手掘り・司馬遼太郎/北山章之助著

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tebori

「手掘り・司馬遼太郎」 北山章之助著  角川文庫
2003年単行本初出   2006年6月文庫化

 司馬遼太郎氏の本はこれまでトータルで一億八千万冊が売れたという。どんな本であれ、司馬さんが書けば、どんなに売れなくとも1冊につき10万冊は売れたという話を出版社の人間から聞いたことがあり、どの出版社にとっても司馬さんの著作は垂涎の的だったことが理解できる。

 作者は元NHKのディレクターであり、プロデューサーであり、かつては揉み手をしつつ、司馬さんの出演を依頼した経験をもち、そうした経緯のなかで司馬さんとの距離も次第に縮まり、親しい関係が築けたのだろうと推察する。とはいえ、当然ながら、常に下手に出る習癖が備わり、司馬さんのご高説を受け賜るという姿勢が固定したのだろうと想像すると、読者としては名状しがたい不快感が脳裏に渦巻く。読むまえから、「司馬さんを百パーセント賛歌する一書」ではないかという危惧を抱かざるを得ないからだ。

 推察どおり、作者がいかに司馬さんを敬愛し、慕い、師と仰いだかは、通読すれば、だれにも解るが、作品のまとめかたは生真面目を絵に描いた内容で、同じように一人の作家を紹介する書物としては、たとえば、本ブログで昨日紹介した「山本周五郎」をはるかに凌ぎ、完璧に近い。

 吉川英治氏は司馬さんが世に出た前と後で、社会的な扱いのうえで文字どおり「月とスッポン」ほどの差、相違がもたらされたという。現実に、時間の経過とともに、吉川氏は司馬という巨山に隠れた存在になってしまった感があった。

 歴史小説というものへのアプローチの仕方そのものが両者のそれ以後を分けたのだろうと私は思っている。司馬さんは、みずからの作品によってそれまで歴史小説などに縁のなかった層(ことに女性層)を読者層として結果的に開拓したばかりか、吉川氏のフアンをも飲み込んでしまった。

 力量の差といってしまえば、それまでだが、私の個人的な意見は「司馬さんは自分の書いた本の売り方を知っていたのだし、売れる本を書いた」ということであろう。吉川氏がどこで育ち成長したかは知らないが、私の脳裏には、大坂の物売りの上手な男にやられたといった印象がいまだに抜きがたくある。1対1という、サラリーマンにない世界にいて生計を立てていた二人、司馬さんを選ぶか、吉川さんを選ぶかは、一にかかって読者であった。

 義経を評価しないという点では、私も司馬さんに異論はない。九郎判官義経が古来日本人の人気筆頭の人物であり続けたことも知っているが、これは単純に日本人の物事を合理的に思考しない癖みたいなものであり、死期に挑んで「哀れな死」を迎えたことに対する心情的な憐憫に過ぎない。そして、年代が経過するにつて、本来の義経に粉飾がなされ、美化がはじまって、歴史をゆがめる結果を招いた。「最後はモンゴルに渡ってチンギス・カーンになった」など、日本人の甘さ、悠長さ、心情の丈と同時に民族が宿命的にもつ非合理性が伝わってくる。

 義経の不運は本人の無能もあるが、奇襲戦が巧みだったことに加え、東北平泉の藤原秀衝(ひでひら)が資産家(東北で金が多量に出た時代)で、これに可愛いがられたことと、可愛いがった本人が急死してしまったことにもあるだろう。秀衝は当時日本一といわれるほどの、たとえば、17万騎におよぶ軍勢をもっていたという。(当時、馬の供給地は東北だった)。

 「司馬の人間を見る目は乾いていて、社会を醒めた態度で観賞しているため、登場人物はしばしば喜劇的な世界に置かれてしまう」といったのは、丸谷才一氏で、さすがに洞察が鋭いし、深い。必ずしも司馬氏の歴史観に同調していたわけではないことが明瞭。

 旗本八万期が幕末期、まったく役立たずのアホで、親のスネかじりに随していた事実はもっときちっとした説明が欲しいと思っているが、旗本の親分格だった水野と、ごろつきのまとめ役だった幡随院長兵衛との角逐くらいしか私は知らない。たかが、260年余の泰平のなかで、徳川政権が頼りにもし、依存してもいた八万騎がいともややすく脆弱の一途をたどっていたことに不可解を感ずる。もっとも、泰平の世が継続し、旗本が堕落していたからこそ、江戸には500もの武道を奨励する道場ができ、そこで必死に腕を磨いていたのは新撰組に代表される百姓や町人たちだったというのも皮肉なことだったし、一方で、金に困った武家が武士の心である腰のものを売り、代わり竹の刀を腰にしていた事実からも幕府と、幕府の抱える武士団の疲弊と剥落が窺える。

