逝きし世の面影/渡辺京二著 (その1)

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「逝きし世の面影」 渡辺京二(1930年生/日本近代史家)著
帯広告:絶賛の声鳴り止まぬロングセラー
和辻哲郎文化賞受賞
2005年9月9日平凡ライブラリーより文庫化初版 ¥1,900+税

 書評「その1」

 タイトルと表紙カバーから推し量れるように、本書は幕末から明治初期にかけて来日した欧米人の滞在体験記、紀行文、旅日記などを紹介し、かれらの目や感受性が当時の日本人、日本社会、日本文化、風習をどう捉えたかを紹介しつつ、作者自身の考えを散りばめた大著であり、これらの文献、資料を通し、あらためて我々の過去を正しく認識することで、自らを顧慮し、現在の生活や文化の軸がどこにあるのか、影響がどの程度あるのか、あるいはどのような感性や志向癖に残っているか、あるいはすでに忘却のかなたにいってしまったものがどの程度の量で存在したかなどを知得するためのよすがにしようとの目的で、1980年から1985年にかけて書かれながら絶版になっていたものを、文庫本として蘇らせたもの。私としては、本作品の再登場は快挙だと評価したい。

 それにしても、当時、来日した欧米人の数がおびただしく多数に及ぶこと、それぞれが何らかの手記や絵を残していることに驚愕し、かつ、彼らが当時の日本のどこに瞠目したかを再認識する機会を得たことは、かつて本ブログにアメリカの初代駐日大使、ハリスの日本滞在記や、スウェンソンの滞在記を紹介したこともあり、尽きざる関心を喚起させられるものだった。本書が文庫化後、ロングセラーになっている理由にも納得がいく。

 文庫本とはいえ、全600ページをカバーする分厚い内容であることを鑑み、二度に分けて書評しつつ、心に留まったところを記し、私の味わった興奮と感銘を伝えたい。

 そこで、本ブログを、書評「その1」とした。(   )内は私見。

1.日本近代が経験したドラマはひとつの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだと銘記すべきだが、文明にどっぶり浸かっていた日本人よりも、大抵の場合、異邦人、観察者の感性に訴えた著述の方が文明の変容を的確に教えてくれることが多い。

 チェンバレンは「18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した日本の生活様式は何と風変わりな、絵のような社会であったことか」と嘆声を発している。そして、「日本人社会に、幕末から明治にかけて本質的に変化していないのは、(1)知的訓練を従順に受け容れる習性、(2)国家という壁に対する忠誠心、付和雷同を常とする集団行動癖、(3)先進外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向」との認識を示している。

 (欧州各国社会は世界に突出した文明をもつギリシャ時代に学び、互いに切磋琢磨しつつ、真似をし合いあい、互いの技術や知見を高めあうという恵まれた環境にあったからこそ、アジアや南北アメリカ大陸を凌ぐ文明を花咲かせることが出来たのではないか。日本は島国であって、どこの国とも国境を接していないという状況があり、そのうえ江戸300年は鎖国している。幕末になって初めて欧州列国の進歩した姿に驚愕し、学び、真似する以外に選択の余地がなかったはずだし、と同時に、真似する能力があったからこそ、欧州のレベルを超えたものも数知れず創造もした。ただ、そのときに感じたコンプレックスが未だに抜けずにあるのは否めない)。

2.フランス人の画家、レガメは「日本人の微笑はすべての礼儀の基本であって、生活の場で、それがどんなに耐え難い悲しい状況であっても、必要な微笑だった。後年、欧米人から不気味だとか、無意味だとか、謎だとか酷評される日本人の『てれ笑い』ではなく、『古い微笑み』は日本社会の底辺にベースするものだった」。

3.1889年(明治21年)に来日したイギリスの詩人、エドウィン・アーノルドは、「地上で天国と称されるに最も近づいている国は日本。その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙、優しい性質、奥ゆかしい態度、礼儀正しさ、謙虚ではあっても卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない、これこそ日本における人生を生甲斐あらしめてるほとんどすべにおいて、あらゆる他国より一段高い位置に置くもの」とスピーチしたとき、日本人は「日本の産業、政治、軍備などには一切触れず、これは日本に対する、一種の軽視であり侮辱である」と、お門違いの反応をした。

4.イギリスのオリファントは、1858年(維新10年前)、中国から長崎に到着したとき、「日本は、貧しさや物乞いの全くない唯一の国。文明の高さは予想外だった」と漏らした。

 (実際には物乞いはいたし、戦前戦後にもいた)。

5.世界に存在する多数の独自文化がそれぞれ存在する理由をもっており、それぞれがその価値を主張する権利をもっている以上、その核心を理解するためには、彼我の異質性を徹底的に自覚しなければならない。

6.1866年(明治維新2年前)に横浜に駐屯した英国第9連隊の将校、ジェフソンとエルマーストはその共著のなかで、「新奇さは一般に魅力的だが、たちまち色褪せてしまうもの。ところが、日本と、その住民は決して新奇さを失うことがなく、常に観察すべきこと、驚くべきことがあった。彼らは自分らがこれまでに会ったことのある、どの国民とも全く違っていた」と述べている。

7.産業革命後の西欧人が前工業化社会である日本に接したときに感受するものは、日本文化の非効率的、非合理的な思考であったろうが、だからこそ、日本社会が日本らしい文化を育んできた。欧州人の「どうあっても先に進もうとする進歩主義」が押しつけられたことによって、アジア人の生活に不調和と混乱が生じたことを、オールコックは正直にその意見を開陳している。

