イギリスとヨーロッパ/細谷雄一編(その1)

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イギリスとヨーロッパ

「イギリスとヨーロッパ」  細谷雄一以下、10人の国際政治史、外交史の専門家による著作
副題:孤立と統合の二百年
帯広告:揺れるアイデンティティ、二百年の軌跡
勁草書房より  2009年1月15日 単行本初版
¥2800+税

 本書は長いだけでなく、初の知見が多いこともあって、書評を幾つかに分けて書くが、ほとんどは私の備忘録ではあるものの、ときに(   )内に私見を述べることとする。

書評「その1」

 本書は、イギリスの外交史、とくに欧州大陸との、過去200年にわたる関係について詳細に論じた学術書である。

 イギリスと日本とは相似性をもちながら、一方で大きく背反するものも併せもっている。

 相似点は大陸に近い島国であること、両国ともにアメリカとの同盟関係を重視しつつも、海のすぐ向こうに横たわる大陸側諸国の動きを無視できぬことだが、同じ大陸でも、欧州には相互に近似性をもちあうベースがあるが、アジアは過剰な多様性に満ち、アジアがEUのような枠組みを構築するのは容易なことではない。

 「かつて七つの海を支配してきたプライドと、帝国の衰退期以降、とくに第二次大戦後にグローバル化した経済に関する認識とがぶつかりあっているイギリスの実態は、ここ十年来、急速に経済力を上昇させてきた中国との関係を模索すべき立場にある日本の置かれている状況と相似の関係にあり、多少の違いはありながらも、両国にとって喫緊の問題になっている」

 1973年に、迷いながらもECに加盟したイギリスは、今日でも「やっかいなパートナー」と呼ばれることが多く、大戦後に逸早く「欧州共同体をつくるべきだ」と発言したのはイギリスのチャーチル首相だったにも拘わらず、彼は過去長期にわたり、「We are with Europe, but are not of Europe」とも言っており、EC加盟後に初めて「We are in Europe」との言葉を口にしたという。

 「とはいえ、1999年に発足した新通貨体制のEUへの参加は見合わせ、強大な軍事力と経済力をもつ鬼っ子でもあるアメリカとの連携を深める方向に偏った。これには、1961年に欧州統合のリーダーシップを採っていたフランスにEC加盟の申請を行なったところ、ときの大統領ドゴールに1963年に拒否された苦い過去があったことも影響していた」。

 過去の「2世紀」とはナポレオン戦争以後を意味し、イギリスはその間、経済的に孤立と統合のはざまで揺れ動いてきた。伝統的に大陸と距離をおくことで自国の安全と利益を確保すべく、背景として圧倒的な海軍力を持つに至った。「関与はしないが、自国を守る意志を鮮明にした」ともいえる。

 ナポレオンによるワーテルローの戦い以降、オーストリアが主軸となり、ウィーンで講和会議が開かれたため、以後100年にわたる平和の時代を、「ウィーン体制」と称し、メッテルニヒが主導した。

 プロイセンがオーストリアとの戦争で領土を拡げ、ドイツ帝国を樹立した功労者はビスマルク。

 1912年前後の陸軍力の比較では、イギリスは相変わらず脆弱だった。ドイツが78万、オーストリアが40万、フランスが70万、ロシアが130万に対し、イギリスは僅かに15万だった。大陸に侵攻しての戦争にかかわろうとしない最大の理由であり、やむを得ぬ場合を想定してのアメリカとの同盟だったことが判る。

 面白いのは、1914年に勃発、1918年に終結した第一次大戦時、戦争責任を負ったドイツのヴィルヘルム2世はイギリス女王、ヴィクトリアの孫であり、連合軍の一国、ロシア皇帝ニコライ2世はヴィクトリア女王の孫娘の夫だったことだ。国を異にする王室同士の婚姻を利用した、いわゆる「王室外交」は、ヴィクトリア女王健在の時代には盛んに行なわれた。

 第一次大戦後の講和会議に出席した戦勝国はイギリス、フランス、イタリア、アメリカ、日本の5か国だが、イギリスはフランスの対ドイツ講和条件が過剰だとして抑制させたが、そこにはドイツを弱小国にせず、ロシアの強大化に対する防波堤としての役目を担わせようとの目論みがあった。欧州全体の強調を目指し、後の国際連盟樹立への支持があったからだ。

 (日本はイギリスとの同盟関係から、ドイツが領有していたアジアにおける植民地を悉く奪取(パラオ、トラックなど)したほか、艦隊を地中海にまで派遣、イギリスの領有するマルタ島を基地としつつ、連合軍の輸送船、艦船などの護衛の任を担った)。

 ところが、1924年になると、僅か戦後6年で、ドイツの恐怖が欧州全体に再び渦巻くようになった。ドイツはフランスへの賠償金の支払いも滞らせていた。

 ことに、ドイツがチェコと問題を起こしたとき、事後のミュンヘン会議において、イギリスはチェコを見捨ててしまい、そのことがドイツを一層増長させ、1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦へと向かわせる直接的な原因となった。結果として、欧州だけではドイツを抑えることが出来ず、アメリカによる参戦によって、勝利を得た。

 イギリスは戦後の1948年、ブリュッセルでフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグと5か国による西欧同盟を成立させ、条約に調印した。(国際連盟が簡単に破壊された事実への反省もあっただろう)。

 ただ、この同盟では、フランスの主張する「西ドイツを国家として認め、支援していこう」とする動きにイギリスは同調しなかった。フランスが連邦主義的構想(後のEC/EU)を進める一方で、イギリスはやはりアメリカとの同盟を軸とした大西洋同盟という枠組みを優先させた。

 (この傾向は、東西冷戦後はとくに強い絆のもとに運営された)。

 ここまでのイギリスの歴史をまとめると、伝統的に欧州大陸にかかわることに嫌悪感が強く、こうした情意的なものが国民の根にあるため、ときの首相や外相によっては欧州へのかかわりを強めた時期もありはしたが、一環して流れるのは、時代が変わっても、「孤高」の立場で、フリーハンドでいることを評価する傾向である。ために、ときに頼りにならないイギリスを、欧州では「不実な白鳥」と呼称した。大陸からドーヴァー海峡を渡ると、初めに視野に入るブリテン島が白いための命名。

 背景には、アメリカとの連携に傾く、また傾くことのできる立場にあって、アメリカの強大さのおかげで、現実に、第一次、第二次、両大戦に戦勝国になっている。イギリスはアメリカの独立戦争を唯一の例外として、敗戦経験をもたぬ国であるが、そのときのイギリスは欧州各国から支援を失っていたときだった。

 つまり、イギリスは第二次大戦がもたらした疲弊も世界恐慌も欧州大陸とではなく、自治領やアメリカとの結びつき、ブリティッシュ・ドミニオン、コモンウェルスとの結束によって乗り越えようとした。

「書評・その2」に続く


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