逝きし世の面影/渡辺京二著 (その2)

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「逝きし世の面影」  渡辺京二著 平凡ライブラリー
裏表紙:あまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問う
2005年の文庫化初版から2009年まで17回の重刷

 「書評その1」からの続き。

 書評・その2

 1.幕末期に訪日した欧米人は日本の混浴習慣には例外なく、とくに宣教師らが、驚愕したが、実態は老若男女、子供を含めた集団による浴場の共同利用であり、日本人のきれい好きを認識した欧米人もいた。むろん、「日本人には慎みがなく、みだらという意見」が大半を占めはしたが、なかには「慎みの有無は、見る方の目の問題である」と、喝破した人もいた。現実に、日本人同士で、たとえば、男が女の裸を色目で見たり、触れたりするなどということはこの時代には決して起こらなかった。

 (長期にわたる習慣のなかで、子供の頃からの見慣れた光景にことさらのエロや羞恥を感ずることなどあるわけがない。同じことはヨーロッパのヌーディストビーチにも言える)。

 当時は、混浴に限らず、男女、子供は各家庭の庭先での行水、暑いときのモロ肌脱ぎ、上半身裸体、人前での授乳など日常茶飯事にあった。

 (人前での授乳などは昭和40年代ですら、東京の山手線のなかでも見られた光景だし、女性が腋毛を剃る習慣もなかった。羞恥というものは社会が倫理のなかに形成するものであり、この国にはそうした倫理はなかった。さらに、倫理観というものは地域により時代によって移ろうものだ)。

 混浴習慣は、むしろ、裸体のもつ性的表象としての威力を失っていたとみるのが妥当。

 日本で、銭湯が男湯と女湯に分断されたのは外国人の、とくに宣教師らによる批判に応じたものだが、混浴風呂は現在でも、田舎の温泉宿では日常的に存在する。

 とはいえ、幕末期の春画、春本の類は市中に出回り、大人のみならず、子供の目に触れることも多く、性に対する禁忌意識が乏しかったことは事実。10歳の女の子が平気で春本を買ったり、見たりは日常生活のなかにあった。逆に、当時の日本社会には、性に関する開放感がみなぎっていたともいえる。

 (戦後の若者に比較し、当時の若者のほうが性に関してませていた、より知っていた、より大人だったと言えるのではなかろうか)。

 一方で、公娼制度があり、廓(くるわ)が存在し、性病が蔓延したのも事実。ことに、開国後、欧米人がそうした施設に足を運ぶことによって、それまで日本にはなかった「梅毒」が持ち込まれ、この性病による死者も相当に出たことも事実。

 (梅毒は、実は、日本より、琉球の方が先に持ち込まれていた)。

 一方、1860年代のイギリスでは、ロンドンの売春婦は4万9千人、全国で36万8千人といわれる。

 (売買春は世界を網羅する古くて新しい「簡便なビジネス」と言っても間違ってはいないだろう)。

 伊勢の外宮と内宮との3マイルほどのあいだに、女郎屋が軒を連ねているのを見た欧米人は悪徳と宗教が同盟を結んでいるように見えたというが、日本におけるこのような施設は巡礼地における精進落としが習慣になっていたことに関係している。売春に関して、悪徳という観念そのものが日本社会には欠落していた。

 (戦後ですら、旅行業者が買春ツアーをつくるほど、東南アジアへの参加者が途絶えることなく存在したビジネスがあった事実からは、日本の男性らの破廉恥ぶりを指摘されても文句はいえない。他方、韓国のソウルにも、フィリピンのマニラにも、タイのバンコックにも、インドネシアのジャカルタにも、シンガポールにも、海外からの買春ツアーを受ける施設が幾らでも存在した)。

2.訪日した欧米人の多くは未婚の娘たちを日本の魅力の大きな一つに挙げ、日本社会に光彩を放つものと表現。かれらは「むすめ」という言葉をあっという間に覚え、しきりに使ったという。

 ただ、訪日者のほとんどが日本女性の化粧、白粉を顔から肩、胸まで塗りたくる風習と、既婚女性のお歯黒と眉落としを醜く感じていた。

 (現在でも、舞妓、芸者、歌舞伎役者などが白粉を塗りたくる映像を私は好きになれない)。

 日本女性のほとんどは、結婚後、社会的に容認されている妾を夫がもち、同じ屋根の下で同居する屈辱に耐えねばならない悲惨を指摘しつつも、中国のように纏足(てんそく)を強いられることもなく、イスラム教徒のように顔をヴェールで覆ったり、隔離部屋に押し込められたりすることもなく、自由に外出が許されていた事実は、他の東洋諸国と比べたら、日本女性一般は丁寧に扱われ、受けるべき名誉を与えられていた。

