江戸の旅日記/ヘルベルト・ブルチョウ著

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江戸の旅日記

「江戸の旅日記」 ヘルベルト・プルチョウ( Herbert E. Plutschow/1943年スイス生)著
集英社新書  2005年8月初新書化

 著者は現在コロンビア大学で日本中世旅文学の論文で博士号をとり、教鞭に、研究に日々を過ごしている。

 かつて、司馬遼太郎の「ニューヨーク散歩」を読んだ折り、ニューヨークで日本文学を研究しているアメリカ人研究者との会話が出てくるが、その場面を思い出させた。

 スイス生まれの西欧人が、日本文学、ことに徳川時代の吉宗将軍以降の、闊達な紀行文を研究し、日本人である私が逆に教えてもらう立場にあることに、奇妙なというだけでなく、恥ずかしい気分に陥った。

 本書は、かつて歴史で習った日本江戸時代の傑作の名だけは記憶したが、それぞれの業績にまでは勉学の幅が広がらずに、現在にいたって、アメリカに帰化したスイス生まれの人間からの数々の指摘を受け、なかにはこれまでに経験したことのない新鮮な洞察も含まれていて、学ぶことが多かった。

 採り上げられた人物としては、「外が浜風」を書いた菅江真澄もその一人、飢饉に見舞われた地方の見聞を記し、あわせて地方領主の悪政を批判している。彼は専門的な教育すら受けていなかったが、アイヌの実態、アイヌの方言など、事細かに記述、驚くべき精密さでアイヌ民族について書き遺したおかげで、後世の学者が大いに助かったといい、柳田国男は「日本人文学の父」と呼んだ。

 古川古松軒(1726年ー1807年)も、地方の飢饉が全国民の問題になり得ることの認識から、民衆への同情心をありのままに書いている。また、秀吉朝鮮出兵、明を討ち取るという考えには地理的な知識も情報もなく、無益な行動は多くの人命を失わしめるだけに終わったと批判している。(予め、敵の実態を調べない姿勢は、太平洋戦争にまで継続している。元寇の乱のときですら、朝廷も鎌倉幕府も、敵の進路の途次にあたる壱岐対馬の島民に、侵略の可能性を一切報じていない)。

 古松軒は「鬼は人の心のなかに住んでいる。農民を苦しめる堕落した役人も鬼であり、農民に無法な年貢をかけて、すべて奪い取る地頭もまた鬼である」。 当時は、多くの卑属な伝説があり、人々はそれを疑うことなく信じていた。古松権はこういう実態に強い拒否感をもった。時代背景から推敲すると、この人物がかなり現代的な科学的思念への感心を持っていたことが判る。

 当時、幕府による天下統一という面はあるが、国法、家法、村法、藩法と、制度はばらばらで、人の命の重さを知らぬことを悲しい現実だと明言してもいる。要するに、人権を主軸に据えた法がどの法にもないとの指摘である。

 当時、幕府は全国を、欧州、関東、東海道、北国、五畿内、中国、四国、九州の8地区に分けたのは1681年の五代将軍だった。

(現代でも、これに北海道を加えて地方自治体を合併して数を減らせば、人々の生活はもっと楽になるのではないか。県などはなくてもかまわない)。

 また、林子兵(1738-1793)の蝦夷の地理がでためであることを批判。話を聞いただけで地図を作ったとしか思えない。「蝦夷黄金の地」などという根も葉もない説はばっさりと切り捨てた。 林子兵は後日、処分される運命にある。

 こうした自由な紀行文を可能にしたのは、全国的道路の整備、宿泊所の増設、川を渡る船、自由人や学者が旅に出ることができるようになったことが背景にあり、印刷技術が発達したこともあるが、なによりも吉宗将軍がそれを奨励,することで、日本人が自分の国がどうなっているのかに関心をもつようになったからだとある。

 それまで、日本人による紀行文は平安時代から伝統的に続く歌枕(うたまくら)をベースとした「花鳥風月」主体の文章しか書かず、古い歌の知識を損なうことを避け、むしろ古い歌の権威を認めていたのが、個人が個人としての目で事象をはっきり見、飢饉に見舞われた見聞記も見聞したままの惨状を、人肉を食う話を含め、ありのままに描き、それが、ときには地方領主への批判ともなった。そういう古松軒の「現に非ざれば、信じざりき」という姿勢を、後年、柳田国男は評価している。

 地理学者、貝原益軒(1630-1714)をシーボルト(1796-1866)は「日本のアリストテレス」と賞賛した。益軒は知識の伝達と普及の重要性に覚醒、漢文調ではない和文で紀行文を書き、多くの読者の啓蒙に努めた。これは一種の個人主義の誕生であり、益軒の実証主義は時代を継ぎ本居宣長(1730=1801)に影響を与えた。

 本居宣長は日本文化に一貫している精神が喜怒哀楽を素直に素朴に表現することで、それは「もののあわれ」であることを認識している。

 高山彦九郎(1747-1793)は「北行日記」のなかで、東北で見た飢饉の実態を見たまま記述し、土地の人間が牛、馬、犬、鶏、野草を食い、しまいには死んだ人間の肉を食った話を書いている。八戸(はちのへ)の二万石の城下だけでも6万人が餓死、猟師町の宮古では人間を食わなかったのは庄屋と酒造屋の二軒だけだったと記している。

