女帝・エンペラー/シャン・ハーユー&チェン・ユー著

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女帝

「女帝・エンペラー」 シャン・ハーユー/チェン・ユー共著
訳者:和泉裕子/井上実共訳
原題:夜宴
ハヤカワ文庫 2007年5月初版

 入手して初めて知ったが、本書は2006年9月に映画化された後に上梓されたもの。世界的に女帝を題材にした書籍はかなりの数で世に出ているが、本書の表紙の写真からは、奇抜な化粧、真紅の服、黄金の大きな簪(かんざし)、仰々しいほどのネックレスなどで身を飾った美貌の女帝の姿に圧倒的なものを感じ、入手。

 背景は唐滅亡後の五代十国時代、ある国を舞台とした王権への角逐と復讐をモチーフとしたものだが、史実とはいえず、あくまで創造された内容のものと諒解。

 中国人の書いた小説といえば、かつて「水滸伝」「西遊記」「三国志」「紅楼夢」などに触れる機会が少年の頃にあり、憧憬したものだが、現代小説に触れたのは初めてで、興味を惹かれた。

 「人と天のあいだに隔たりがあるように、女と男にも、彼女と彼とのあいだにも埋めがたい距離がある」との言葉が第一章のトップに出てくるが、この言葉遣いにいきなり違和感を持った。「人と天」というのなら、私見だが「天と地」というべきであって、ページを繰った早々に不快感に襲われ、本書への期待が萎えてしまった。「仰いで天に愧じず、伏して地に恥じざるは君子のはじめなり」という漢文を高校生の頃、暗記したという個人的な経験もある。

 さらに、「太陽が手に届きそうに見えながら、天地の果てよりも遠く離れている」などの表現にも、あまりにも非科学的という以上に、太陽が手に届きそうに見えたことすらない私には、中国人のものの考え方に同調できぬもの、もっといえば反発を感じた。宇宙の果てのほうが太陽の位置より遠い。

 また、「皇家の子孫の瞳が一様に緑色」というのも、漢人の瞳は黒ではあっても、遠くペルシャとの交易時代に混血する機会があって、緑の瞳をもつ皇室ができたとも思えず、真実だとすれば奇形を感ずるばかりで、「鬼面人を驚かす」式の小説作法には腑に落ちぬばかりか、誇大な虚飾すら覚えた。

 もっといえば、「面をつけた人間の歌声が清らかに、かつ爽やかに湖上に響き渡る」というのも、理解に苦しむ表現で、面をつけた人間の声はくぐもってしまうのが普通ではないか。

 「剣で胸を斬られ、意識を失い、丸一日昏々と眠るばかりだった男が、目覚めたその夜に座し、腕組みをして舞台を見物する」下りも、「横臥しながら」というのなら納得もいくが、非科学的な面に再びぶつかった気がし、原文が下手なのか、訳文が下手なのか、文章全体に稚拙さと雑駁な印象が強い。

 「黒い瞳は天地のはじまりの夜空のように清らかに澄んでいた」という表現も奇妙。天地のはじまりを目撃した人間などはいないのだから。こういう作法が中国古来の「白髪三千丈」的な、彼らにとっては違和感のない表現法なのかどうかまでは判らないが。

 ただ、「眸(ひとみ)をめぐらして一たび笑えば、百媚をなし、六官の粉黛顔色なし」という程度の誇張は許容できる。

 なかに、「遼東の鶴頂紅と大破漠の北の黒サソリ、それを水に浸し、乾かしてから潰して粉にすれば猛毒ができる。むろん、もっと強い毒もあるが、それは人の心だ」という言葉は、石川元助の「毒矢の文化」(2007年8月28日)に書評したばかりだったため、「鶴頂紅」というものが何なのか、化学的成分は何なのかに感心を惹かれた。そして、「最も強い毒は人の心だ」というのも常識的だが、当を得た表現。

 救われるのは、小説の後半部分にはこうした不快を喚起する場面がなく、ドラマが映画的に運ばれ、読了を妨げなかったことだが、夢の話が多発することにはシラけたものを感じた。

 概してだが、映画が先で、入場者数が期待を上回ると、後日になって、本が書かれるケースがあり、そうした本にはほとんど優れたものがないことである。一般的には、まず原作があり、後日に映画化されるケースの場合、映画が原作を超えるということはないというのが私見。「God Father」にせよ、「Jaws」にせよ、「Towering Inferno」にせよ、私は原書(英語)で読んでいるが、原作のほうがはるかに面白かった。

 現代の中国人作家による作品としては、2007年8月14日に「大地の慟哭」を書評したが、この本の方がはるかに誇張がなく、内容はともかくとして、充実したものを感じた。


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