男女(オスメス)の怪/養老孟司&阿川佐和子共著

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「男女(オスメス)の怪」 養老孟司/阿川佐和子共著
大和書房刊単行本 2006年6月初版 ¥1,400

 本書は阿川がインタビュアー役で、養老氏が話すという対談形式を採っているため、読みやすいといえば読みやすいが、「あとがき」で阿川が唸っているとおり、養老氏の話は理解するうえで難易に高低差があり、多面的かつ深遠、ときに跳躍も飛躍もするから、「ちょっと待ってくれ」といいたくなる論理が多発する。

 対談のなかで、みずから「どんなに能力があっても、言葉ができなかったら、能力を他者に伝えられず、社会から排除される」といいつつ、一方で「人間が言葉をもったことがそもそも不幸のはじまり、問題のはじまり」などと矛盾した発言をするから、聞き手が混乱する様子が手にとるように判って、そのあたりがひどく面白い。要するに、手が使えるようになり、言葉をもち、脳味噌が肥大化するにつれ、人間は思考を深める。その延長線上には、自然破壊があったり、兵機の改良による戦争の巨大化や、それに伴う悲惨が増すなど、必ずしも幸福とは繋がらないという意味なのであろう。

 解剖学の権威で、昆虫採集に夢中な69歳のおじさんは、頭がきれる。変人、奇人の仲間かも知れないが、頭脳の冴えは加齢を加えたいまでもシャープであり、話には一々説得力がある。あまり、お近づきになりたいとは思えないタイプだが、この人の書く本なら、どんな本でも読んでみたくなる、この対談もそういう魅力に充ちている。以前、本ブログで『バカの壁』と『死の壁』を紹介したことがあるが頭脳の切れ味に衰えはない。

以下は、本書を読んで記憶に残った言葉:(意訳したり、言葉を換えたりしている部分もあるが、それは私の責任)

1.オスはもともとオタクにできている。昆虫が好きなのは圧倒的に男の子に多く、だから、女から見たらくだらないものをコレクションをし、それらを見てるだけで至福の時間に浸る。この男の子のオタク的な喜悦は女の子には永遠に理解不能。
 (むろん、女性でも、いい大人がベッドをぬいぐるみで囲み、そのなかで安眠をむさぼる図も男には理解不能だが)。

2.男は現象、女は実体。現象は陽炎(かげろう)のように移ろいやすい。つまり、女は地べたに足をつけて生きるが、男はいつまでもロマンを追ってふわふわしている。永遠にガキっぽい。しかし、ロマンを追うからこそ、いろいろ頭を使って考え、夢みる。そして、悪い癖だが、それを実現しようとする。過去、自動車をつくったのも、飛行機をつくったのも、スペースシャトルをつくったのも、レンズをつくったのも、原子爆弾をつくったのも、オスたち。メスたちはオスのつくったものを愉しんだり嘆いたりするだけ。

3.「男女七歳にして席を同じうせず」は男の子の保護が目的で、正しい措置。幼児の時代、あらゆる面で、女の子は男の子を凌いでいるから、男の子は萎縮してしまう。姉妹に囲まれて育つ男の子はほとんど女を恐れ、その心理が大人になっても継続する。

4.都市化は自然との乖離を起こす。だから、都会に住む人間は、自然そのものである子供を産み、育てるのが、純血種(というより改良種)の犬のように、下手くそになる。

5.「男は男らしく、女は女らしく」という言葉が封建的だといって全否定したのは間違い。オスとメスは基本のところで違っている。それは永遠に理解し得ない相違。男は相手の立場や気持ちを忖度(そんたく)するから妥協することを知っているし、言いつのらない。男のもつ社会性が、幸か不幸か、自然に妥協点を探ろうとしてしまう。そこにいくと、おばさんたちは相手の立場や考えへの配慮など一切せず、闇雲に、目的に向かって、あきらめずに突っ走る。妥協していたら、物事は成立しない。男にありがちなことだが、頭でいくら考えていても、それは物事の推進力とはならない。
 (これも国民性によって多少の相違はある)。

6.男は社会的な動物だから、序列に関心が高い。新しい環境に入ると、だれがボスなのか確かめたくなる。
 (ことに日本の大企業、公務員の世界では上下関係が厳しく、出る杭は打たれるの喩えもある。人格対人格という姿勢が希薄で、上司が上司ヅラをして居丈高といった威張る風景がしばしば見られる)。