8.徳川時代、年貢は過酷なまでに重圧的だったという言説が多いが、検地は1700年以降はほとんど行なわれていず、一方で、農業の生産性は絶えず向上し、作物の収穫量も増加した。つまり、農民の生活は時とともに改善され、豊かになったといっていい。でなくて、都市人口で江戸が世界一だったにも拘わらず、飢餓に陥った人が皆無だったことを裏書きできない。むろん、地域により、土地により、多少の差異はあるだろうが。

9.日本人は富裕層と下層階級で食事内容の違いはほとんどなく、日本人は一般的に奢侈贅沢に執着心を持たず、階級の高い地位の人間の住居も簡素で質朴だった。(太閤秀吉を唯一の例外として、日本人は宝石や金銀財宝に固執しない民族だった)。

 日本の最下層の村に入っても、人々の顔は粗野で、子供は不潔で、家屋は貧弱だったが、欧州の大都市の貧民窟で見受けるような野獣性も悪性も、憔悴した絶望の表情もなかった。また、日本の富裕層はアメリカの富裕層のように、下層階級の住居と一線を画し、距離をおくようなことはしない。日本社会は、貧が危険を生むという土壌にはなっていなかった。

10.日本人が史上最も日本人らしく、西欧の影響を受けずに輝いていたとき、それは幕末期の日本人であり、多くを望まず、足りるを知り、住民同士の援けあいが当たり前の関係を醸成し、質素で華美に走らないところに、慎ましい豊かさが生まれていた時代。ここに日本人の原点があるのではないか。

11.醤油で食べる刺身、同じく海草、豆腐、悪臭を放つタクアン、塩漬けの魚、梅干、なんでもかんでも塩に漬けたものを食べる、日本人の食生活にうんざりし、非栄養的だと批判を浴びせる欧州人もいた。

12.日本人一般は正直で、慎ましく、家に鍵すらかけず、屋内すらまる見えという実態があるが、維新後に段々に変容したのは外国人と交わる機会の多い、長崎出島者と、横浜港の商人たちで、日に日に手に負えない存在と化した。

13.どの来日者も、日本人同士のお辞儀を見て驚嘆し、呆気にとられたらしいが、日本人の丁寧すぎるお辞儀はこの世を住みやすいものにするための礼節であり、社会的合意である。

 日本人は軽蔑や侮辱に対して敏感だが、一方で、だからこそ、たとえ身分違いではあっても、それに正比例して他人に気を使う。丁寧なお辞儀の繰り返しも、そういう範疇に入るだろう。

 (外国で日本人同士が米搗きバッタさながらに頭を下げあう姿に出会ったときは、目のやり場に困るのも事実。その姿が周囲と馴染まず、あまりに異状、風変わりに見えるから)。

14.1889年、(明治22年)、英国公使の妻として来日したメアリー・フレイザーは、「私は路上の生活を観察するのが好きです。日本人社会が示す雑多さと充溢(じゅういつ)、当惑させる率直さ、曰くいいがたい様相など。日本は汲めども尽きぬ意外性をもつ国」と記述している。

15.都会、とくに江戸では、手工芸品であれ、手工業品であれ、細かく分業化されており、それぞれが職人によってつくられ、小さな店で商いされている。細分化された仕事が、社会集団のなかで、それぞれが棲み分け、生活の糧とすることを可能にしている。日本の職人は自分が携わる工芸品、日用品にも手を抜かない。それぞれが美意識を強くもって仕事に向かっている。それは、一面、効率を無視した自己満足のうえに成立する仕事のように、外国人の目に映りはしたが。(職人気質は自己満足の世界で育まれたはずだ)。

16.幕末期、ほとんどの来日者は日本の女性を賛美したが、男に対する評価は低い。下層の労働者階級の男は筋肉質で逞しいのに比べ、上層階級の男は概して貧弱で、病的。

17.将軍による専制政治が行なわれている国であるにも拘わらず、民衆は明るく、開放的で、活発、社会や生活に不満をもっているようには見えない。(厳密な意味で、幕府は西洋でいうような専制政治を行なってはいない)。

 幕藩体制では特定の領域では強権を駆使したが、庶民の生活の領域は自治に任された。一般庶民の方が支配階級だった武士よりもはるかに自由だった。むしろ、将軍や大名たちのほうが窮屈な儀礼に縛られ、威厳は見せかけにすぎず、実態を伴っていなかった。

 江戸の南北町奉行はごく限られた数の与力、同心によって運営されていたにもかかわらず、100万を超える大都市の治安が良好に保たれていた事実は、警察や裁判の機能が大幅に民間に委譲されていたからで、こうした弾力的な法の運用と権限の下部組織への委譲によって支えられていた徳川政権期の自由は明治新政府によるヨーロッパの近代市民的機能の採用によって断絶する運命にあった。

 イギリスのチェンバレンの感想。「日本にはそれぞれの地位に応じた人格的尊厳と自主性が保証されており、身分とは職能であり、職能は誇りを本質としていた。自分の国、イギリスにおける民主主義はジェントルマン貴族の支配下における議会政治上の概念に過ぎず、日本のほうに真の意味での民主的な素地を感ずる」。

 (イギリス社会は貴族をトップとする完璧なまでの階級社会であり、その意識は今日にも継続している。だから、インドを植民地としたとき、インド人社会のカースト制度にも違和感をもたなかったのでは?)

 「書評その2」に続く。

 

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