サバイバル登山家/服部文祥著

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「サバイバル登山家」  服部文祥著
みすず書房 単行本 2006年6月初版 ¥2,400

 究極のエコロジーと、破天荒なアドベンチャーを綴ったノンフィクション。

 「文明の発達が人間を甘やかし、自然との乖離を生み、利器に支えてもらわないと生きられない。現代の人間は地球のサイクルから知らぬまに離れ、自然への無知に陥り、おのれの小さな生命の源泉を忘れ、自然によって生かされている事実を放念してしまう」そういうことを著者はいいたいらしい。確かに、自然災害に逢うと、現代人はほとんど無力である。環境破壊も、そうした事実認識の欠落から始まっている。

(都内で、地震災害対策をことあるごとにやっているが、関東大震災や淡路阪神大震災に匹敵する地震が起こった場合、人間はほとんどパニックのなかで、右往左往するにとどまることは知れている。現代の人間に欠けている根本的な弱点は文明の利器に頼った生活に百パーセント依存している事実であり、地球という惑星の荒々しい実態への認識からはあまりに遠隔の視座にみずからを放り出していることだ)。

 著者はできるだけ文明の利器に依存せず、自然の懐のなかで食をつなぎ、長期の山行に堪えて、みずからの生命力を試す。

 1993年から2002年の間に実際に体験した登山歴は生半可な想像を絶するもので、高峰に達したというだけの満足感とは異次元の、文字どおり「破格なサバイバル登山」である。エコロジーコンシャスな最近の傾向とあわせ、熟年以上の人に登山をする人が増えていることも、本書を、フィクションがないだけに、あっというまに3版目までもってこさせた一因でもあろう。

 著者はK2にも登頂したことの経験をもつ、いわゆるK2サミッターではあるが、そのことは本書に詳述されていないし、そのことを自慢にも思っていない。つまり、文明の利器に頼っての高山への登頂を評価しない男だといっていい。

 表紙の写真は著者その人で、面構えがなんともいえない。生の岩魚の皮を歯で噛んで引き剥いている写真だ。我が強く、挑戦的な目つき、「どうだ?」といわんばかりの口元、生命力の強さ、烈しさはすでに現代人が失っているもののような気さえする。「自然の純粋な危険に身を晒す行為に情緒と感傷をくすぐる甘い香りが漂っている」などという優雅な言葉がこのツラをもつ頭から出てくること自体、不思議な気持ちになる。

 台風、豪雨、豪雪、強風などのとき、自然のただなかに存在することに死のリスクが伴うことは常識だ。むろん、予期せぬ天候の急変も同様のリスクを負わせる。四季を問わず、長期間の山行を敢行し、すでに自然の真っ只中に生身を曝している以上、悪天候だから見合わせるなどという、臨機応変の予定変更などは不可能な状態にある。だから、一層、次の言葉は印象的だ。

 「言葉をもたぬ生物らも生きるうえでの判断能力はある。人間にも、体全体で感じる、言葉に還元できない判断能力があり、それが『なんとなく』であり、なんとなく危険を感じたら、避けるし、そうするうち、五感が示唆する『なんとなく』の判断を大切にするようになる。野生の生物の感性、五感は人間より深く澄んでいるだろう」。人間の自然に対する判断能力も経験と真摯な姿勢が、歳月とともに、研ぎ澄まされ、死を遠ざけることに繋がるのであろうが、「必ず」という保証はない。

 常軌を逸しているのではないかと常人が感ずる以上に、当人ははるかに緻密な感性を駆使して、遭遇する苦難を一つひとつ乗り越えていくが、自然はときに気まぐれな状況を現出する。現実に、こうした山行は命賭けだが、命を賭けているという意識そのものは決して希薄ではないにせよ、当人は読者が思うほど強く感じてはいないように思われる。 とはいえ、一つひとつの登山紀行が苦難に満ちた迫力のある体験記となって、読者を興奮させ、さいごまで飽きさせない。帰宅を待つ家族の心情がどんなだろうという想像にまで飛躍してしまう。

 「なぜ、そのような危険な山行をするのか」との問いに、意訳だが「なんでも手に入る時代に生まれたことの苦痛というべきか、発奮して何かを得たいという目標設定の目処がつかないから」という。「貧しい時代に生まれた子は何もないからこそ、目標は子供によって様々だったろうが、何かを得たいという念願が生まれる。だから、何かをみずから工夫して創り、遊んだり、捕まえたり、日々の生活が興奮の坩堝だったのではないか」。終戦後の貧しかった時代を知っている人なら、この言葉はすぐ理解できる。

