雪国/川端康成著

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雪国 yukiguni

「雪国」  川端康成著  新潮文庫

 ノーベル賞までとった作家をいま書評するのは僭越かも知れないが、結局のところ、いつの時代にも私のような批評家がいて、時代を背景に、また時代を超えて、勝手なことをいっても許される仕組みが存在する。当然ながら、時代が変われば、批評も書評も変化は免れない。

 川端といえば、「雪国」はおろか、「山の音」「伊豆の踊り子」などに心を惹かれたが、なんといっても茫然自失したのは「十六歳の日記」に出遭ったときだった。これは間違いなく神童だと思った。

 「雪国」は時間の観念がかなりいいかげんで、時折りジャンプしてしまい、現代の読者についていけるのかなとふと不安を覚えた。また、男女の濡れ場の場面はほとんど暗示的なものでぼかしてしまい、想像力の貧困をいわれる現代人にわかるのかと心配になる。

 文章全体は日本古来の花鳥風月、和歌などが作者の脳裏にいすわっていることが想像されるが、同時に、生来の感受性と繊細さが窺われ、いずれの作品も成功したという印象がある。

 多くの外国語に翻訳されているが、この日本的な抒情がアメリカ人に理解できるのだろうかと頭をかしげたくなるのも事実。

 「憧憬や思慕はあるのに、陶酔を許さない」これこそ川端文学の一途な特色だというが、こういうものの考え方、心情がはたして外国人に伝わるのであろうか、いや外国語に誤りなく翻訳できるのであろうか。かねてから「アメリカに行ったら書店に足を運び、雪国のアメリカ版を買って読もう」と思っているのだが、アメリカの土を踏むたびに忘れてしまい、いまだに欲求は満たされぬまま。

 ただ、西欧人からみたら、かれらの日常生活や常識からはかなり逸脱、乖離していて、きわめて珍奇なものには映ったであろうし、そうした性癖が欧米人の「異質なものを評価する」「異質なものに目がいく」という結果を導き、ノーベル賞にたどりついたような気がしなくもない。

 とはいえ、忌憚のないところをいえば、主人公は金があって、無為徒食の若い男性であり、妻子を自分の街に置きっぱなしたまま、温泉宿に長逗留、女とねんごろになり、ついでにもう一人の女に懸想するなど、「芸術に携わる者の我が儘勝手」がそのまま許されていた時代だからこそ存在し得た作品のような気がしなくもない。

 明治、大正に特有の現象だが、なにか芸術家を伏し拝むような世相があって、かれらの自尊を許容した時代だったのではないか。ある意味で、そうしたなかには、現在なら犯罪とも、軽犯罪ともなりえたこともあったに違いない。

 とはいっても、この批判は本書を軽くみせるためのコメントではないから念のため。

 本書の解説者だったか誰だったか忘れたが、私の生涯の夢は「伊豆で踊り子に会うことです」といっていたが、同感。


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