ジョイ・オブ・セックス 完全版/アレックス・カンフォート著

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ジョイ・オブ・セックス

「ジョイ・オブ・セックス 完全版」
アレックス・カンフォート(Alex Comfort/1920-2000/イギリス生)著
訳者:安田一郎、青木日出夫
原題:The New Joy of Sex. 1991
河出書房新社刊 単行本 ¥2,800
日本では 2003年2月初出。1972年処女版がイギリスで出版されてより世界で800万部が売れたというベスト・セラー。

 「隔世の感」という言葉がある。本書に接して「世の中の変化」をあらためて感じた。

 むろん、連日にわたってエロティックな記事、写真、映像がパソコンに強制侵入してくる時代であり、書店に行けば、エロを売り物にした雑誌が何種類も店頭に置かれている。男女間のことには、だれもが慣れ、ある意味で「すれ」ているから「なにをいまさら」と思われるかも知れない。

 「隔世の感」とすこし仰々しく表現したのには理由がある。実は、高校時代、「完全なる結婚」という、ほとんど医学書のような本を書店で見つけて立ち読み、途中でやめられなくなって、4日通って読了した経験があり、生まれて初めて女体の図解を目にし、男ばかり五人兄弟に生まれた私は文字どおり目を皿にして立ち尽くした記憶がよみがえった。

 そして、自分が興奮を抑えきれなかったその本の内容と、本書の内容とにあいだに存在するあまりの格差にも、落差にも、隔絶した内容にも言葉を失った。

 多彩なアングルからセックスを説く姿勢にも、「Make Sex」ではなく、「Make Love」をとの言葉にも、微に入り細にわたる懇切な解説にも、著者の完璧を期す真摯さととともに執念のようなものを感じた。

 本書が家庭に一冊あり、それをカップルで読んだからといって、幸福な性生活が約束されるわけのものではないにしても、無知や蒙昧が糺(ただ)され、性生活に多かれ少なかれ、良い意味で支援、刺激の材料になることだけは間違いない。

 読み手の年齢、経験などにより、受け止めかたには違いがあり、場合によっては反発もあり得る。

 たとえば、「頂点を極めるときの発声は日本人も西欧人も「死ぬー」はいいとしても、「イエス、マリア様ー」は少なくともこの国ではあり得ない。

 「一週間に二回以下の人は回数を増やしなさい」にいたっては、年齢や関係した期間にもよるだろうが、たいていは欧米人との精力差に劣等感を抱くだろうし、器具を使ってのセックスに多くのスペースを割いて説明することにも奇異な印象があり、ときにはその過剰さに苦笑を禁じえない。

 さらに、「女性の匂いは射程距離の長い武器となり得、男性は無意識のうちにこの匂いに誘惑される」との話には、コーカソイドとモンゴロイドの嗅覚力の差はもとより体臭の強さの違いを感じて、思わず低い鼻に手をやってしまう人もいるだろう。 男女間のことを書いた外国小説には嗅覚に関する記述が多いことも事実である。

 とはいえ、体臭の面では、コーカソイドのほうがモンゴロイドより強く、そのためにパフュームが西欧でつくられ、化粧の面でも、西欧は他の国を凌駕していた。体臭を消すための努力も東洋人の比ではない。好きになった相手の匂いは好きであるという話もあるが、限度があるだろう。 日本人に多いのは「腋臭」で、本人が気づいていないケースが多々ある。「多汗症」の人は他人と握手さえできずに、人知れず悩んでいるケースもある。いずれも、現在は、ドクターと相談することで解決できるのだが、そのことを知らない人もいるらしい。

 好きな女となら、シャワーを浴びずに、体中から発汗する女を抱きしめ、女の本当の体臭を鼻で嗅ぎながら、互いに汗だくになってセックスしたいという欲望もあるだろう。

 むろん、愛する女、あるいは男が一夜寝たベッドに相手の体臭がしみていて、それを嗅いで、一夜前の悦楽が蘇ったり、懐かしんだりは日本人男女にもあるが、この話と外国人の上記の話とではレベルが違う。が、それなら、白人らが風呂に入らずシャワーだけで、ろくすっぽタオルに石鹸もつけずに神経質に洗わないという実態が理解できない。垢というものに対する感覚がかれらと我々日本人とのあいだに相違があるのだろうか。 それとも、体臭を消してしまう風呂やシャワーは彼らの嗅覚を刺激しなくなるので、それが性的な興奮に結果しないのか。後日ブログで紹介する「開高健」が「ビデ」がなぜ西欧で発明されたかを読んで、この件については納得がいった。