 (妻妾同居は幕府が武士階級に課したルールであり、外に囲うことはできなかった。また、妻妾同居には二人が同時にお産をした場合、一方が乳の出が悪かった場合、助け合うことができたというメリットもあった。武家の屋敷街では隣近所が同じ状態だったため、だれもが子供の頃から見慣れた風景でもあり、違和感をもたなかった)。

 一方で、「女は三界に家なし」とも言われ、「未婚時は自分の親に従い、嫁いでは夫と夫の両親に従い、子を産んでは子育てに執心し、成長すれば子に従う」というのが常識化していた。ただ、当時の日本社会では、身分が低いほど、女性の立場は強かった。

 (「女は三界に家なし」は20世紀前半までの西欧と同じ)。

 日本女性は結婚に愛を求めない。結婚は新しい人生のプロセスの一つのスタートであり、あらゆる束縛に堪えつつ、新しい人間関係を形成していく過程であった。感情よりも、義理や社会が課す伝統を重んずる精神に不条理を感ずることもなかった。

3.訪日した外国人の目に等しく映ったのは、子供が親から体罰を受ける場面に出遭うことはなかったことだ。子供が遊ぶ場面には必ず大人も入って、一緒に遊ぶという頬笑ましい姿がしばしば目撃されていた。こうした姿、光景は、子供への躾を厳しく、鞭(むち)さえ使う欧米人には驚嘆すべきものだった。

 日本の子供は一見甘やかされているように見えるが、両親を敬愛し、老年者を尊敬することを自然に教えられていた。欧米人が直接日本の子供に何かを与えても、両親の許しなくして受け取る子供はいなかった。日本の子供は大人と一緒に過ごす時間が多かったため、大人とはどういう体面を保つかを自然に体得し、必要とあらば、それを全く子供らしさから離れて実行した。

 日本の当時の玩具店はその数が多いだけでなく、品数が豊富で、それぞれに創意工夫が施されており、このような国は世界のどこにもない。

 一方、欧米人の家庭で日本人の女中やお手伝いを雇った場合、子供に甘く、スポイルしてしまうことに、欧米の親はこだわらざるを得なかった。

 日本の親は、子供が満年齢で13,4になると、それまでの姿勢を一変させ、放任主義に転ずる。

3.日露戦争後、日本の病院に収容されたロシア兵は例外なく日本の看護婦を、慈愛あふれた女神と捉え、日本女性の賢く、向上心のある、優しく、憐れみ深く、親切であることを賞賛、憧憬した。

 (にも拘わらず、ロシア兵は第二次大戦後の日本兵捕虜をシベリアの収容所に連行、世界の常識にない長年月にわたり酷寒の地で労働させ、多くを死に追いやった)。

4.日本の景色を魅力に挙げる手記も少なくない。

 チェンバレンも「日本で心を奪われるものは数々あるが、自然の美しい景観も棄てがたい。苔むす神社に影を落とす巨大な杉の樹の優美な幾何学曲線、円錐形の火山、飛び石のある渓流、一歩踏むごとに震える吊橋の架かる深い谷川。野の花がジュータンのように敷きつめられ、ウグイスやヒバリの鳴き声が響き渡り、微風の吹く高原。霧が白い半透明の花輪となって渦巻く夏の山。真紅の紅葉と深緑で交錯する谷間、高くそびえる岩壁は鋭い鋸歯状の線を描き、青空をよぎっている」と感嘆しきり。

 森林保護は当局が管理し、伐採は許可なしにはできず、伐採後は必ず植林を義務づけられていた。

 1863年(維新の3年前)に平戸から瀬戸内海に入ったアンベールは、「日本群島の最も特色ある風景の一つは、莫大な数の野鳥で、鷲、鷹、鶴、鵜、鷺、雁、鴨、海燕など」を挙げている。

 江戸は人口数からいえば大都会だったが、あまりに田園や山林、野鳥などが自然と一体となっていたため、欧米人の目に都会というイメージでは捉えきれず、大きな村といったイメージだった。

 江戸はパリやウィーンやロンドンやローマのような高楼を重ねた壮麗な都市ではなく、都市が田園によって浸透されていたため、欧米人は江戸と郊外の境い目が判らなかった。当時、このような都市は中国にも欧州にもイスラム圏にもない独特の色調を帯びたコンセプトの上にできあがっていた。

 (インドのタージマハールも建設時は同じコンセプトでつくられた)。

 来訪者は日本人の生活が自然との調和、自然を賛美する精神に基づいていることに気づく。土地のもつ絵画的な魅力について日本人は敏感。一方、同時代の欧州の農民がそうしたことを話題にすることはなかった。日本人の生活はむしろ自然のなかに露出していて、そういう状態に深い安らぎを得るという生活実態があった。オーストリアの貴族だったヒューブナーはそのことに気づき、自らも自然がもたらす癒しを味わい、「篠つく雨を眺めながら、青い畳に寝ころがっているのがどんなに気持ちよく、癒される空間だったか」について、手記に残している。