7.女の子宮は受精を待つ仕組みになっている。精子を着床させるための準備を月齢に従ってするが、ほとんどは無駄な準備に終わり、それが月経となる。つまり、月経とは受胎という目的が達成できなかったことの証であるが、凝りもせずにふたたび準備をはじめる。だから、無駄に流された血を、「子宮が流す血の涙」と呼ぶ。

8.人間の体は建て増しを何回も継続してきた建造物のようなもの。だから、初期の構造を取っ払ってしまうわけにはいかず、そこに問題があれば致命的なことになる。新しく積まれてできたものは付録みたいなもの。その意味では、脳も付録。だから、付録の示唆する智恵がときに邪魔になる。よけいな智恵が行動を制限もするが、犯罪も冒す。

9.人間の眼による色の識別は三原色だが、カラスの眼は四原色だから、カラスが世界をどんな色で見ているのか、人間にはわからない。鳥類は、例外もあるが、ほとんど四原色でものを見ている。ということは、「カラスの濡れ羽色」という人間の識別の正否は不分明というしかない。
 (目は昆虫により、鳥により、生物により、それぞれが特色をもっている。単眼もあれば複眼もある。だから、昆虫が何を見ているかといって、昆虫を大きくして写真をとり、目が向かっている方向の景色を写真のなかにおさめても意味がない)。

10.「万物流転」はギリシャ語に由来。日本人の「諸行無常」と同じ。

11.アメリカ人に「あんたはダーウィンの進化論を信じるか?」と問われ、「当然でしょ」と答えたら、「それじゃ、あんたは猿の子孫なんだ。わたしは人間だよ」といわれた。
 (養老さんの娘さんがアメリカに留学中の体験。アメリカでは進化論、自然淘汰を学校で教えない)。

12.西欧社会では宗教と科学とは対をなすもの。教会による独断、偏見、締め付けが強かったから、これに対抗し、あらゆる現象の原因を確かめようとする反動が抑えきれず、それが原動力となって、科学的志向が強くなった。日本みたいに、はじから「なぁなぁ」の社会では、コーカソイドのように科学に固執する理由がない。
 (この一項に接しただけで、本書に接した価値があった。さすがに物事の本質への洞察が鋭い)。

13.日本人は「思想がない」という思想をもっている。それが、300年近くの平和を築いた礎。思想というものは、ときに、殉教を呼び、皆殺しを喚起する。大塩平八郎の乱も、ニ・ニ六事件も、長島一向宗の一向一揆も、思想を行動に移した結果である。三島由紀夫が自決したとき、司馬遼太郎は「思想は思想として純粋であることに価値がある」と感想を述べているが、要するに思想は思想のままで、世間に干渉してはいけないということ。当時、自衛隊員で三島の自決に感動した隊員は皆無だった。

14.「和魂洋才」という言葉があるが、大和魂をしっかりもっていれば、外国のいいものをどんどん取り入れても、土台はゆるがない。日本人はきわめて現世的、現実的で、特異な民族。食えるものはなんでも食う。使えるものはなんでも使う。利用できるものはなんでも利用する。
 (まだ使用可能な粗大ゴミを棄てる習慣とは別問題?)。

15.猫は絶対音感。同じ言葉をかけても、声の高低が違えば、違う言葉だと理解する。

16.ルネサンスは「個」の復興、感覚世界の復活でもある。日本人は感性の世界に住んでいるから、俳句や和歌に感動する心根をもっている。
 (芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を英訳して、「A frog jumps in the old pond. The sound of the water」 といってみせたが、アメリカ人はぽかんとするだけだった。われわれは四季にも自然にも恵まれた国土で育ったからこそ、この句のもつ「静寂の瞬間的な小さな破壊と、静寂への回復」の趣が一瞬にして伝わる)。

 本書を読んでいて思い出したのは、お菓子のことだ。信憑性については責任をもてないが、一般的に、外国人は自国で生まれたお菓子しか美味とは思わず、外国から入ってくるお菓子を美味とは感じないという。唯一の例外が日本人で、欧州のものも、中国のものも、どこのものでも、どんどん取り入れ、食べ、みずからつくりもし、販売さえすると。
 (とはいえ、アメリカ人の家庭でつくるお菓子はめちゃめちゃに甘くて、とても食えたものじゃない。また、インドネシアで仕事をしていたころ、かれらが日本からの知己や同僚が持参してくる和菓子を美味だと評価してくれた記憶もない。ことに、餡の入った菓子はほとんどの外国人が嫌うし、海苔を巻いた煎餅などは海苔を剥がして食べる人さえいた)。


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