アメリカ歴史地図(パート1)/マーティン・ギルバート著

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アメリカ歴史地図

「アメリカ歴史地図」
マーティン・ギルバート(Martin Gilbert)著 池田智訳
原題:「The Routledge Atlas of American History」
2003年12月 単行本として初版   明石書店刊
(現在、絶版になっている可能性が高い)

 地図と数値で追う「アメリカの歴史」、こういう本を読むのは初めての経験だが、非常に面白かったし、啓発された。本書にはアメリカのみならず、中央アメリカも、南アメリカも含まれている。書評というより、歴史の記録なので備忘録とし、文章が長くなるため、本ブログを「パート1」とし、次に「パート2」「パート3」と分けて書く。

アメリカ国旗

 私はアメリカを舞台に長期にわたって仕事をした経験をもつが、アメリカという国を特に好きだと思ったことはない。

 しかし、アメリカという国がどのような歴史をたどって現在に至ったか、ことに西欧人(イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダなど)のキリスト教国が大航海時代、植民地争奪戦を通じ、どのくらい先住民を殺戮したか、そういう歴史に興味をもって本書を読んだ。文が長くなったのは、そのためだが、どのようなアングルからでも、南北アメリカ大陸、中央アメリカに関心があったら、ぜひ読んでみて欲しい。

 アメリカには何度も往来し、多くの都市を一人で歩いた経験があるにも拘わらず、歴史については、西部劇レベルの知識しかなく、ネヴァダ州の砂漠越えで多くの犠牲者が出、それゆえにその土地が「Death Valley」(デス・バレー/死の谷)と呼ばれるようになったことくらいしか知らなかった。

 アメリカはモータリゼーションの先駆者だが、最近、20年間に100万人が交通事故で死亡、殺人事件では(銃社会でもあるがゆえに)10年で25万人が死亡、エイズでは(ホモ嗜好が多いことから)10年で17万人が死亡したとある。

 時代を追ってみると、まず紀元前5万年から前1000年くらいの時期に、ヒマラヤの北部に住むモンゴロイド集団がベーリング海峡を渡って北米大陸に至り、中米を経て南米へと長い長い旅をし、足跡を残した。だから、アメリカを最初に発見したのは、やはり、間違いなくモンゴロイド。

 西暦1492年以前、北米の先住民族、いわゆるインディアンらはトータルでおよそ100万人、メキシコ以北の全米に広がって居住していた。

 西欧の歴史家からの概観だから、証拠の有無については触れられていないが、本書に出てくる数値には信憑性があると信ずる。

 800年から1015年、スカンジナビアのバイキングがアイスランドを経由、クリーブランドの南部を通過、ニューファンドランド海域からセントローレンス川、ノヴァスコシアに達している。入植地はニューファンドランド島とノヴァスコシア。1450年までに入植地として存在はしたが、人跡は1300年頃までには絶えていたといわれる。

 1450年-1499年、ジョン・カボットはアメリカ東岸からノヴァスコシアに到達、1497年にラブアドルを探検したが、これは公式な記録。

 1451年-1506年、クリストファー・コロンブスが都合4回にわたる渡海を決行し、カリブ海に浮かぶイスパニオラ、ジャマイカ、バハマ諸島、プエルトリコ、中央アメリカのホンジュラス沿岸、トリニダードトバコ、キューバ、南米パール海岸などを発見、「西インド諸島」と間違った情報を西欧にもたらした。

 1531年-1557年、ジヤク、カルティエは1534年にセントローレンス川に入り、ニューファンドランドの南部沿いに引き返した。

 1513年、ヴァスコ・ヌ二エスデ・バルボが最初に太平洋を肉眼で見た。

 1520年以前、スペイン人はメキシコ湾の沿岸を探検、調査した。

 
●スペインによる遠征と征服の歴史は以下:

