壁/安部公房著

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かべ

「壁」 安部公房(1924年-1993年)著 新潮文庫
1969年文庫化初版、すでに85刷を数えている。

 本書には「S・カマル氏の犯罪」「バベルの塔の狸」「赤い繭」の三篇が収められているが、いずれも1950年から1951年の2年間に、要するに半世紀以上前に発表された作品集。

 この人の作品では「砂の女」を読んでいるだけで、私の嗜好とは合わないことは判っていたが、あえて本書を手にしたのは、年数を経て読むことで感想に変化が生まれる可能性を期待したから。「砂の女」も本作品と同様、よくいえば非凡、奇抜、特異、異質、悪くいえば奇怪、奇妙、奇天烈、荒唐無稽と、多彩な形容が可能。とはいえ、単なる「ホラー」でも「サスペンス」でもなく、あくまで「文学書」である。

 この種の発想は平均的な人間の頭脳からは出てこない。異常ともいえる神経の所有者からしか発想されない内容。

 本作品は正直いって「砂の女」以上に不快感が残った。

 解説者によれば、「著者は砂漠的なものが持つ魅力に惹きつけられ、憧憬していた。それが『砂の女』」の発想にも繋がっている。壁に遮られた外部と内部の世界は同質であり浸透可能だという発見が、一見グロテスクに思える本小説へと昇華しているが、作者は現代社会のもつあらゆる事物、事象、知己や家族関係にすら執着をもたず、それどころか社会的な不安定さ、不条理さにも煩わされず、現代社会はあくまで未来へ向かって無限の可能性をはらんだ場だという認識をもち、その認識を土台にこのような作品が生まれた」という。

 言葉を換えれば、寓話的な(風刺的なといってもいい)センスで、孤独な人間の実存的体験を描き、その底に価値の転換の方向を探った作品だとするが、非現実的な、独りよがりの世界観のなかで愉悦と快楽に浸っているのではないかという感も拭えず、読者に「ついれこれるか?」と揶揄している印象も否めない。

 自分の名前を忘却した男が父親に会っていながら、名を確かめないという筋書きにも納得がいかないし、架空の、荒唐無稽な、いずれかといえば、狂気を交えた脳でしか、こうした無味乾燥としかいいようのない作品は書けないのではないか。

 とはいえ、この異質性こそが海外における名声と評価を得る礎となったことは理解できる。

 読後しばらく考えた末に、作者が主張する外部と内部との同質性、浸透性こそは、宇宙そのものを指しているのではないか。そして、彼の指摘は当たっているのではないかという気がしきりにした。ただ、未来に期待する姿勢は理解できない。1000年前より現在のほうが地球ははるかに汚濁にまみれ、環境は破壊されているのだから。

 正直いって、この種の作品は私の感受性とは相容れない。芥川賞に恵まれたこと自体にも疑問を感ずる。安部公房フアンには申し訳ないが、二度とこの人物の作品には触れたくない。ということは、残念ながら、私には安部公房氏の作品を受けいれる感性が欠落しているということになる。

 2006年までに、85回の印刷を重ねていることも腑に落ちない。どこの誰がこんなつまらない作品を手にとるか、不可解としか言いようがない。


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