大聖堂/レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳

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だいせいどう

「大聖堂」 レイモンド・カーヴァー(アメリカ人)著
原題:The Complete works of Raimond Carver 3
中央公論社  1990年5月初版  村上春樹訳

 訳者の村上春樹の言葉によれば、ここに収められた12編の短編は最も粒の揃ったものであり、文学でいう知、情、意の三拍子が揃った見事な作品だという。

 また、序文に「レイモンド・カヴァーの小説はアインシュタインが科学の世界に持ち込んだのと同じ衝撃をアメリカの小説界に与えたと妻だったテス・ギャラガーは言う。結婚生活はわずか11年で、カヴァーは逝った」とある。

 この作者は一貫して、アメリカで成功している人や個性の強い人などは採り上げず、ごく普通の、ありふれた人間を俎上に載せながら、人生の断片を切り取ってみせるという、アメリカ人の小説家とは思えない姿勢を堅持する。少なくとも、訳者の村上春樹の作品よりは理解できるし、親近感が持てる。といって、「小説界に相対性理論を持ち込んだ」ほどの格別な印象には結びつかなかった。

 私にとって最も印象的だったのは「大聖堂」で、妻が結婚前、目の不自由な男性のために代読業を行う。仕事の最終日、その男性から「あなたの顔を自分の手に触らせてくれないかと」要望され、「どうぞ」と言って、受けた。彼女が後日書いた詩を読んでみると、目の不自由な男の手が鼻や唇に触れるときの感触や自分の心をよぎる感覚、思いなど、そのときの様子を彷彿とさせるように描かれている。その後も、目の不自由な人物と妻とのテープを使った手紙のやりとりはずっと続き、ある日、訪ねてくることになる。

 主人公はいろいろに想像する。いくら妻が化粧しても、おしゃれをしても、目による確認は不可能であっただろうこと、妻が表情をいろいろに変えてみても、それを察してもらうことも不可能であっただろうことに気づく。

 目の不自由な人には申し訳ないが、自分がさわれる立場にあったらという仮定、また、自分の妻が過去のこととはいいながら、他の、目が不自由とはいえ、れっきとした男性に唇や鼻までさわられたという事実が、読みながらこちらの神経にからんできて、いつまで経っても、脳裡から消えずに、読み手として処理できない状態に陥る。

 目が不自由な以上、触れなければ、対象の形が理解できない、判別できないのだということは理解できるのだが、観念的に理解できることと、主観的に納得できることとには大きなギャップがあり、私はこの場面に立ち止まって、先に進めなくなってしまった。むろん、自分が目が不自由で、好きになった女性がいたら、顔ばかりか全身を裸にして触れてみたい、さわりまくってみたいという欲求をもつだろうことは疑いがない。

 文中、妻が眠ってしまった後、TVがたまたま欧州の「大聖堂」を紹介している。主人公は目の見えない男にそれを説明することに苦労する。男のアイディアで、紙にペンでその形を目の不自由な人の手をつかみながら書くという方法を採る。二人は次第に打ち解けていく。ストーリーは、ある意味、非凡である。

 ビジネスでつきあってきたアメリカ人にこういうナイーブな人物はいなかったため、アメリカ人という人種には、例外なく、言いたいことだけはきっちり言う、明瞭に個性を打ち出すという、デリカシーのなさが目立つ人間が多かったため、こういう作家に出遭うと「この人、ほんとにアメリカ人なのか?」と疑問を感ずる悪癖が後遺症として私にある。

 久しぶりにブック・ケースに入った単行本にぶつかった。


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One Response to “大聖堂/レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳”

  1. 津和蕗 きりあ より:

    レイモンド・カーヴァーさんの本を訳す中で、文章を短く研ぎ澄ます言葉を学んだと、お話なさっていらっしゃいましたね。
    わたしも、文章を書きますが難しい課題です。

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