旗本夫人が見た江戸のたそがれ/深沢秋男著

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旗本夫人が見た江戸のたそがれ

「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」
深沢秋男(1935年生)著
文春新書  2007年11月初版

 主人公である旗本の夫人は名を井関隆子といい、当時、東京の九段下に在住していたが、本書は彼女が残した日記の内容がきわめて論理的で、感情を抑えた社会批判に終始している点に価値を見出し、作品として著すことを決意したらしい。

 主人公がこのような内容を書き残せた理由は、親戚はもとより子や孫が為政者に近いところで仕事をしていたことで、城中で起こったこと、ニュースなどが比較的正確に、かつ迅速に耳に入ったという立場が利用できたことにある。

 史実の正確さは作者が言う通り重要なことではあるが、井関隆子が残した日記は明治維新を迎える1868年よりも28年前から5年あまりの出来事に絞られ、歴史的にそれほど重要な部分ではなく、作者が力むほどの内容とは思えなかった。

 該当する5年間に起こったことといえば、水野忠邦による天保の改革、江戸城の火災、印旛沼から江戸に水運を作るための難工事の失敗、将軍による久しぶりの日光参り、将軍家斉から家慶への代変わりに尽き、井関隆子の筆の冴えは感じられても、歴史の内容を伝える点については対象となった歳月がこの才媛にとって不利に働いたように思われる。

 本書を通じて学んだことといえば:

1.江戸末期は過去からのしがらみが強く、儀式や決まりごとなどにガチガチに束縛されていた。

2.大奥女中は、家斉が大御所時代、西の丸に300人、本丸に350人だった。

3.篤姫(朝廷から江戸に下った姫)のお世話係りは井関隆子の孫だった。

4.町火消しによる消化能力は評価さるべきものがあるが、かれらによる盗難も多かった。

5.城中に火事が起こっても、「火事だー」と叫ぶことは禁じられていた。理由はボヤなら簡単に消すことができるから、ことを大事(おおごと)にしたくないとの配慮からだが、これが天保15年5月の江戸城の火災で犠牲者を多く出す結果を招いた。しかも、大門が内側から開けられず、門の傍で多くの人が折り重なって死んだという。

6.楽しみが僅かだった時代、祭りや花火は庶民のみならず、武家にとっても、大変な楽しみだった。だが、当時は両国の花火より佃島の花火のほうが規模が大きかった。日本の花火は1613年の鉄砲伝来の頃に始まり、打ち上げには幕府の許可が必要だったが、全国的な規模でいうと、静岡が一番だった。これは家康が駿府城に大御所として存在したというだけでなく、三河鉄砲隊の影響があったという。

7.1836年から幕府は諸大名に対し、清国とイギリス間の阿片戦争の情報が伝えられたことから、火砲の必要性を痛感、大砲の製造を命じた。佃島の花火が規模が大きかったのは、そうした社会的背景もあり、火力の演習の余技として行なわれた。(幕府は清がよもやイギリスに負けるとは夢思っていず、この戦争に関する認識が中国を舐めてかかる心理を生み、明治に入ってから、赤子の手をねじるように日清戦争に勝ったものの、あまり褒められた行動ではない)。

8.近松門左衛門が1703年に「曽根崎心中」を書いて以来、心中が増え、幕府をこれを「対対死」と改め、厳しく取り締まったが、効果はなかった。恋愛、結婚の自由がなかった時代の名残。

9.一人の人間が女性器、男性器の両方を持っている、いわゆる「ふたなり」の人間が千葉県の市原市にいたが、平安朝時代の記録では「ふたなり」を「ニ形」と称していた。千葉県の「ふたなり」の人間は女性として男性のところに嫁入りしていたが、あるとき雇い女を手篭(てご)めにし、妊娠させてしまったという。同じような話は中国の史記にも出てくる。

 残念なのは、井関隆子という賢い女を、ペリー来航と明治維新にぶつけることができなかったことだ。


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