 平和ボケという側面においては、戦後の日本人と相似のものがある。

 ところで、当時の日本馬のサイズについて:

 信長に献上された良質の馬が体高142センチ

 秀吉が毛利攻めから取って返し、明智光秀軍を追った馬が体高147センチ

 加藤清正がお城と自宅を通勤したのに使った馬の体高152センチ

 現在の競馬に使われる外国産馬(サラブレッド)の平均体高160センチ

 (想像だが、モンゴル軍団の馬はたぶん155から157センチという馬高を誇っていただろう。また、中近東を席巻したとき、アラビア馬との交配によって、より躯体の大きな、脚力のある馬を入手したことが想像できる)。

 上の事実から、義経に従っていた武将の一人、畠山重忠が一の谷の合戦時、「ひよどり越えの逆落とし」で、愛馬を背に負って、急坂を下りたという話は納得がいく。(もっとも、この話は子供のころ祖父が読んでくれた講談からの知識だから、信憑性は不明)。

 いまNHKで大河ドラマ、「功名が辻」をやっているが、「山之内一豊の妻、千代」というのは、私はただの恐妻家だと思っているし、この作品が当時のサラリーマンに向けられた訓示のように思えて、辟易したものだ。

 「殉死」の項では、児玉が「乃木は戦が下手じゃ」と終生いっていたというのは、いかにも不可解。ならば、なぜ、乃木を人の子の命をあずかって戦う大将にまでしたのか、現実に何十万人という兵士が旅順攻略で死んでいる。単に長州出身という門閥にいたからか、乃木を攻めるよりも、乃木を大将に任じ、多くの犠牲を伴う旅順港への攻撃の責任をもたせる人事そのものに政治家の理性よりも暴力的な無能と牢固を感ずる。当時の海軍は旅順港に停泊するロシア艦隊を殲滅してくれないと、戦ができないと泣きをいれ、陸軍に必死にそのことを訴え、乃木はそれに応えた戦を行っただけである。

 陸軍の大ボス、山形有朋が「黒木は薩摩、奥は小倉で、長州がおらんじゃないか」といって探したら乃木がいた。それで、このでたらめな人事になった、その代わり参謀長は薩摩出身の伊地知をつけたという。これが山縣のバランス感覚だというが、明治が薩摩と長州という田舎っぺによって先鞭をつけられたことのデメリットがこうしたところに突出した形で出ている。伊地知などという男は(名前だけは典型的な薩摩ネームだが)参謀としての才能すらなかった。

 「203高地から見れば、旅順の港内はまる見えだ」という情報のもと、児玉が太い砲を内地からもっていき、203高地に砲撃を集中させることで、旅順のロシア守備隊の降伏が早まったという話には、「ちょっと待ってくれ」といいたくなる。そういう情報があるのなら、なぜもっと早く第一の責任者である乃木にそのことを知らせ、大砲を送り、あたら若い兵隊の命を紙くずのように捨てず、203高地への集中攻撃を率先してやらせなかったのか、このあたりも、児玉の心情も思考も不可解だし、児玉を賛美する司馬遼太郎の思考もよく解らない。

 山縣有朋が逝去したとき、石橋湛山が「死もまた奉仕」といった言葉が、私の脳裏に突き刺さったままで、かつて司馬氏が息を引き取ったとき、本ブログで紹介した「司馬遼太郎と藤沢周平」の作者も似た感想を抱いたという話も、忘れがたく、胸底に沈殿している。

 私には、乃木という男が司馬さんがこきおろしたような「無能」で「融通の効かなかった男」であり、「天皇にはその詩人的、歌人的な天性の資質を愛された」だけの男とは思えない。そのことは、旅順攻略のあとに展開された、ハルピンまでの軍隊を統率する将としての行動を見ればそれなりに判断できる。同じ大将の黒木、奥の両者との比較で、乃木が劣っていたという評価はない。
 「尊皇攘夷」といって毛唐に斬りかかっていった日本人が1868年に革命をやったら、それから20-25年で近代国家を建設し、日清、日露の戦役に勝ってしまった。これは「世界史の不思議、謎」という説には納得がいく。 他にそういう例がないからだ。とはいえ、日本の実力というよりも、大きな幸運に支えられただけのこと、ロシアを相手に開戦したという神経そのものが阿呆の一語。