 「花もたわわな枝の下で沈思、黙考、花に寄せて一句をひねり、書き留めた紙片を枝に結びつける、こうした日本的耽美趣味は、垢抜けた悦楽」と評したのは、1878年(維新後10年)に横浜を訪れたシッドモア。一方で、オールコックは「花見で酒を呑み、泥酔したあげく、乱暴、狼藉におよぶ例も多く、その癖の悪さは御しがたく、北欧のバイキングにひけをとらない」と、花見時の日本人のマナーの悪さを揶揄してもいる。

 (かつて日本政府がアメリカに贈った桜はワシントンを流れるポトマック・リバーの岸沿いに植えられているが、枝や花を折るなどの不埒を働く人はいず、枝は水面すれすれにまで伸び、時期が来れば、文字通り「桜花爛漫」の景色を愉しむことができる)。

 植木屋、庭師の出現、園芸書の出版は日本が世界にさきがけている。椿や桜の品種改良は室町時代に始まり、江戸期に入ると、桜は4,5百品種、梅は2百品種の多きに達していた。当時の江戸には、六義園や小石川後楽園クラスの庭園が300は存在した。

 (現在、日本のあちこちで見られる松、梅、竹はすべて中国からの持ち込みであり、日本人は松竹梅のもつ独特の姿形に趣を感じたのであろう。静岡県の三保の松原で有名な「羽衣伝説」はつくりものだということが判る)。

 日本人の四季の景物を愛でる姿勢は、むかしからの花鳥風月を愛でる延長線上にある伝統。

 長崎に到着したホジソンの夫人は蛇が家屋内へ侵入することに驚き、ムカデが肩を這ったり、ドレスや靴のなかにいたりし、結局、悲鳴を上げながら、剣で殺したものの、「自分のしたことの恐ろしさに気が遠くなりそうだった」と述懐した。

 (返還直後、沖縄の那覇市に日本本土から赴任した人がいたが、その人の家で奥さんが料理しているとき、ハブが屋内に侵入してきたことに気づかず、咬まれ、病院で血清を打たれてことなきを得たものの、彼女は即座に本土に帰ったという。とはいえ、昆虫や爬虫類の害をいうのなら、東南アジア一帯、南米、アフリカのほうがはるかにひどい状態だったのではないか)。

5.江戸の街には野良犬が多かった。犬の背に傷のあるものも多く、明らかに、刀の切れ味を試された跡を残していた。ことに、犬にとって見慣れぬ欧米人に吠えかかるケースが多かった。

6.日本の馬は小さく、ポニー並みだが、きちんとした訓練を受けていず、人の肩を噛んだり、後脚で蹴ったり、癖が悪い。日本人は虚勢の技術も、訓練方法も知らなかった。(ハリスも同じ感想を述べている)。

7.日本人は馬や牛や豚を屠殺することに抵抗感が強く、(マタギを職業とする人は別として)肉を食す習慣をもなたかった。日本人は鶏を飼ってはいても、卵をいただくだけで、鶏をしめて肉を食べることはしなかった。欧米人が動物を買いたい意向を伝えても、屠殺するためなら売らないと頑強に拒絶した。日本人にとって、家畜は家族の一員であり、仕事を一緒する仲間との捉え方をしていた。朝鮮人ですら犬を食っていたのに。

 (肉食から遠かったために体格が悪く、チビだった。そのDNAはなかなか消えない)。

8.「日本人は一般に死を恐れない。この世からあの世に移るだけという信仰が根づいているように思われた。生まれた以上、死の訪れはいずれやってくるという諦念とともに生きているように感じられた」とは、カッテンディーケの言葉。

 「日本人は火事で家屋が消失しても、特段の悲壮感を表情に出すことはなく、また、火事に慣れているようで、立ち直りも迅速だし、地域全体で救援する姿勢も徹底していた。江戸には、大都会特有の冷淡さがまったく見受けられなかった」とも。

9.来訪者の目に、日本人が宗教心の薄い民族である姿が映りはじめる。むしろ、迷信へのこだわりが強く、良い日、悪い日などを決め、移動には方位に関して神経質になり、寺社へのお参りも男は行かず、ほとんど女性と子供の姿ばかりが目についた。

 教養ある日本人は仏教と、それにくっついている僧侶をバカにして、僧侶のバカバカしい説教や説法などを聞きたくはないし、そういう対象になるのは自らの威信を下げることになると公言する。ことに、武士階級者には無神論者が多いように感じられた。(僧侶のふてぶてしい態度、檀家を支配するといった風情などから、イメージを悪くした歴史がある)。

