中近東、アジア、中南米、豪州、北米大陸であれだけの殺戮と残虐を行ったのか、説明して欲しい。キリスト教では異教徒は人間として扱わないというでもいうのか?そして、長い歴史のなかで科学の発展をあれだけ阻害し、妨害した、キリスト教会修道士の言動を説明して欲しい。

 だれもが醜いところ、卑怯なところをもっている。それが人間であることは常識以前の知識。

 主人公がキリスト教徒に変身していく過程が安直すぎる。

 むしろ、キリスト教徒である嫁を追い出した元士族の祖母の口にしたあれこれが、当時の日本を映していて、善悪は別に、読み手の心になごむ。

 たとえば:

 1。武士は食わねど高楊枝。思ったことをぐっと腹のなかにおしこんでこそ、ほんとうの腹のすわった男だ。

 2.心で泣いて、顔で笑うのが男。

 3.食事のあいだは寡黙を通せ。

 4.男は一度約束したら、それを破るな。

 5.武士に二言はない。一度口にしたことはどんなことがあっても守れ。

 6.男は紙一枚をもらっても、その恩義を忘れるな。

 いうまでもないが、弱者が神を信じ、神にすがる姿勢に善悪はない。誰もが信教の自由を保証されている。ただ、それを他人に押しつけるな。


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