 言葉を換えれば、「何もかもが存在し、すぐ入手できることの苛々と不幸」をこの作者は告げている。 いまの子供らは焚き火ひとつ経験できない。 焚き火で焼いた芋がどれだけ美味か、かれらは知らない。 山菜の種類など知る必要すらない。長い野生の自然薯(じねんじょ)を傷つけずに土を掘り、取りきったときの誇らしい気分も知らない。肥後ナイフで竹を削ってつくった竹トンボが友達の竹トンボをはるかに凌いで高く長く飛ぶことに、どのくらい興奮し、歓喜したか、現代の子供らにはわかってもらえない。作者の言葉は、「豊穣への不満」というべきか、現代の若者のやりきれなさがどこからくるのかを暗示している。

 パキスタン高地での、生きた牛を人々の目の前で屠殺する場面は圧巻である。牛の顎を木の株の上に置き、急所である頭を石で叩いて殺すという原始的な屠殺方法。そして下腹部の皮にナイフを入れ、剥ぎ、血の海のなかを内臓を取り出していく過程、発展途上国ではごくあたりまえのやり方だが、日本人の目には残酷をきわめ、とても正視に堪えられないが、日本だってごく最近までは同じような屠殺方法を採っており、現在はそれが人目につかぬ場所で機械的になされているという違いがあるだけだ。牛、豚、鳥の肉をスーパーで買うまえに、それぞれの動物が屠殺されている事実を、われわれは想像すべきだし、真摯に受け止めるべきだ。生物が生きるということの残酷さを、甘くない事実を、子供たちに教えなくてはいけない。

 本書を読んでいて想起したのは、本ブログですでに紹介した「幻の漂白民・サンカ」、「カヌー犬・ガクの生涯」である。むろん、北極点を目指していて行方を絶った植村さんのことも想った。海や山という大自然に対しては、抗うのではなく同調する姿勢、変化への柔軟な対応こそが望まれる。

 本書に欠点があるとすれば、専門用語の多用であろう。 本書が登山家だけを読者に想定しているとは思えず、だとすれば、用語の簡潔な説明が必要だ。また、そうしたほうが書籍の販売数をさらに伸ばすだろう。

 たとえば、「岩にはりついたベルグラ」「エントラントの雨具」「雪の急斜面をダブルアックスで登る」「右からパンするように眺め」「スタンディングアックスでビレイする」「ゴルジェが発達した険谷」「インクノットで縛り」などなどだが、高校時代に登山クラブに所属し、13日間の山行(木曽駒ケ岳から白馬岳に登り、黒部に下りたあと、剣岳雪渓を登って立山連峰に立ち、浄土山を越え、五色原まで来たとき、同行者の一人が疲労困憊を訴え、やむなく新潟側に下山し、穂高までの縦走予定を変更した)の経験のある私ですらさっぱりわからない。

 単語でも「バイル」「ゴアテックス」「ペクトル」「ホワイトアウト」「バイルのシャフト」「ユマール」「ハーネス」「ナイフリッジ」などがあるが、最後のクライマックスの章で、こうした用語が解説もなく頻出するのは、読者にとっては辛いものがあるし、理解の妨げともなる。頻繁に出てくる「タープ」というのもテントや自立式ツエルトとどう違うのかよくわからない。せめて、その形や効用が読者の想像に訴えるように書いて欲しい。

 これは、作者というより、出版社の編集の責任であろう。

 だいたい、登山用語(医学用語もそうだが)は本来はドイツ語が多かった。ザイル、ビバーク、ピッケル、グリセード、ハーケン、ザック、カラビナ、ケルン、シュラフ、アイゼン、トラバースなどだが、現在は英語にとって代わられた言葉が増えている。

 編集者の責任といえば、「和田のような人間(そのものになるのは強く遠慮します)」は、たとえば(そのものになるのは強く遠慮するけれども)に直さないと、この部分だけが唐突に口語体になってしまい、文体に一貫性が欠け、読者はずっこけてしまう。

 作者が今後とも、厳しい山行を無難に、かつ無事に、こなし、本書以上のノンフィクションを届けてくれることを祈る。


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