人間はどこまで動物か/日高敏隆著

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にんげんはどこまでどうぶつか

「人間はどこまで動物か」 日高敏隆(1930年生)著
新潮文庫  2006年12月初版

 作者は動物学の学者であり、現在「総合地球環境学研究所」の所長をしている人物で、内容は40の超短編を並べたエッセイだが、上記タイトルはそのうちの一遍から採ったもので、タイトルが内容の全貌を表現するものではない。

 ただ、学者としてしばしば遭遇する事象への断言といった顕示欲があまり見られず、穏やかさ、優しみといった印象が強いことにむしろ驚いた。

 以下は気になったところを列記したが、難しい専門用語はできるだけ避けている点、それぞれ面白く読ませてもらったことを付記する。ただ、言葉はある程度、私流に換えた部分のあることをお断りしておく。

1.ギリシャに行っても、クレタ島に行っても、マレーシアに行っても、日本の夏に耳にする蝉の鳴き声には遭遇しなかった。日本が蝉の国であることを認識した。(作者は蝉の名を挙げているが、クマゼミとツクツクボウシが抜け落ちている)。

2.鳥たちは川で魚を捕食し、陸上で糞をして草の肥料とする。カバは陸に上がって草を食べ、水中で糞をする。魚はカバの糞を食べて、濁った川を清流に戻す。そこにも生物相互の生態系による循環が存在している。

3.「異常気象」という言葉に最近しばしば遭遇するが、「正常気象」というものがかつてあったのだろうか。どちらかとえいば、毎年が異常で、それらの平均値が「平年並み」というに過ぎず、我々が平年並みを望み過ぎているきらいがある。日本国内でも、むかしから「桜や梅の狂い咲き」という言葉がある。

4.北極の氷は確かに溶けているが、大昔、北極のスヴァルペール諸島には樹木が鬱蒼と茂っていた証拠がある。それは地中に眠っている石炭で判る。「地球の温暖化」に関しては、早々に手を打てという議論もあれば、単なる地球の循環だと主張する学者もいて、何が真実なのか、微妙な問題を含み、不分明。

5.どの国家でも、国がやろうとしている教育はその国の支配者が自分たちの権力を維持しようとするための人材をできるだけ効率よく育てようとしているだけに思える。すべての国の教育がそうであるならば、新しい視点を得るための学問は一体どこの誰がやるのか。

6.開発、改造、有効利用、そんなことばかりを考えていた頃の発想は今から思えば貧困きわまりないものだった。

7.腐らないプラスティックに世界中が飛びつきながら、今は腐らないことに人類は困惑している。(建築家がこんなに便利なものはないと喜んでいたアスベストが廃棄処分になっているのと相似の関係にある)。

8.絶滅に近い種をどうやって守るか、貴重種を守ろうとすると、その貴重種ばかりに目がいって、その種が他の多くの生物との関連のなかで生きている事実を見落としがちになる。細菌や黴だって、関係があり、無視できない。(とはいえ、外来種が日本の固有種を食い、絶滅するのを指をくわえて見ているわけにもいかない)。

9.人類が営々と築きあげてきた文化は自然との対決の上に生まれたものだが、対決している自然からは常に反作用がある。その反作用に人間の文化が再び対決する。こうして自然と人間とのあいだには数限りない絶えざる相互作用の環が人間出現の当初から存在していた。それがいま「地球環境問題」という、どうにもならない形をとって顕在化している。

10.あらゆる種類の生物が子孫を残すという点では全く同じだが、やり方はそれぞれ全く違う。「人間はどこまで動物か?」という問い続けるのは常に一本のスケールの上で到達度を問題にしようとする近代の発想の呪縛がある。

11.花粉症は昔はなかった病気。英米では1830年まではなく、日本では1950年までは症状を呈する人の数は無視できる程度だった。花粉症のことは今でもよく判らない。

12.蛍は世界中に200種いて、そのうち50種が日本に生息。普通の蛍は幼虫が陸上に棲み、カタツムリや鈴虫を食べて育つのに比べ、日本の源氏蛍も平家蛍も幼虫は水中に棲み、貝を食べて育つ。川は貝が育つ程度に適度に汚れていることが望ましく、深すぎても、浅すぎてもいけない。かといって、杉林が両岸を覆い尽くしている川も、蛍は好まない。

13.ギリシャのアリストテレスは「蝉の夫たちは幸せである。なぜなら、かれらの妻たちはしゃべらないから」と言ったが、鳴くのはオスだけで、その代わりに、メスはオスの鳴き声から判断して伴侶を決める権利をもつ。むかし、昆虫の研究で名高いファーブルは蝉を黙らそうと、そばに言って大声を出したが、蝉が鳴きやむことはなく、それではと大砲を撃ってみたが、それでも鳴きやまない。ファーブルは蝉には聴覚がないと結論したが、現在ではその結論は誤りで、蝉の聴覚範囲が違うだけというのが正解。

14.世界の多くの土地の人々は草が生えないことと戦ってきたが、日本人だけは草の生えることと戦ってきた。このことは日本の美学との密接な関連を示唆している。「八重むぐら、茂れる宿の 寂しさに・・・」という古歌もそういううちの一首。ただ、日本人は雑草の懸命に生きる姿を愛でることはなく、必ず抜いて排除する対象にしてしまう。「自然との共生」というお題目とは裏腹に。

15.農業が食料を供給し、これが人口増加に結果し、農業の拡大を必然とするという悪循環に陥っている。旧ソ連邦時代、アラル海が消滅したのも農業を拡大したために惹起された悲劇の一つ。塩分だけになったアラル海から水は採取できず、水性生物は全滅、農地にした土地は広大な荒地と化した。

 読了後の印象だが、本書のタイトルは「人間はどこまで動物より性悪か」が適切だったように思われた。


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