 1513年、サンファン島からハヴァナへ。
 1519年、キューバのサンティアゴから中米のホンジュラス(マヤ文明)を征服、メキシコシティ(アステカ文明)も征服。
 1521年、フロリダ半島沿岸の探検。
 1531年から33年にかけ、パナマからエクアドル(インカ文明)を経て、リマ、クスコまで達し、全域を征服。
 1539年から42年にかけ、ハヴァナからフロリダ半島に入り、ミシシッピーに達し、現ニューオーリンズ付近に抜けた。
 1540年から42年にかけ、メキシコからカリフォルニア、リオグランデ川、コロラド川に達し、探検。
 1542年から43年にかけ、カリフォルニア半島先端からカリフォルニアに入り、太平洋に面する海岸を探検。

 以上の結果、マヤ文明、アステカ文明、インカ文明の三つの文明はスペイン人の手により(13年間の抵抗はあったが)壊滅した。これにより、中南米からジャガイモ、タピオカ、チョコレート、マホガニー、キニーネ、豆、タバコ、メイズ(玉蜀黍)、ヴァニラが西欧にもたらされ、西欧からは牛、馬、ロバ、豚、鶏、小麦、大麦、カラス麦、ライ麦、綿などがもたらされた。いうまでもないが、それらの食材とともに、西欧にしかなかった西欧の病気も持ち込み、多くの原住民を死に至らしめた。

 この当時のスペインによる活動と征服の地理的分布は、メキシコ、中央アメリカ、南米のリマ、キト、ボゴタに限られた。

 1609年に至り、スペインはトリニダード、プエルトリコ、イスパニオラ、キューバ、フロリダ、サンタフェ、ソコロ、ラパス(北米大陸西海岸、カリフォルニア半島先端)にまで勢力を拡大した。

 
●続いて、イギリスを中心とするその他のヨーロッパ人による開拓の歴史:(1526年-1642年)

 フランスはセントローレンス川から、エリー湖、オンタリオ湖へ。探検はカナダ一帯、ケベック、モントリオールにも及ぶ。

 イギリス人による東海岸のキャスティン、ポーツマス、セイラム、ボストン、プリマス、プロヴィデンス、ニューポート、ウィンザー、ニューへブンの開拓。

 オランダはマンハッタン島を先住民から24ドルで買い取り、ハドソン川沿いにニュージャージー州を開拓。

 イギリス人はさらにセントメアリーズ、ジェイムズタウンを植民地化、デラウェア川から東部へと開拓を進める。

 スウェーデン人はクリスティーナを開拓。

 1612年ー1646年、イギリスよりピューリタンの移民が始まる。主に、北米大陸東海岸のニューイングランド、メアリーランド、ヴァージニア、大西洋からカリブ海に散在するバミューダ、バハマ、セントキッツ島、プロヴィデンス島への移植。

 ピューリタンの出身地はイギリス東部が多く、北部、南部からも貧しい階級者から移民が出た。

 
●16世紀から17世紀にかけての先住民との関係:

 東海岸にはピークォット族、背後にナラガンセット族、モヒカン族がいたが、ピークォット族がもっぱらオランダを相手に交易をしていたことを不快としたイギリスはこれを討伐、500人を惨殺した。背後の二部族は支援に回らなかった。

 17世紀後半、フィリップ王による武装解除要求が先住民族の反感を喚起し、支配下にあったワンパノアグ族は近隣のナラガンセット族、二プマック族、ボダンク族と、1671年に同盟を結んで抵抗したが、1675年、ポカセット族を沼地に追い込み、ナラガンセット族と敵対、1676年1月には先住民族の反撃も虚しく、秋までにはすべて敗北、その地で殺されなかった者は他の土地へ逃避。

 上記は、モヒカン族を含め、現在のマサチュセッツ州、メイン州、ニューハンプシャー、コネクティカット州、ロードアイランド州あたりでのことで、当時は各国ともに東海岸に近いエリアに固執していた。

 1721年、全米に天然痘が流行、7人に1人の割合で死亡者が出た。

●1624年ー1774年にかけて植民地化したエリアは以下:(先住民の追い出しに成功したことを意味する)