 (イギリスだって、現在では、50%以上が神の存在を信じていない。日本人の寺社参りの根底には、ご利益主義があり、商売繁盛、健康回復などを賽銭を投げてお願いするという安直なもので、信仰といえるようなレベルのものではないし、僧侶らの教養レベルが低いという実態もあっただろう)。

10.リンダウは、「文明とは憐れみも情けもなく行動する抗しがたい力。それは暴力的に押しつけられる力であり、その歴史のなかにいかに多くのページが血と火の文字で書かれてきたかを数えあげなければならぬかは、ひとの知るところである」と、新しい機械文明が旧文明を押しつぶす必然性に言及している。

11.多くの日本人の道徳の質について深刻な疑念を異邦人は抱いた。それは商人らのイカサマぶりは許せるにしても、幕吏の常習的な嘘、虚言癖については許せないということだった。ハリスもオールコックも、この幕吏らの悪徳に怒りを隠さなかった。

 (幕藩体制が危殆に瀕している時期、幕府とハリスらとの間に介在した幕吏の脳裏には、幕府がリーダーシップがとれた時代のように、迅速に物事を決められない事情が背景にあったことをハリスらは認識していなかった。かつてなら、大老、老中らを中心とする合議制で意思決定できることが、この時期、大大名ら外様の意向を確かめるために、それまでに不必要だった根回しに追われたため、正直に状況を説明するわけにもいかず、虚言を弄することで時間の引き延ばしを図りつつ意思決定を模索したのだと憶測する。ただ、意思決定者が即座に表に立たないという習慣は日本社会の特徴ではあった)。

 「あとがき」に、「幕末の日本文明は消え去り、逝ってしまったが、では、現在の日本人が過去とは無縁のまっさらな存在かといえば、それはありえない」と作者が言っているが、異論はない。

 この労作が今後とも、多くの人の目に触れることを祈ってやまない。ことに、全編に掲載されている来訪者が描いた風景画や人物画は当時の日本を十二分に表現していて、書かれた内容の理解を助け、かつ深めてくれる。

 ただ、本書はペリーが来航、開国後の幕末と明治初期に訪れた欧米人の手記を渉猟しての著作であることを念頭に入れながら読書することをお勧めする。

 それ以前に、鎖国が生んだ悲劇も忘れてはならないだろう。鎖国時代、当然とはいえ、造船の規模にも管吏の目が光り、大型の造船はできず、小型であるがゆえに、常に有視界航行という限度での操船が強いられ、ために、とくに紀伊半島沖での遭難が頻発、アメリカの船に助けられたジョン万次郎やロシアの女帝、エカテリーナの後押しを得て帰国できた大黒屋光太夫らのような幸運な例が僅かにありはするが、多くが漂流の末に死に至っている。たとえ幸運にも帰国できても、長期にわたる入牢を甘んじて受けざるを得ず、厳しい吟味を受けるなど悲劇が繰り返されたことなども忘れてはならない歴史のひことまである。

 つい最近、NHKで放映した、伊能忠敬の地図づくり、間宮林蔵のサハリン探検とアムール川沿いまで侵入しての中国、ロシアの動向調査など、いずれも吉村昭の小説で読んでいるが、当時、サハリンは日本の領土として、幕府の直轄領として考えられていたにしては、領土並みの防御態勢を採ってもいず、そういう腰の抜けた姿勢が今日の「北方領土問題」を残す結果を招来した遠因をなしていると私は思っている。北海道ですら、南端の松前に松前藩を置いただけで、北海道全体を監視させ、責任を負わせたのは、領土というものへの思考がいい加減な感じが抜きがたい。それこそが島国根性だといわれればそれまでだが。

 さらには、ロシアには恒常的に南への欲心が強く、ためにオスマン・トルコとのクリミヤ半島を土俵とした数度にわたる戦もあり、日本本土から見れば、北海道やサハリンは酷寒の地ではあっても、ロシア側から見れば、温暖な気候に恵まれた南の土地であり、両国の首都の置かれた気候の相違から、サハリンを含む、北海道周辺の土地への執着心にも大きな相違があったことに、幕府も明治期の為政者も確実には認識していなかったのではないか。

 それが証拠として、ロシア側はサハリンにも、間宮林蔵が達したアムール川にも、逸早くロシア人を派遣し、本来は中国の支配地域だった土地まで、ロシア領として奪取した事実を挙げることができる。ことに、北方四島はロシアのもつ領土のなかでは特段に温暖な地域であり、漁業に適した海でもあり、かれらが簡単に返還するとはとうてい思えない。

 また、明治時代には、山県有朋や井上馨らの疑獄事件もあり、薩長を軸とした新政府が必ずしも、民のための政治に邁進したとは限らない。

 

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