醜い日本の私/中島義道著

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醜い日本の私

「醜い日本の私」 中島義道(1946年生)著
ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了、哲学博士、電気逓信大学人間コミュニケーション学科教授
新潮選書  2006年12月初版

 作者はいきなり、日本のどこにでも在り得る典型的な商店街の写真を見せ、その醜さに瞠目するように仕向ける。作者が指摘する、狭い道路、猥雑な看板や垂れ幕、道路にまではみだした商品、色も形も様々な建造物、あちこちに放置された自転車、突き立つ電柱の連なり、幾重にも垂れ下がった電線が青空の美しさを遮る風景。

 確かに、風景は醜いが、ほとんどの日本人は、電車に乗ったときのスピーカーで怒鳴る注意を耳にするのと同じ様子で、なんでもないように通過していく。看板や垂れ幕には、外国語と異なり、漢字、平仮名、片仮名、ローマ字が統一なく並んでいるため、いっそう醜悪で猥雑な印象を濃厚にする。

 (現在、発展途上国にさえ存在しない電信柱と電線の風景は、国が発展していく過程がぴったりはまったとしか言い様がない。日本にはその力があったから、電柱をつくり、電線を通し、自宅に電話を設置し、使えるようになった。上空に張り出した電線が醜いから、上でなく地下に埋める手法も案出されたが、そのときには、日本はすでに電柱の設置を完了した後だった。発展途上国は、今では携帯電話が普及したため、電柱にも電線にも煩わされることなく、美しい景色が残っている。皮肉というしかない。ただ、当時、電話を行政上支配していたのは、かつての電電公社であり、電柱や電線を敷設する業者には電電公社からも天下りがあり、である以上、途中から地下への変更は経費負担の増となる限り、その挙には出なかったに違いない)。

 人にもよるが、ほとんどの人にとって、現代の日本の風景や駅頭でのスピーカーは生まれたときから存在したもので、それが耳障りだ、醜い光景だと、あらためて口に出すには、あまりに慣れすぎた生活空間になっている。

 世界のどこに行っても、これほど醜い風景はざらにはないとの指摘も正鵠を得た意見だと思う。日本を初めて訪れる外人なら、誰もが、電車の乗降に際しての過剰なアナウンスにもホームの向かい側に張られた横断幕にも驚愕するのは真実である。「エッフェル塔を真似た東京タワーは貧しい国の貧しい発想だ」という作者の意見にも異論はないが、桜の季節に、展望台から覗く増上寺の桜はまた格別の美しさではある。

 欧州の宮殿を囲う庭園のシンメトリックな風景を日本人は美しいとは思わない。日本人に特有の美意識には、なにかしらの不調和、欠落、定型的なバランスを嫌う習性もある。にもかかわらず、地方自治体は相も変わらず、醜い団地を整然と並べ、無味乾燥な風景をあえてつくるという作者の意見にも賛意を表したい。

 京都人ですら、鴨川沿いの料理屋から対岸を越えて望見できる東山を愛ではするが、鴨川の反対側から見るかれらの料理屋がひどく不揃いで、醜悪な景観を形作っているかには気を配らない。日本人はどうやら内から外へは関心をもつが、外から内へは関心をもたないらしいという作者の意見もどうやら当を得ているようだ。

 金沢でも、武家屋敷があり、忍者屋敷があり、兼六園が存在する都会だが、頭上には電柱と電線が幾重にも連なっている。誰も、それを無粋だとか、醜悪だとか、不快だとか口にしたのを聞いたことはない。明らかに、欧米の人なら感ずる美意識が欠落している。

 「わび」「さび」の文化を愛する日本の至るところで、なぜ、けばけばしい色で絢爛豪華に塗りたくった、例えばお祭りのとき、「ねぷた」「竿灯祭り」「七夕」「祇園囃子」などを喜ぶあまりなのか、極彩色のものを嫌うはずの日本人が祭り時にはがらりと精神的様相を変容させてしまう。それぞれがどう精神的に、あるいは心理的に連携しているのか。

 花見でどんちゃん騒ぎをする人を叩き潰したいとは思っても、みずから花見酒をやってみたいなどとは思ったことはない。

 (どんちゃん騒ぎ好きな人間だって、単独ではできず、団体になるからやれるに違いない。日本政府がかつてアメリカに送ったポトマックリバーの桜は日本の桜より密度もあり、どんちゃん騒ぎの代わりにミス・サクラ・コンテストを開き、きわめてのどかに桜見物の人が散策する。桜を愛でる気持ちに国籍による差異はなさそうに思える。ただ、桜の木の下に場所取りをし、酒を飲んで騒ぐバカはアメリカにはいない)。

 日本の画家は現実の日本の醜い光景を避けて描いている。

 志賀直哉、川端康成、芥川龍之介、堀辰雄、太宰治など、神経が細かく、美意識をもった作家でありながら、日本の街の汚さに嘆くこともなく、気づきもしなかった。

 「日本では個人が単独でいかなる偉業を達成しようとも、絶対にそれを自分の力だけで達成したとは言ってはならず、必ずみなさまのご支援のおかげですといわねばならない」と作者は言うが、競技会で応援してもらうことはしばしばあり、それに対して礼を口にするのはこの国では礼儀になっている。確かに、この国では「北朝鮮に拉致された家族が可哀想ではない」などと言ってはいけないし、無学な主婦が亭主をなくし、女手ひとつで子供を育てあげれば賞賛の声に同意しなければいけないし、渋谷で男たちの金を頼ってあちこち遊びほうけている若い女たちには不快を覚えねばならないといった、一種の感情統制を社会的に受けることはあり得る」。(それぞれの国や土地に、その土地特有の倫理観、道徳観、心情があることは否定できない)。