 1624年、ヴァージニア
 1629年、ニューハンプシャー
 1632年、メアリーランド
 1636年、ボストン地区
 1662年、コネクティカット
 1663年、ロードアイランド
 1664年、ニュージャージー、ニューヨーク
 1681年、ペンシルヴァ二ア
 1682年、デラウェア
 1691年、マサチュセッツ、メイン
 1713年、ノースカロライナ、サウスカロライナ
 1732年、ジョージア

 
●18世紀から19世紀にかけてのスペインによる米大陸(主にカリフォルニア)への進出:

 1769年から西部への本格的な侵入が始まり、1798年にはロスアンゼルスを建設。
 1833年、メキシコ人がスペインの置いた伝道区の権限を掌中にしたため、メキシコ戦争が起こった。

 スペイン人は建設した都市にそれぞれスペイン風の名前をつけ、伝道のための軸とした。サンディエイゴ、サンミゲル、サンアントニオ、モンタレー、サンノゼ、サンタクララ、サンフランシスコ、サンカルロス、サンタバーバラ、いずれもそうした手法の一貫のなかにある。

 (キリスト教の伝道者がまず入国して、後背から軍隊が入り、侵略するパターンは、日本にいたフランシスコ・ザビエルも同じ指示を本国から受けていたことが最近の情報公開により判っている)。

 
●1848年における、カリフォルニアの人口比は:

 スペイン系メキシコ人住民 24,000人
 メキシコ人        12,000人
 アメリカ人(商人/開拓者)   500人
 と、信じられないほど少なく、アメリカ先住民であるインディアンの数が示されていない。

 
●1702年ー1713年、イギリスのアン王女時代:

 イギリスはフランス、スペインに宣戦布告、南部においては有利に展開したが、北部ではフランス軍と先住民族との連携軍を駆逐できず、1713年のコートレヒト条約の締結に至るまでには、漸くフランス人を降伏させ、ニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾などの地域を得た。

 ヨーロッパからの入植はこれらイギリスが抑えた地域に集中、新しい都市、ボルティモア、リッチモンド、ノフォーク、チャルストン、ペンサコーラ、サンアントニオ、ナイアガラ、ケベック、モントリオール、五大湖周辺、ミシシッピー川沿いに多くの都市、街を築いた。

 1763年、英仏戦争の結果、カナダ、アカディア、ニューオリンズを除くミシシッピー川以東の全域がイギリスの支配下となる。スペインはフロリダを放棄、代わりにキューバを得た。

 1752年、アフリカのケープコーストカースル(英国領)を中間拠点としつつ、金、胡椒、黒人奴隷が、アメリカからは鉄製の通貨用の延べ棒、ラム酒などが輸出入された。(三角貿易)

 1775年、対英独立宣言、フランスの後押しもあり、1783年、アメリカ合衆国として独立を達成。

 1779年ー1782年頃、アメリカとして認められていた地域はミシシッピー川の東側、フロリダ州はスペインに戻され、セントローレンス川からエリー湖までと、ヒューロン湖の半分はフランス領とされた。

 (1783年時点では、スペインが支配下に置いたカリフォルニア、テキサス、ネヴァダ、コロラド、オレゴンなど、ミシシッピー川以西の土地の方が独立を果たしたアメリカ領土よりもはるかに広大だった)。

 
●1790年の移民人種構成:

 イギリス人    48%
 アフリカ人    20%
 スコットランド系アイルランド人  8%
 ドイツおよびスイス系   7.5%
 スコットランド人 6.5%
 オランダ人    2.5%

 1801年-1815年までバーバリー(蛮人)戦争が地中海であった。地中海に荷を運ぶ船舶がしばしば海賊に襲われ、強奪、虐殺の被害を受けたため、アレクサンドリア、トリポリ、アルジェなどの拠点に隠れている海賊船を拿捕、破壊した。1805年、トリポリと和平を結んだあとは、バーバリー諸国にアメリカが進貢し続けたという、情けない歴史もある。


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