 橘(1753=1805)は、伊勢の人だが、虫眼鏡(顕微鏡)、遠眼鏡(望遠鏡)に多大な関心を寄せ、小さい世界にはさらに小さい世界が存在し得ること、大きな存在にはさらに巨大な存在があり得ることを認識、望遠鏡を使って、土星に帯があり、木星に環があることをも確認している。

 司馬江漢(1747-1818)は、いみじくも、この時代に以下のように発言してはばからなかった。

 1.日本画というも、すべて中国の真似。

 2.日本は何一つ発明していない。

 3.日本人は宇宙の法則などに関心がなく、天文学のみならず地理学にも関心がない。

 4.僧侶は総じて役立たず、悟りなど開いていない衆愚と同じ。

 5.儒者は、書物を読むだけで、物事の道理を探る机上の空論を語るのみ。

 6.人間も動物の一種に過ぎない。

 以上、 日本人の科学的関心の低さを指摘、「自然の法則」を知ることの重要性、価値を説いている。

 蘭学者たちと交流のあった司馬江漢はコペルニクスの「地動説」を理解し、受容していた。「地球が粟の一粒の種にすぎ、化石の存在は遠い将来、地球が滅することを示唆していることを予言している。

 鎖国政策により、海外へ渡ることを禁じられていたため、造船にも制限が加えられ、大型船の造船も禁止されたから、技術的な面での遅れは必然だった。したがって、海洋に出航しての大掛かりな漁業というものは発達せず、近海に小船を出しての漁業に依存、漁民も貧窮に喘いだし、物資を運ぶ廻船も小型で、陸地が見える範囲という「有視界航行」しか許されなかったし、そういうレベルの船舶は荒れた海ではは操船しにくかったばかりか、強風には滅法弱かった。(この事情が多くの難破船を生じさせた)。

 宮廷文化を意識し、宮廷への遠慮をみせざるを得ない立場にある人ほど、頭のなかに進歩、発展がなく、その点、同じ大名でも、松浦青山(1760-1841)、平戸藩主の紀行文は大名の生活における内面を紀行文のなかに書き、後世に遺した業績は小さくない。

 また、中国を批判している。「中国は世界の中心ではないし、かれらが誇る漢字も、世界に多くある文字の一つに過ぎない。」

 また、下層階級にあった、旅芸人「宮本繁太夫」の書いた「筆満可勢」(ふでまかせ)は一介の旅芸人の日常に触れ、人間関係の機微にも触れ、当時の各地に旅した経験を綴り、エピソードあり、ユーモアありの、庶民感覚の旅行記となっていて、棄てがたいものがある。

 松浦武四郎(1818-1888)は、1854年に蝦夷に渡り、各地を探検、生涯に江戸から四度往復している。

 「アイヌ式トイレは樹幹に2本の棒を横たえ、屋根も囲いもなく、その2本の木の間に座し、尻を出し、しゃがんで用便をするという仕組み、雨降りのときなど、びしょ濡れになった犬がたくさん私の糞を食べようとして、先を争い、尻の下に首を差し入れてきて、それが歯を剥きだし、いがみあっている。犬の濡れた毛が尻に触れ、尻はもとより衣類にもいっぱい泥がかけられ、そのうるさいこと、気持ちの悪さに辟易した」とあるが、日本の紀行家にこういう場面を描いたものはなく、情景が目に浮かぶようだ。

 西欧人も、日本の和式のトイレにはいろいろな不都合や嫌悪感があるに違いないが、一人としてその紀行文にそうしたことは書いていない。排泄や性行為を書くことは紳士道に反するとのキリスト教的な恥の考えがあったためだろうが、「その点では、日本人のほうが一歩先んじており、現代性を身につけいたといっていい」と作者はいう。

 ペリー以降、開国、蝦夷開拓は急務となって、新政府は武田四郎の経験を買い、初の「開拓大主典」に任命、札幌が北海道の首都に選ばれたことも彼の提案による。

 1870年、彼が辞任した理由は、開拓がアイヌ文化の崩壊を結果することに賛成できなかったらといわれる。(当時、北海道はもとより、アイヌと先祖を同じくする他民族の居住地域は樺太(現・サハリン)から黒竜江沿岸の奥地にまで及んでいたことは間宮林蔵の手記によって理解できる)。

 上記した優れた人物による主張は、全国各地にある個性豊かな文化、方言の温存だったが、明治新政府の採った手法は統一国家、純一言語、日本民族の優位性などといった狭いナショナリズムをはるかに越える低次元のものだった。とはいえ、共通語を民に学ばせなければ、国家というものを成立させることはできず、民が同じ国の同じ土地に居住する国民同士という連携感もつちかわれることはない。

 さらに、これは読み手としての感想だが、大陸から離れた島国で平和に埋没していた国が外国の軍艦に威嚇され、無理やり開国された側として考えれば、「これに負けてなるものか」という志向に走るのも当然の帰結であり、現に、西欧諸国は世界に植民地をつくり、アフリカ、中近東、インド、ヴェトナム、インドネシア、ボルネオ、フィリピンを抑え、中国を狙っていた時期である。明治新政府が焦って、富国強兵を図った心底もよく判るし、自国の文化的遅れの認識から他文化への尊重心が芽生えたのであろう。植民地化そのものへの関心が列強になかったら、領土の拡大もあり得ず、現在のアメリカそのものがあり得なかったことになる。

 この著者はアメリカ人であり、当然ながら、アメリカ大陸を舞台に繰り広げられた西欧人による現地人の殺戮、虐殺、強奪の歴史をもよく知っているはずだ。


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