 ギリシャの哲学以来、美への憧憬には普遍的な合目的性が加味されたが、美醜への普遍性はなく、人によって感じ方が違う。ただ、一定以上に逸脱すると、排除、迫害、場合によっては無視の対象となる。マジョリティーはマジョリティーの感覚、感情、感受性を即座に理解できるが、マイノリティのもつ多様性への理解には前向きな人間がいたとしても、理解できるまでには時間がかかるであろう。

 渋谷を歩けばパチンコ屋、たこ焼き屋、レストラン、居酒屋、デパートなどなどが軒を連ね、下劣で、醜悪で、卑猥で、欲望むき出しの地獄絵のような風景をつくっている。若者たちはそこを平気で、むしろ柔和な顔つきで通り過ぎていく。「不快になれ!」と叫んでも、無駄であることは自明の理。

 (かつて、日本人は華美を嫌い、素朴で、質素であることを好んだ。米国の初代大使のハリスが伊豆下田から天城を越え、初めて江戸市中に入り、将軍に謁見したとき、「日本の為政者は他国の支配者のようなきらびやかな装飾に囲まれてもいず、着用している和服もきわめて質素だった」と述懐している。とはいえ、一方で、吉原に在った廓(くるわ)のように、きらびやかであることを宿命づけられた場所も存在したし、宮島や平等院のように中国風に真っ赤に塗られた建造物もあったし、為政者が自己顕示欲を表現する目的で、金閣寺や日光東照宮なども創られただけでなく、安土桃山時代には金ぴかの派手な外装内装が施された建造物もあった。戦後は、欧米の影響を受け、ことに女性らは化粧をするようになり、パヒュームを使うようになり、服装にはデザインを配慮し、ブランドものを身につけ、色彩にも意を用いるようになった。われわれの眼に映る日本国内の光景のなかに、今後も、けばけばしい色合いのものは増えこそすれ、減ることはないだろう)。

 一方、「欧州には駅頭での喧騒、商店街での猥雑さなどはない、はるかに穏やかで、平和である」というが、(サッカーのときのフーリガンはどうなんだ?、サッカー場内での欧州人同士の喧嘩はどうなんだ?、スペインでつい最近までやっていた牛を殺す闘牛場はどうなんだ?。どこかの国で行われるオレンジだかトマトのぶつけ合いはどうなんだ?スペインの牛を放し人間どもを追いかけさせる命がけの祭りはどうなんだ?、ドイツの川を挟んでものをぶつけあう祭りはどうなんだ? それらを美しい景色とでもいうのか?)

 (アメリカの銃社会がときに破天荒な大量殺人を犯すけれども、これだって精神的にきわめて醜悪である。欧州にだって一年に一回という仰々しい祭はほかにもある。自転車競技も、F1レースもそういう例。あの轟音のほうが日本の喧騒よりましだと言いたいのなら、なにも日本に在住している必要はない。世界中どこでも、一年に一回くらいのバカ騒ぎはあるもので、作者の見方には若干自虐的な側面があるように思われる)。

 「振り込め詐欺に引っかかる国民は世界中で日本人しかいない。日本人のアホさ加減、お人善しを表している」とのコメントがあるが、確かに、おっしゃる通りかも知れないが、この国は元々、「人の性は善なり」という性善説がこれという理由もなく脳裏から消えない民族であって、人は悪いことをするものだという前提で社会システムが創られていない。振り込め詐欺を抑止する手法がいつまで経っても受身であり、社会的なシステムを決定的に変更しようとしないことは欧米から見ても、発展途上国からみても、嘲笑の対象でしかない。振り込め詐欺を抑止するための最も簡単な手法は、キャッシングする人物がヘルメットや帽子やサングラスをつけているとキャッシングできなくすればよいことで、日本人自身の中途半端な性善説を変えさせようとすることには無理がある。だいたい、ATMがブルトーザーで運んでしまえること自体、世界に例がない。

 こういう書物に、オリンピックの選手の名を出して、たとえば、「北島康介は傲慢で嫌い」だとか、「野口みずきは蛙みたいで嫌悪をもよおす」とか、そういうことを書く神経が私には不可解である。きわめてまともなことを書いている一方で、突然変異のように幼児性を表出する作者の人間性そのものにも問題があるような気がしてならない。

 ことに女子マラソンの選手は体脂肪、内脂肪を絞りに絞り、良くて生理不順、一般的には生理が止まってしまうほどの食事制限に耐えながら連日の練習を行うという事実に関して、野口みずきに限らず、Qちゃんにせよ、土佐礼子にせよ、がりがりに痩せるまで体を絞って鍛えることへの思いやりに欠けているか、無知かの、いずれかであって、学者としての知識に偏向が強いことに驚きを覚える。むしろ、日本の女子マラソン陣が強い理由がそこにあることを知るべきだし、それでもなおかつ野口みずきなどは飛ぶように走ることの可能な能力、そのパワーに底知れぬ力を感ずるのがマラソン世界の常識というものである。


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