 しかも、このあと、第一次大戦が始まり、ドイツの租借地を奪取、南洋のドイツ植民地(パラオ、トラック、マーシャル、ヤップなどをも攻略。以後、未曾有の特需に見舞われ、列強に並ぶ力を着々と蓄えていったことも幸運といわずして何と表現すべきか。

 「劉邦と項羽」のところで、司馬さんは「旱魃が起こり、流民が湧くと、これに食料を与えなれなければ、革命」という図式があったという。私は「かの国には支配者の簒奪を狙う人間は恒常的に存在した」と思っている。ただ、簒奪が成功するには、世に飢餓が蔓延し、流民が増え、Revolution(革命)を民が渇望するようになり、しかも、そうした卑民の数が皇帝側を圧倒するような条件に恵まれるかどうかが、大きく寄与したのだと思っている。

 「劉邦には虚のような抱擁力があった」。司馬さんのこうした表現に痺れる読者は少なくない。さすがに、漢籍の素養はレベルをはるかに超えている。 しかし、この表現が事実かどうかは、本人に会ったことのない私には理解を超えている。

 「翔ぶがごとく」の舞台である幕末、明治の時代、日本の総人口は3,000万人、うち武士とその家族は300万くらいで、10%である。10%が廃藩置県でリストラされたことになる。そのうえに徴兵制度までが施行され、百姓も町人も武士も分け隔てなく扱われるようになりはしたが、結果として士農工商、とくに士農から不満の声が強くあがった。人間はだれでも日頃の習慣と違ったものをいきなり目の前に置かれると反発を覚えるものである。 

 ただ、明治維新を過ぎて、日本人は生まれて初めて近代的な国家というものをもち、だれもがピンとはこなかったかも知れないが「国民」というものになった。維新以前には国民とか国家という言葉すらなかったのだから、日本史上最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。「このいたいたしいばかりの昂揚が理解できなければ、この時代の歴史は解らない」とは司馬さんの言葉である。

 勝海舟がもてはやされ、彼なくしては「江戸の無血開場」はなかっただろうといわれる。勝は、武家といっても、100石未満を親代々賦持ちとしてもらっていたレベルの貧乏侍、下級武士の人間だし、江戸気質を備えた人だから、ざっくばらんな人柄ではあっただろう。

 幕末にいたって、それまで例のない、下級武士が幕府を代表し、無血開場のあと、最後の将軍の助命を請い、これを隠居させ、薩州の意を迎えた。海外を見る機会も持ち、福沢らとも親しい関係だった男なのだから、新しい政府に江戸人をもうすこし突っ込んで、人事上のバランスをとることはできなかったのかという疑問がいつも私の胸にある。 とくに、軍事関係者に、もうちょっとましな人材が配置されていたら、太平洋戦争に突っ込むことはなかったのではという疑問だ。

 維新後に、勝海舟がインタビュアーにベランメェでぺらぺらしゃべって、大きな顔をしている様子から、やるべきことを100%やったのかという疑問が残るからである。司馬氏によれば、「幕臣でありながら、重力を捨て、浮いていることのできた異様な存在。いわば最初の日本人」としめくくっているが、このしめくくりの表現には痺れるが、司馬氏特有の独断が感じられて、賛意を評しにくい。

 幕府にあたりまえの人材がいたら、薩摩の琉球政府の締め付けの過酷さに気づき、薩摩が必要以上に経済的に肥えることを阻止できたはずだ。薩摩の琉球侵攻は秀吉の時代にすでに始まっている。つまり、貿易による利益はもとより、税を人民から搾ることの快感を知ってしたし、幕末には海外の情報を琉球経由で得る方法も知っていた。

 西南戦争の件。

 西郷隆盛という人物はさいごまで謎の多い、よくわからない人物だったらしい。あるいは、日本人のスケールを超えていたのかも知れない。「士はおのれを知る者のために死す」という言葉があるが、西郷が新政府に離別し、帰郷してしまうと、示顕流の得意だった政府の軍事を担当していた桐野までが軍服を脱いで、西郷に従い、それを機に、ぞくぞくと西郷のもとに馳せ参じる者が増え、とくに新政府に不満をもつ武士階級に追随する者が多かった。司馬さんは「西郷のためなら、士卒が喜んで死地に赴くという人格的統御という点で、日本史上、西郷に並ぶ者はいない」とまでいっている。その意味でも、「兄に外国を見せるべきだった」という西郷の弟、従道の言葉は重い。

