平家物語/作者未詳

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平家物語

「平家物語」 作者未詳
角川文庫ビギナーズクラシックス  2001年9月初版

 「平家物語の登場人物は源氏物語や枕草子のような貴族階級ではなく、武家の物語であり、現代の生活にも接続し得る点、登場者の喜怒哀楽に共感、同調できる」という解説者による説明には納得がいく。確かに、時代は貴族社会から武家社会へと構造が大きく変化していく時代であった。

 「この作品のキーワードは日本人の好きな無常観と、ものの哀れにある」との解説に異論はない。ただ、本書には厖大な類書が存在することは初めて知った。原作そのものがまず存在し、多くの語り部や琵琶法師が琵琶を奏でながら語り、時代が移るにつれ、脚色にバリエーションが生まれ、人々が好むような誇張や荒唐無稽な内容を含む物語へと、歌舞伎や能へと、変化していったのだと思われる。とはいえ、和漢混合の文章は現代日本語の直系の先祖にあたるとの指摘は当を得ている。

 読みはじめると、高校生の頃に記憶した「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」以下がすぐ目に入り、哀調を帯びた七五調の美文が忘れがたく想起される。

 日本史家の井沢元彦氏が指摘しているように、この国では、権力者が滅びると、その魂が怨霊となって勝者に祟りをするという迷信が色濃くあり、ために怨霊を慰撫する目的で寺を建立したり、碑を立てたりするのが通例だが、本書の作成そのものも平家一門の霊を慰める目的で書かれたものだとは初めて知った。

 平家の滅亡は源平の戦い以前に、清盛らによる平家一門に連なる者の横暴が朝廷の心を平家から離れさせていたことに最大の原因があることを作品自体が暗示しているが、私個人としては、清盛が源氏の頼朝の父である義朝を切腹(この国における最初の切腹)させながら、子供である頼朝と義経を殺さず、助命に応じたことが、滅亡自体は必然だったとはいえ、時期を早めたと思っている。

 聖徳太子の十七条の憲法に「人みな心あり。心には各々執あり。彼を是し、我を非し、我を是し、彼を非す。是非の理(ことわり)、誰かよく定むべき。相共に賢愚なり」とあることを本書によって学んだが、さすがに高位にありながら人を知る人物だったことがよく判る。これは清盛の息子、長男だった重盛を評価する目的で引用されたもので、解説者は「賢愚に絶対の境界はなく、評価する立場によって相対的に変化すると説く重盛は現実的で合理的、包容力のある成熟した柔軟な知性をもつ人物だった」と言う。

 重盛が吐いたという「孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず」という言葉も心を打つ。

 その重盛が43歳で病死、清盛に向かって諌言する唯一の人物を失った時から、平家の凋落が始まる。

 私は子供の頃に祖父に読み聞かされた講談で、平家の武将、能登守教経(のとうのかみのりつね)の勇猛果敢さが記憶に強く残っていたが、本書を読むことであらためて知ったことは、「義経の八艘飛び」が身の軽さを表現したものではありながら、八艘飛びの目的が教経から逃げるために飛んだのだということで、これは初耳だった。

 さらに、驚いたのは、熊谷次郎直実が平家の武将、当時17歳の美少年だった平敦盛(たいらのあつもり)を泣きながら首を落とした話が能や歌舞伎で盛んにドラマ化され、新渡戸稲造の「武士道」にまで紹介されているが、首を切る前に顔をよく見ると、薄化粧をし、お歯黒をし、腰には一本の笛を差していたとあり、敦盛のみならず、平家一門の者が相当に公家かぶれしており、鎧、兜で身を固め、馬に乗って戦場に出ていくイメージとは遠くかけ離れた印象を強めている。頼朝が鎌倉を拠点に幕府を開いた理由は平家の犯した「公家かぶれ」あるいは「雅(みやび)」という京風から離れて武家政治を確立することだったことが、この一件からもよく解る。

 熊谷直実が敦盛の首を切る直前、泣く泣く「自分はいずれ出家し、あなたを供養する」と約束したが、出家したことは事実とはいえ、真実の理由は戦後、叔父との領地争いで、訴訟に破れたために出家しただけのことで、平家物語の語り部たちはそういう部分はカットしてしまい、すべてを美談に、聞く者、見る者が泣けるように、感動できるようにでっちあげてしまったのは、この国特有の好みといっていいだろう。赤穂の四十七士のドラマにも、同じことが言える。

 当時、使われた日本馬にしても、いわばポニーであって、二十キロ以上の武具を身につけた武将を乗せて疾駆すること自体、無理があったように思われる。源氏の畠山重忠が義経に従って、「ヒヨドリ越えの坂落とし」をするとき、馬の前足を肩に載せ、馬をいたわりつつ降りた話も講談に出てくるが、馬がサラブレッドクラスのサイズだったら、こうはいかなかっただろう。

 また、義経といえば、古来、この国の人々にとって常にトップランクに入る人気者だが、ちょっとしたことに怒ったり、総指揮官でありながら、家来筋の梶原景時と先陣を務めることで喧嘩したり、威勢を張る言辞を弄したり、どう考えても、器量が小さく、多くの部下を統率する武将としての能力に欠け、人間関係において大人としての配慮、判断に悖(もと)る人物のように思われる。こういう人間の末路に憐憫を覚え、脚色して、人気者に仕立てるのも、この国特有の性癖ではなかろうか。

 「念願を果たす」ことを「素懐を遂げる」、「ばか者」を「嗚呼(おこ)の者」、「灰色」は「鈍色」と当時は言っていたことを知ったが、「涙を流して」を「涙を流いて」との言葉使いに、祖父がそのように発語していたことを思い出したが、静岡県あたりに方言として残っているのではないか。

 補遺に「落人部落」が示されているが、平家が滅亡する前は源氏が敗れているのだから、源氏の落人部落も在って不思議はない。また、平家落人部落の南端は俊寛僧正が流された鹿児島県の硫黄島(本書では鬼界が島)だが、石垣島の古い墓標に明らかに本土の人間の姓名があったり、宮古島には藤原姓があったりすることを沖縄で仕事をしていた頃に知り、思わず「平家の小心者がここまで逃げたか」という言葉が口を衝いたことを思い出す。むろん確証はないが、藤原姓は由緒のある姓ではある。

 「平家物語」とはいえ、平家に連なる人間すべてを意味するわけではなく、ここでいう平家とは朝廷側に組した平清盛一族を中心とする為政者サイドをいう。頼朝側に加担した武士にも多くの平姓がいた。

 解説者は、「本書の出現はこの国の政界、宗教界の実態を人々に知らしめ、源平の戦いはほぼ全国に及んだため、日本人に日本人であることを自覚させる機会になった」と結んでいる。


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