 反発といっても上記した程度で、本書のほとんどの部分は真面目で、親切であり、セックスを考えるアングルが多角的だといったが、常識を超えるほど多彩であることは保証できる。さらに、原文が良いのか、翻訳が良いのか、文章がスムーズで、非常に読みやすい。

 とはいえ、「相手を変えないセックスも互いに怠惰をいましめ、技法や演出に工夫を凝らすことで、愛が深まる」といった考え方がある一方で、統計上、「イギリスでは男性の90%以上、女性の50%弱が、妻あるいは夫以外の相手と肉体関係をもつ」とある。ただ、女性の性は経験により可変的であるという点が曲者で、一人の女性とのセックスを長期にわたって継続すると、相手の感ずるところも、感じ方も、クライマックスの頂点すらも変化することが多々あり、いたずらに相手を増やすだけが「性」を知ることにはならないのも事実である。

 かねてより「男は蝶であり、女は花。男は美しい花から花に飛び、甘い蜜を求めてさまよう。女は蜜を求めてやってくる男をとりこむ」といわれてきた。 著者はそういう男女に「責任を伴わない性関係はない」という胸にぐさりとくる厳しい言葉を吐く。この表現は、読者にとって、おそらく衝撃的であり、威嚇的でもあろう。

 とはいえ、日本の男の大半は、(若いときは別だが)、一度の射精で披露困憊、女の顔を見るのもいや、身体に触れられるのもいやという男もいて、女に背を向けて寝てしまう。自分のベッドが別になっていれば、さっさと自分のベッドに入って寝てしまう。一般的に、女性はオーガズムを味わったあとも、せめて手を握り合い、体を寄せ合って寝たいもの。(とはいえ、声を荒げて乱れたにも拘わらず、朝になったら、そんなことはなかったような顔で、さっさと化粧をし、部屋から去っていくのも女性である)。

 女のほうからはセックスがしたいとは言い出しにくいが、巧みに男をその気にさせてしまう女もいる。また、セックスのまえから巧みに女の下半身を濡れさせてしまう男もいる。器用、不器用の問題にもかかわってくる。お互いにスケベが好きになること、スケベであることを許容しあわないと、カップルの長年にわたる愛の営みは不可能だと、私は思う。ただ、日本の男とコーカソイドの男が女に求めるものには違いがある。日本男性が喜ぶのは恥ずかしがる女性であり、西欧の白人が喜ぶのはエキサイティングな女性である。

 本書の訳者の解説に「セックスは食と同じ」とあるのが印象的だが、著者本人の本音は「性行為に最も重要かつ大切なことは好色であることであり、好色であり続けること」といっているように感じられる。

 最も関心を惹かれた部分は以下の話だ。

 「ブランコに一人で乗ると、多くの少女は生まれて初めてオーガズムを経験する。加速による骨盤への圧力が原因である。十分に挿入された相手と二人でブランコに乗ると、若い女性も少なくとも一生に一度という快感を経験するであろう。なかには恍惚感から失神する女性もいる」。

 ただ、本書を初めて開いたとき、全ページが赤一色の文字と、数ページに一枚ずつ挿入された男女裸体の素描までが赤で埋められていることには目がまわるほどの驚愕を味わった。出版業界で過去にこのような試みがあったのかどうかは知らないが、明らかにギャンブルであり、これが凶と出るか、吉と出るか、判断を超えている。

 最後に、一般論してだが、「女性はポルノの写真や映像を見ても、男ほど興奮しない」という事実、そして、「男は相手の女の過去を根掘り葉掘り聞きたがり、それに触発されて発情する傾向があるが、女性は男性の過去の女性遍歴をあまり聞きたがらない」のが普通らしい。 それは、たぶん、男の女遊びはあくまで遊びで、浮気でしかないが、女の場合は「本気」だから、男の浮気が理解できないからであろう。

 

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