 「日清戦争後、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉を受け、遼東半島を返還することに同意せざるを得なかったこと、しかも、直後、ロシアは遼東半島の青島に堅固な要塞を建造、ロシアは旅順にこれまた堅固な要塞を築いて港内の自国艦船を守備し、フランスはベトナムをほぼ植民地化することに成功する。日本人はこれを「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)と中国の古い言葉を噛み締めて悔しがった」というが、そもそも日清戦争はどのような経緯から始まったのか、日本の命運を賭けてまで踏み込む理由は何だったのか不分明。

 イギリスとの「阿片戦争」を観察していて、思いもよらず「清が弱い」ことを見抜き、一方的に喧嘩を売ったとしか感じられない日清戦争。租借地を獲られて、臥薪嘗胆とは脳みそがちょっとずれているとしかいいようがない。やっていることはすべて植民地政策に夢中になっている西欧の真似であり、同じ東洋の国を守って、手を繋ごうという意志がまったく見られないのはどうしたことか。むしろ、ひたすら、列強諸国の一国として認めてもらいたいという願望と自己顕示欲だけが先走りして、理性を失っていたような気がする。だからこそ、第一次大戦後、ただただ富国強兵に意を用い、海外に出稼ぎに行った「からゆきさん」という「国辱」には目をつぶり、領土的野心にばかり心が奪われたのであろう。これも薩摩、長州の田舎っぺが国を統べたことの巨大な損失だったと思われる。

 幕府も時代の趨勢には勝てず、北前船の回航を許し、排水量の大きな船の造船も許可することにより、本土から北海道を往復して大儲けをする商人が出てくる。これにより、商品の輸送、流通が盛んになる。 

 最近の識者の忠告は、だいたいにおいて、「日本人には心の拠り所、規範がなくなった。そのことが色々な事件、事故の原因になっている。大企業ですら、しばしば法にそむいた言動を行い、テレビで役員が「もうしわけありませんでした」といって謝れば、それですむと思っている風潮が強く、悪事は増える一方である。だったら、われわれはもう一度、あの武士道にもどろうではないか。武士道を日本人の心の拠り所にしようではないか」。「私を滅し、公に奉ず」「いったんYESといったら、必ず貫徹する」「清を手玉にとり、朝鮮半島を併呑するような、弱い者いじめはすまい」。そして、「卑怯なことはすまい」と。

 もう一度いうが、司馬さんの歴史小説はあくまで小説であって「史実」ではない。テレビの討論会に出席して、日本の歴史について滔滔と述べる司馬さんを見ていると、れっきとした歴史家であるかのような錯覚をもった人が少なくないが、それこそNHKの番組制作担当者のミスであり、彼の書いた歴史小説には当然ながら幾多の創造や虚構があり、ときに史実とはまるで遠いものになっている。

 この作家の特徴は歴史上の人物を描くうえで、誇張や過剰な色づけが多いことで、それゆえに人物が明瞭に読者の脳裏に刻まれやすいということである。

 むしろ、「この国のかたち」以後の文明評論家的な意見の開陳であれば、賛否両論が遠慮なく出され、それはそれで毒にはならないが、小説という殻をかぶっている以上、創作は必然で、これにクレームはあり得ない。こうした司馬さんの欠陥、というより姿勢については、残念ながら、作者は一切触れていない。

 確かに、司馬さんは「明治の人間はどういう人間的素質をもっていたのか、どう現代人と違うのか」「江戸人とは何か」、そして「将来、日本人はどうあるべきか」など、日本人が拠り所とすべき精神的支柱について模索し、示唆し、暗示したことはしばしばであった。

 ただ、「街道を行く」を読んでも、「海外の散歩スタイルの本」を読んでも、いずれかといえば、司馬さんの興味の赴く方向へ読者がいざなわれ、その土地の真髄を極めるという点に集中してはいず、予測を超える終焉を迎えるという態のものが多い。

 この作家が今後五十年、百年の後にどのような評価を得ているのか、興味はむしろそのあたりにある。 

 作者の「司馬さんへの礼賛一辺倒」という内容ではあるが、真面目に、真摯に本書をまとめたことは如実に伝わってくる。過日、本ブログに「司馬遼太郎と藤沢周平」を2006年8月2日に紹介したが、そのこととの関連を思って、本書を手にしたことを明示しておく。


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